2.影武者やります | ||||||||||||||
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やがて父・武田信虎を追放して強引に家督を奪った長兄・晴信のち信玄は、天下へと驀進(ばくしん)し始めました。
私はといえば、ますます絵の世界に没頭していました。
現存する「武田信虎像(大泉寺蔵)」「大井夫人像(長禅寺蔵)」「十二点図(高野山成慶院蔵)」「十王図(同蔵)」などは私が描いたものです。
以前は有名な「伝武田信玄像(成慶院蔵)」も私の作品と思われていましたが、あれは私の絵の師・長谷川等伯(「ロス味」参照)の作品と思われますし、モデルも長兄ではない可能性があります。
一方、次兄信繁が第四回川中島の戦(「撤退味」参照)で戦死して以降、私は親族衆の重鎮として多くの家来を任せられ、信濃高遠(たかとお。長野県伊那市)城主にもなりましたが、あいかわらず戦のほうは家臣に「丸投げ」でした。
あるとき、私は長兄に頼みました。
「私を京都に上らせてください。京都で最先端の絵の勉強をしたいのです」
すると長兄は言いました。
「まもなく、武田の旗が京都にたなびくであろう。時を待て」
【武田氏略系図】(赤字は女性。重要人物のみ。異説あり) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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長兄は予告どおり上洛の兵を挙げました。
元亀三年(1572)十月のことです。
「織田信長と徳川家康をたたきのめし、天下を盗るのじゃ!」
十二月、長兄は徳川・織田連合軍を遠江三方原(みかたがはら。静岡県浜松市)で粉砕(「惨敗味」参照)、京都を目指しましたが、にわかに発病して危篤に陥りました。
穴山信君(あなやまのぶきみ。後の梅雪。信虎の孫・信玄の女婿。「穴雪味」参照)・一条信竜(いちじょうのぶたつ。信虎の八男または七男)ら親族衆は困り騒ぎました。
「どうするんじゃー! こんなときにー!」
「退却すれば、織田・徳川に何かあったとかんぐられよう!」
長兄の継嗣・武田勝頼は言いました。
「父は『自分が死んだ場合、三年間は死を隠すように』と言われた。とりあえず逍遥軒殿を影武者にするよう言われた」
「なるほど。逍遥軒殿はパッと見、お館様に似ているからな」
一条は納得したが、穴山は不安でした。
「すぐに見抜かれると思うが、ほかに手はあるまい」
こうして私は重態になった長兄の格好をさせられました。
私は近くを通った騎馬隊の猛将・馬場信房(ばばのぶふさ。信春)にマジな顔をして声をかけてみました。
「わし、信玄ですよっ」
馬場は吹き出しました。
「おっしゃらなくとも、拝見すりゃわかりますがな」
この通り、たいていの人はごまかせましたが、穴山らは苦笑しました。
「あまりこちらから声をかけないように」
「しばらく病気養生のため甲府へ戻り、再起に備える」
長兄は甲斐へ戻る途中で死にましたが(私は以後落髪して「信綱」と改名しますが、この物語では「信廉」で通します)、その死は内密にされました。
で、引き続き私が長兄のふりをし続けたのです。
赤備えの勇将・山県昌景(やまがたまさかげ)らは、私の姿を見て言いました。
「なんかこのごろ、お館様に覇気が感じられないな。うーん、なんというか、どことなくおかしい――。こんなことを言うのも失礼だが、ちょっと脳ミソが足りなくなったような……」
穴山は必死でごまかしました。
「病気なんじゃ。仕方あるまーい。そんなにジロジロ主君の御尊顔を見なーい」
もっと不審がったのは敵将・徳川家康でした。
「なんじゃ?勝ちまくっているのに、なぜ武田は退却するんじゃ?」
近臣・酒井忠次(さかいただつぐ)が教えてあげました。
「信玄入道は病気でございまする」
「引き返すということは、相当重いということか?」
「さあ。もう死んでたりして」
「まさか……」
家康は笑いましたが、忍者・服部正成(はっとりまさなり。半蔵)を放ってみました。
まもなく、服部は長兄の格好をした私の姿をして、がっかりしました。
「なんだ。生きてるじゃ〜ん」
でも、そのがっかりは一瞬でぶっ飛びました。
服部は私がニセモノだということを見破ったのです。
「違う! あれは影武者だ! 信玄入道なんかじゃない! あのバカ面が、信玄入道であろうはずがない! ハハハーッ! なんてオソマツな影武者だ!」
服部は家康に長兄の死を報告しました。
「本当じゃな?間違いないな?」
「ええ。信玄は死んだか、あるいは病気で超越バカになったかどちらかでしょう」
「そうか!それはよかった!」
家康は喜びました。そしてこのことを信長にも報告したのです。
こうして織田・徳川領では、長兄の死は定説になりました。