8.魔女の墓標

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平城遷都千三百年祭
1.最強の巫女
2.事実上の夫婦
3.希代の策士
4.敵情偵察
5.二重スパイ
6.寝るしかない
7.和気王の変
8.魔女の墓標

 伊豆流刑と決まった和気王は近衛大将・藤原蔵下麻呂率いる近衛府の兵士が、同じく紀益女は外衛大将・藤原田麻呂(たまろ)率いる外衛府の兵士が護送することになった。田麻呂は藤原雄田麻呂の兄であり、雄田麻呂もまた益女の護送に従ったのである。
『益女を殺せ!』
 道鏡の密命を果たすためであった。
 それでも雄田麻呂は迷っていた。
 時折、益女のせいで唇をむにょむにょさせながら、まだ迷っていた。
 このときの彼はまだ、希代の策士にはなりきれてはいなかった。
(人にはできることとできないことがある。「女帝の命を救ってくれ!」それはできる。「益女と寝ろ!」それもできた。しかし、「益女を殺せ!」はできない。できるはずがない!)

 一行は都を出た。
 人家もまばらになり、人気がなくなってきた。
『都から出て人気がなくなったらすぐに殺して戻って来るのだ』
「できるかあー!」
 雄田麻呂は叫んだ。
 またまた、唇がむにょむにょしてきた。
 ちゅーちゅー!ちゅぱ!ちゅぱ!ちーぱっぱ!
「えーい!うっとうしいっ!」
 雄田麻呂は口をへの字に食いしばると、益女をしかりに行った。
「いい加減にやめてくれよ!朝からずっとじゃないかっ!」
「だって〜、ほかにやることないんだもーん。いーじゃない、ほかの人にはわからないんだから〜。路チューしてるわけじゃあるまいし〜」
 益女は小声になった。
「ねえ。どこでする?」
「何を?」
「あなたがドクロを守ってくれたおかげで、あの二人をいつでもどこでも殺
(や)れるのよ。どこでする〜?」
「しないよ」
「まさか伊豆まであたいについてくるの?伊豆で一緒に暮らしたいの?」
「行かないよ」
 雄田麻呂は言い、心の中だけで続けた。
(君も伊豆には行けないんだ……)
「は?どういうことなの?」
 益女は聞き返してきた。
 雄田麻呂が口に出していないのに聞き返してきた。
 雄田麻呂はハッとなった。
(しまった!そうだった……。益女は心で思っただけで解るんだった……)
「それって、どういうこと?」
 雄田麻呂は悲しげに益女を見つめた。
 益女はその前からじっと見つめていた。
 そこへ後を行く蔵下麻呂から報告があった。
「和気王を絞殺しました」
 山背狛野
(こまの。京都府精華町)にある石塚古墳が和気王の墓だと伝えられている。享年不明。時に天平神護元年(765)八月一日。
 蔵下麻呂は迫った。
「今度は兄さんの番です」
「そういうことだったのね……」
「ううう……」
 雄田麻呂は益女をにらんだ。
「君は魔女だ!」
 自分に言い聞かせてにらみつけながら、ギラランと剣を抜いた。
 益女は雄田麻呂のドクロを抱きしめて、黙って見つめ返してきた。
 雄田麻呂は剣を振りかぶった。
 そのまま固まってしまった。
 蔵下麻呂が促した。
「どうしました?道鏡禅師の命令は絶対ですよ」
「分かっている!」
「まさか、兄さんは、そのケタクソ悪い女と……」
「違うー!」
「だいたい兄さんには妻子があるんでしょうがーっ!」
「関係ねえー!」
「面倒だ!オレが殺りましょう!」
「殺るなーっ!私が殺るんだーっ!でも、ちょっと待った!待ってくれえ!待ってくれって言ってるんだよおー!」
 騒ぎを聞きつけて田麻呂もやって来た。
「どうしたんだ?」
雄田麻呂兄さんが変なんです〜」
雄田麻呂、どうした?うわっ!何を罪人と見つめ合っているのだ!?」
「……」
「惚
(ほう)けたか、雄田麻呂!分かっているな?長兄広嗣の乱(「暴発味」参照)で没落した我らが式家は、長年辛酸をなめ続けてきたが、仲麻呂の乱で女帝と道鏡側につき、奇跡の復活を果たしたのだ!いいか!我ら兄弟が今あるのは、女帝と道鏡のおかげなのだっ!せっかく手に入れた地位を棒に振るようなことはするなっ!栄華へは時間がかかるが、没落へは一瞬なのだっ!」
「分かっています!それは分かっていますけど、私はこの女と話がしたいのですっ!どうかしばらくの間、ほんの少しの間だけ、話をさせてくださいっ!私は、私はっ、自分の心に、決着をつけたいのですっ!」
 いつにない雄田麻呂の剣幕に、田麻呂は折れた。
「わかった。ほんの一時だ。我々は罪人が逃げないようにしばらくの間遠巻きに囲っている。その間に話すがいい」
 田麻呂は外衛兵たちに命じた。
 蔵下麻呂は近衛兵たちに命じた。
 兵たちはじりじりと遠巻きになった。
 雄田麻呂と益女の二人だけを輪の中に残して――。

 益女が雄田麻呂のドクロを大事にわきに置くと、残りの二つのドクロを乱暴に取り出して並べた。
「これはあなたの作戦?」
「……」
「ここであたいが女帝と道鏡を呪い殺せば、あの兵たちは、もうあたいたちに手出しできないのよ」
「ごめん」
「どうして謝るの?」
「君はもう、女帝も道鏡も呪い殺すことはできない。私がドクロの髪の毛をすり替えておいたから。道鏡の髪の毛を死んでる名もなきオッサンの髪の毛に。そして、女帝の髪の毛を君の髪の毛に……」
「……」
「ハハッ!私は君をだましていた!全部ウソだったんだ!君に近づいたのも何もかも……。道鏡の命令だったんだよっ!そうだよ!私も道鏡と一緒だよっ!あなたは道鏡にだまされ、私にもだまされたんだっ!私はひどい男だ!私は君をずっとだましていたんだーっ!」
「ウソよっ!あたいは人の心の中が解るのっ!あなたがウソをついていれば、あたいは感づいたはずよっ!」
「だからそれは結果論だっ!初めはそうじゃなかったけど、君と逢っているうちに、本当に好きになってしまったんだ!だから君は見抜けなかった!だから私に、結果的に完全だまされたんだっ!」
「結果論でもいいのっ!今現在現時点であたいを好きならそれでいいのっ!あたいを好きになった男は、みんなみんなあたいから離れていった……。あたいはもともと紀寺の婢だった。みんながあたいをいじめ、嫌い、ひどい目にあわせた……。あたいは悔しくて、呪術を習った。呪術で一番になって、みんなを見返してやろうと思った……。あたいは一番になれた。みんなをひれ伏させることができるようになった。でも、それは表向きだけで、誰もあたいを怖がって好きになってくれなかった!中には奇跡のような人がいたけど、結局彼らもあたいを気味悪がって去っていったのよっ!――でも、あなたは違った。あなたは、あなただけは、今でもあたいのことを好きなはずよっ!世界中でたった一人だけ、今でもずっとあたいのことを好きなはずよっ!そうじゃなかったら、こんなことするわけないじゃない!すぐに殺すに決まっているじゃない!最後の最期に、どーせ殺される女に、真実を話してくれるはずないじゃないっ!――あなたはすごいわ。あなたはあたいと寝る前に『私はすごいよ』って言ってたけど、本当にすごかったわ……。ありとあらゆる面でほかの男どもを超越していたわ……。あたいはあなたに出会えてうれしかった……。愛してるよ……。どうしようもないくらい愛しているのっ!あたいはもうここで死んでもいいっ!大好きなあなたの心を独り占めしたまま死ねるなら本望よっ!もうこれでおしまいでいいのよっっっ!!」
 益女はニセ道鏡のドクロを払いのけると、ニセ女帝、つまり、自分の魂の入ったドクロを前に置き直して祈り始めた。
「さよならっ!これが割れたらあたいの命は終わりよっ!」
「そんなことはさせないっ!」
 雄田麻呂は益女のドクロを奪い取って抱きしめると、代わりに自分のドクロを益女の前に置いた。
「君が割るのはこっちだ!私は剣で君のドクロをたたき割る!それと同時に君は私のドクロを祈り割るんだっ!」
「そんなことしたらあなたは……、あたいと一緒に……」
「いいじゃないかっ!君の本望は、私にとっても本望なんだーっ!私たちは同志だっ!運命共同体なんだーっ!私は、愛している君と一緒に死にたいんだーっ!今ここで一緒に死にたいんだよーっ!」
「だってあなたには妻子が――」
「言うなー!ここは君と私の世界だっ!私と君、二人だけの世界なんだっ!私は君だけのことを考えている!君は私のことだけを考えればいいんだーっ!」
「うええ〜ん」
 益女はボロボロ泣き出した。
 雄田麻呂も泣きながら、自分のドクロと益女のドクロをくっつけて置いて、彼女の肩を抱いた。
「一緒に割ろう」
「うん」
「そうすれば、私たちはずっと一緒だよ……。ずっとずっと、永遠に、永久に、君は私だけのことを好きで、私は君だけのことを好きなんだ……。もう誰にもじゃまされることはないんだよ……」
「ううう……、うん……、うん……」
 雄田麻呂は益女のドクロの前で剣を振りかぶった。
 益女は雄田麻呂のドクロの前で印を結んで呪文を唱え始めた。
 風が強くなってきた。
 雲が濃く黒くなってきた。
 雷鳴がとどろき始めた。
 二つのドクロは赤みを増した。
 同じ間隔で点滅し始めた。
 二人の息はピッタリであった。
「行くよ。あの世で逢おう」
「うん」
「えーい!」
 ぱっかーーーーーーーん!


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現在の松井村(京都府京田辺市)周辺

 ドクロは割れた。
 でも、一つだけしか割れなかった。
 益女はドクロを割らなかった。
「うぐぐ………」
 益女はうっぷした。
 雄田麻呂は自分だけ何ともないことに気がついた。
 彼は倒れていた益女を抱き上げてしかりつけた。
「なぜだー!? なぜ私のドクロを割らなかったんだーっ!?」
 益女はフッと笑った。
「あたいの……、ほうが……、すごかった……、からよ……」
 彼女は雄田麻呂の腕の中で、幸せそうにほおを寄せて勝ち誇っていた。
「ここは、あたいの……、さいこーの……、いばしょ……」
 そして、うれしそうに事切れた。
「ウッワァァァァーーーーーーー!!!」
 雄田麻呂は泣いた。爆涙した。そして、号泣絶叫した。
「こんなの反則だあぁぁーーーっっっ!私は負けていないっっっ!すごいのは、益女なんかじゃないっっっ!! 私のほうなんだあーーーーーっっっ!!!」

 都へ帰った雄田麻呂は、道鏡に無機質に復命した。
山背国綴喜郡松井村
(京都府京田辺市)にて、紀益女を殺しました」
「御苦労」
「では、失礼します」
 帰ろうとした雄田麻呂に、道鏡が尋ねた。
「もう、チューの妄想はしないのか?」
「しませんよ」
 雄田麻呂は振り返って笑みを見せた。
「永遠にしていたかったんですけどね……」

[2010年3月末日執筆]
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