29.ウシ味 基礎用語集

芥川竜之介(あくたがわりゅうのすけ)
 (1892-1927) 小説家。菊池寛(きくちひろし・かん)らと1914第三次・1916第四次「新思潮(しんしちょう)」を創刊し、『羅生門(らしょうもん)』『芋粥(いもがゆ)』『鼻』『地獄変』『奉教人の死』『戯作三昧(げさくざんまい)』『枯野抄』『歯車』『河童(かっぱ)』『或阿呆(あるあほう)の一生』『蜘蛛の糸』『杜子春』『藪の中』などを執筆、
1935文芸春秋社が彼を記念して芥川賞を設けた。

安愚楽鍋(あぐらなべ)
 仮名垣魯文(かながきろぶん)の滑稽本。1871-1872作。牛鍋店で文明開化を賛美する人々を描いた。

安徳天皇(あんとくてんのう)←言仁親王(ことひとしんのう)
 (1178-1185) 伝八十一代天皇(在位1180-1185)。高倉(たかくら)天皇の皇子。母は建礼門院(けんれいもんいん)。二歳で即位するが、平家とともに都を離れ、1185壇ノ浦(だんのうら)の戦で入水させられた。

井伊直弼(いいなおすけ)
 (1815-1860) 大老。近江彦根(ひこね)藩主。1857-1858将軍継嗣問題では、南紀派(なんきは)として徳川慶福(とくがわよしとみ。家茂)を推し、徳川斉昭(なりあき)・松平慶永(まつだいらよしなが。春岳)ら一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ。徳川慶喜)を推す一橋派と対立、1858大老に就任し、勅許を得ずに日米修好通商条約を調印、神奈川(のち横浜)・長崎・新潟・兵庫を開港し、江戸・大坂の開市(かいし。商売)を許可、自由貿易を承認し、領事裁判権・協定関税などを規定、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結ぶ(安政の五か国条約)が反発多々、1858-1859安政の大獄で吉田松陰(よしだしょういん)・橋本左内(はしもとさない)らを処刑し、斉昭・慶永・近衛忠煕(このえただひろ)・梅田雲浜(うめだうんびん)・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)らを弾圧するが、1860桜田門外の変で水戸浪士らに暗殺された。

犬追物(いぬおうもの)
 騎射の練習法の一つ。流鏑馬(やぶさめ)・笠懸(かさがけ)とともに騎射三物の一。馬場に放した犬を馬上から射た。犬を害さないように矢は蟇目(ひきめ)を使用した。

院政(いんせい)
 上皇(譲位した天皇)や法皇(出家した天皇)が実質的に国政を行う形態。1086白河(しらかわ)上皇が初めて行い、1840光格(こうかく)上皇が没するまで断続的に行われたが、1221承久(じょうきゅう)の乱以降の院政は形式的。

江戸(えど)
 現在の東京都都心。江戸時代の政治の中心地(首都)。1457太田道灌(おおたどうかん)が江戸城を築いて栄え、1590徳川家康(とくがわいえやす)が入城により発展、江戸時代中期に人口百万人を超え、1868明治天皇が行幸して東京と改められ、日本の首都になった。

江戸幕府(えどばくふ)=徳川(とくがわ)幕府
 (1603-1867) 江戸時代の武家政権。1603徳川家康(とくがわいえやす)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されたことに始まる。徳川氏が代々将軍に就任、老中(ろうじゅう)が政務を統括し、臨時に大老(たいろう)が置かれた。1867十五代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が朝廷に大政奉還(たいせいほうかん)、1868-1869戊辰(ぼしん)戦争をへて幕府は解体した。

円仁(えんにん)=慈覚大師(じかくだいし)
 (794-864) 天台宗僧。山門派(さんもんは)の祖。比叡山(ひえいざん)で最澄(さいちょう)に学び、横川(よかわ)に首楞厳院(しゅりょうごんいん)を建立、838-847入唐して天台教学を学び、『入唐求法巡礼行記(にっとうぐほうじゅんれいこうき)を執筆、第三代天台座主(てんだいざす)として伽藍の整備に努め、『金剛頂経疏(こんごうちょうきょうしょ)』などを著した。

延暦寺(えんりゃくじ)
 滋賀県大津市比叡山(ひえいざん)所在。天台宗(てんだいしゅう)総本山。山号比叡山。785最澄(さいちょう)が入山し、788一乗止観院(いちじょうしかんいん比叡山寺)を建立、唐から帰国後に天台宗を開き、823最澄死後に「延暦寺」の勅願を賜与、仏教の中心地として栄え、南都(興福寺)と並んで北嶺(ほくれい)と呼ばれた。

大輪田泊(おおわだのとまり)
 現神戸港。五泊(いつのとまり)の一。瀬戸内海の要衝の湊で、『行基年譜(ぎょうきねんぷ)』や三善清行(みよしきよゆき・きよつら)意見封事十二箇条に行基の造営とある。平安末期に平清盛(たいらのきよもり)が拡張し、鎌倉時代以降は兵庫津(ひょうごのつ)として、明治時代以降は神戸港として繁栄した。

園城寺(おんじょうじ)=三井寺(みいでら)
 滋賀県大津市所在。天台宗寺門派(てんだいしゅうじもんは。天台寺門宗)の総本山。山号長等山。大友皇子(おおとものおうじ)の子・与多王(よたおう)の創建と伝え、859円珍(えんちん)が再興、山門派(さんもんは)の延暦寺(えんりゃくじ)と天台宗の正統を争った。国宝不動明王像(黄不動)など、多くの寺宝が伝わる。

仮名垣魯文(かながきろぶん)
 (1829-1894) 戯作者。1860『滑稽富士詣』で売り出し、『西洋道中膝栗毛』『安愚楽鍋(あぐらなべ)』などで文明開化の世相を
風刺、1875仮名読新聞を創刊した。

鎌倉(かまくら)
 現在の神奈川県鎌倉市。源頼朝が幕府を開いて政治の中心となる。1333幕府は滅亡するが、室町時代には鎌倉府が置かれ、東国支配の中心となった。

桓武平氏(かんむへいし)
 平氏のうち、桓武天皇から出た一族。桓武天皇第五皇子・葛原(かずらわら)親王の子の子孫が最も栄えた。 葛原親王の王子・高望(たかもち)王の流れからは、平将門(たいらのまさかど)・平清盛(きよもり)・北条時政(ほうじょうときまさ)ら多くの武人を輩出した。

京都(きょうと)
 現在の京都府京都市。府庁所在地。政令指定都市。ユネスコ世界文化遺産。794桓武天皇による平安京遷都から1868明治天皇による事実上の東京遷都まで日本の帝都として繁栄、明治維新後も文化の中心として発展した。

公卿(くぎょう)
 古代の閣僚。上級官人層。公(太政大臣・左右大臣)と卿(大中納言・参議・その他三位以上の者)のこと。中世以降は武家に実権を奪われ、概して国政を担うことはなくなった。

源信(げんしん)=恵心僧都(えしんそうず)
 (942-1017) 天台宗僧。比叡山で良源(りょうげん)に学び、985『往生要集(おうじょうようしゅう)』を著して浄土信仰を確立、「横川首楞厳院二十五三昧式(よかわしゅりょうごんいんにじゅうござんまいしき)」を制定し、1004権少僧都に任じられた。

源平盛衰記(げんぺいじょうすいき・せいすいき)
 鎌倉〜南北朝時代の軍記物語。四十八巻。編者は不明だが、葉室時長(はむろときなが)説・玄慧(げんえ)説等がある。『平家(へいけ)物語』の異本とされているが、独自の逸話も少なくない。

孝徳天皇(こうとくてんのう)←軽皇子(かるのおうじ・かるのみこ)
 (596?-654) 伝三十六代天皇。茅渟王(ちぬのおう・ちぬのおおきみ)の子。母は吉備姫王(きびつひめのおおきみ) 645即位し、難波長柄豊碕宮(なにわながらのとよさきのみや)へ遷都、646改新の詔を発し、公地公民制を基本方針とした諸政策を行うが、後に皇太子の中大兄皇子と対立、654難波で没した。
ウソ味

興福寺(こうふくじ)
 奈良県奈良市所在。法相宗(ほっそうしゅう)大本山。藤原氏の氏寺。藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が建立した山階(やましな)寺をその子・不比等(ふひと)が奈良に移したもの。平安時代以降は北嶺(延暦寺)と並んで日本の仏教教学の中心となり、中世には大和国守護を兼ねた。

畿内(きない)=五畿(ごき)=山城国(やましろのくに)+大和(やまと)国+河内(かわち)国+摂津(せっつ)国+和泉(いずみ)国・七道(しちどう)=東海道(とうかいどう)+東山(とうさん)道+北陸(ほくりく)道+山陽(さんよう)道+山陰(さんいん)道+南海(なんかい)道+西海(さいかい)道
 古代の行政区分。首都(西海道は大宰府)を起点にした官道(主要道路)が通っていた。以下の七つ。所属国・国数・郡数は平安中期のもの。⇒旧国名一覧

後白河法皇(ごしらかわほうおう)←後白河上皇(じょうこう)←後白河天皇(てんのう)←雅仁親王(まさひとしんのう)
 (1127-1192) 伝七十七代天皇(在位1155-1158。院政1158-1179,1181-1192)。鳥羽(とば)天皇の皇子。母は待賢門院(たいけんもんいん)。1155弟・近衛(このえ)天皇没後に父に推されて即位するが、兄・崇徳(すとく)上皇と対立、1156父の死後の保元(ほうげん)の乱で兄を破って配流し、1158皇子・二条(にじょう)天皇に譲位して院政を開始、1159平治(へいじ)の乱を経て平清盛(たいらのきよもり)と対立、1179幽閉されて院政を止めさせられるが、1181清盛没後に院政を再開、源義仲(みなもとのよしなか)、次いで源頼朝(よりとも)と結んで平氏を倒させ、歌謡集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を編集、「年中行事絵巻」を作らせた。
衆道味

滑稽本(こっけいぼん)
 庶民の日常生活に取材したユーモア小説。十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』、式亭三馬(しきていさんば)の『浮世風呂(うきよぶろ)』『浮世床』などが有名。

士族(しぞく)
 明治維新後に旧武士階級に与えられた身分呼称。華族の下。平民の上。石高に応じて家禄が与えられたが、秩禄(ちつろく)処分により廃され、生活苦の余り反乱を起こす者もあった。

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)≦将軍
 蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための軍事長官。奈良時代にあった征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。もとは東国で兵乱が起こったときの臨時職であったが、1192源頼朝(みなもとのよりとも)が任命されて以後、武家の最高指導者の称号となった。  将軍味

清和源氏(せいわげんじ)
 清和天皇の皇孫・経基王(つねもとおう)が源(みなもと)姓を賜って臣籍降下されたことに始まる氏族。平安後期、桓武平氏(かんむへいし)と並んで武家の棟梁(とうりょう)になり、主に関東地方に地盤を作った。源頼朝(よりとも)・義経(よしつね)・足利尊氏(あしかがたかうじ)・新田義貞(にったよしさだ)ら多くの武人を輩出した。

平清盛(たいらのきよもり)
 (1118-1181) 武将・公卿。太政大臣。忠盛(ただもり)の子。1156保元(ほうげん)の乱で後白河(ごしらかわ)天皇について勝利し、平治(へいじ)の乱でライバル源義朝(みなもとのよしとも)を討滅、1160武士として初めて参議になり、1167太政大臣に昇進(翌年辞任)、妻の妹・滋子(しげこ)を治天の君・後白河天皇(上皇・法皇)に、娘・盛子(もりこ)を摂関家の藤原基実(ふじわらのもとざね)に、娘・徳子(とくこ)を高倉(たかくら)天皇に嫁がせ、1177鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀で俊寛(しゅんかん)・藤原成親(ふじわらのなりちか)・西光(さいこう)ら反対派を排除、1179後白河法皇を幽閉して院政を停止させ、1180外孫・安徳(あんとく)天皇即位を実現、福原(ふくはら。兵庫県神戸市)遷都を強行し、大輪田泊(おおわだのとまり)を修復して日宋(にっそう)貿易を行った。

大老(たいろう)
 江戸幕府における最高職。臨時職で、酒井(さかい)・土井(どい)・井伊(いい)・堀田(ほった)という十万石以上の譜代大名から選ばれた。1638三代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)が土井利勝(としかつ)・酒井忠勝(ただかつ)を任じたのが最初。
   

高倉上皇(たかくらじょうこう)←高倉天皇←憲仁親王(のりひとしんのう)
 (1161-1181) 伝八十代天皇(在位1168-1180。院政1180)。後白河(ごしらかわ)天皇の皇子。母は平滋子(しげこ・じし。建春門院)。1166立太子し、平清盛(たいらのきよもり)の娘・徳子(とくこ。建礼門院)と結婚、1179父が清盛によって幽閉され、1180子・安徳(あんとく)天皇に譲位して院政を行った。

太政大臣(だじょうだいじん・だいじょうだいじん)
 律令制における最高責任者。太政官の最高官。常置ではなく、適任者がいなければ欠員。671大友(おおとも)皇子が任じられたのが最初。臣下初の太政大臣は857藤原良房(ふじわらのよしふさ)。

知行国(ちぎょうこく)
 特定の皇族・貴族・寺社に一国の支配権を与えること。またはその国。知行国主は子弟や近臣を国司に推薦し、目代を派遣して現地で国務に当たらせ、収入の大部分を拾得した。院政・平氏政権下で盛行した。

秩禄処分(ちつろくしょぶん)
 金禄公債の交付を代償として華族・士族への家禄支給を止め、封建的俸禄制度を廃止したこと。これにより、地租改正とともに封建的領有権が解体され、近代的土地所有権が確立した。
   

天智天皇(てんちてんのう・てんじてんのう)←中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
 (626-671)伝三十八代天皇(在位668-671)。舒明(じょめい)天皇の第一皇子。母は皇極(こうぎょく)・斉明(さいめい)天皇。中臣(藤原)鎌足とともに645蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼし、大化の改新を断行、663白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦で唐・新羅に大敗した後、667近江大津宮(おうみのおおつのみや)に遷都し、668近江令(おうみりょう)を編集、670庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成した。 ウソ味 日朝味5

東大寺(とうだいじ)=金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)=総国分寺(そうこくぶんじ)=大華厳寺(だいけごんじ)
 奈良市所在。華厳宗大本山。南都七大寺の一。前身は金鐘寺(こんしゅじ)。大勧進行基(ぎょうき)。開基良弁(ろうべん)。745聖武(しょうむ)天皇が盧舎那仏(るしゃななぶつ)造立のため、市原王(いちはらおう)・佐伯今毛人(さえきのいまえみし)らに命じて創建し、752本尊の盧舎那仏の開眼法要を行った。1180平重衡(たいらのしげひら)に焼かれたが、鎌倉時代に重源(ちょうげん)らが復興、1567松永久秀(まつながひさひで)に焼かれたが、江戸時代に再び復興された。
印度味

徳川斉昭(とくがわなりあき)
 (1800-1860) 常陸水戸藩主。治利(はるとし)の子。藤田東湖(ふじたとうこ)・会沢正志斎(あいざわせいしさい。安)らを登用し、検地・軍備増強・弘道館(こうどうかん)設立など藩政改革を行い、1853ペリー来航後は海防参与として攘夷を主張、1857-1858将軍継嗣問題では一橋派として息子・一橋慶を推すが、徳川慶福(よしとみ。家茂)を推した井伊直弼(いいなおすけ)ら南紀派に敗れ、1858日米修好通商条約調印にも反発し、1858-1859安政の大獄で処罰された。

徳川吉宗(とくがわよしむね)
 (1684-1751) 江戸幕府八代将軍(在職1716-1745)。紀伊和歌山藩主・徳川光貞(みつさだ)の子。1705紀伊藩主として藩政改革を行い、1716将軍に就任して1716-1745享保(きょうほう)の改革を断行、有馬氏倫(ありまうじのり)・加納久通(かのうひさみち)を側御用取次(そばごようとりつぎ)に、大岡忠相(おおおかただすけ)を江戸町奉行に、勘定奉行に神尾春央(かんおはるひで)を登用し、御庭番(おにわばん)を新設、1720町火消(まちひけし)・1721目安箱(めやすばこ)・1722小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)を設置し、倹約令・1719相対済令(あいたいすましれい)・1722質流し禁止令・1723足高(たしだか)の制などを制定、定免法(じょうめんほう)を採用し、1720漢訳洋書輸入緩和・1722上米(あげまい)・株仲間公認などを実施、新田開発や甘藷(かんしょ。サツマイモ)・甘蔗(かんしゃ。サトウキビ)・櫨(はぜ)・朝鮮人参栽培を勧め、1742『公事方御定書(くじがたおさだめがき)』を完成、1745息子・家重(いえしげ)に将軍職を譲り、大御所として後援した。
物価味

渡来人(とらいじん)=帰化人(きかじん)
 4〜6世紀に朝鮮や中国から日本に移住してきた人々。大陸の先端技術を有するものが多く、ヤマト政権の政治や文化に大きな影響を与えた。秦(はた)氏の祖・弓月君(ゆづきのきみ
)、東漢(やまとのあやうじ)氏などの祖・阿知使主(あちのおみ)、西文(かわちのふみ)氏の祖・王仁(わに)が有名。

日宋貿易(にっそうぼうえき)
 平安中期〜鎌倉中期に行われた日本と宋(中国)との貿易。宋からは銅銭・陶磁器・香料などを輸入し、日本からは硫黄・刀剣・砂金などを輸出した。平清盛(たいらのきよもり)は大輪田泊(おおわだのとまり)を修復して積極的に行った。

省 名 主な職掌
中務(なかつかさ)省 天皇の重要事務
式部(しきぶ)省 学校管理・文官人事
治部(じぶ)省 冠婚葬祭・外交
民部(みんぶ)省 民政
兵部(ひょうぶ)省 軍事・武官人事
刑部(ぎょうぶ)省 刑罰・訴訟
大蔵(おおくら)省 出納・宝物管理
宮内(くない)省 宮中庶務

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。

八省(はっしょう)
 律令制において太政官に直属する八つの官庁の総称。八省の名称および職掌)は右のとおり。

比叡山(ひえいざん)
 京都府京都市と滋賀県大津市の境を成す山。標高八四八メートル。山頂に延暦寺(えんりゃくじ)が、山麓に園城寺(おんじょうじ)がある。

平等院鳳凰堂(びょうどういんほうおうどう)
 京都府宇治市所在。平等院は藤原の頼通の別荘を寺に改造したもの。鳳凰堂は1053建立の阿弥陀堂(あみだどう)で、国風文化の代表的建築物。定朝(じょうちょう)作の阿弥陀如来像がある。

武士(ぶし)=侍(さむらい)=武者(むしゃ)
 武芸をおさめて軍事にたずさわった者。

文明開化(ぶんめいかいか)
 世の中が開けて便利になること。特に明治初年の近代化や欧化主義の風潮をいう。

平家物語(へいけものがたり・へいげものがたり)
 軍記物語の一。鎌倉時代成立。『徒然草』によると後鳥羽上皇代に信濃前司行長(しなのぜんじゆきなが)が執筆。 平家一門の興亡を描き、琵琶法師(びわほうし)・生仏(しょうぶつ)らによって語り広められた。

平治の乱(へいじのらん)
 1159院近臣・藤原信頼(ふじわらののぶより)と源氏の当主・源頼朝(みなもとのよしとも)らが院近臣・藤原信西(しんぜい。通憲)や平氏の当主・平清盛(たいらのきよもり)らに対して起こした反乱。信頼・義朝らは清盛が熊野詣に出かけている間に後白河(ごしらかわ)法皇の三条殿を急襲、信西を討って朝廷の実権を握るが、戻ってきた清盛に六条河原で敗れ、信頼は処刑され、義朝は東国へ落ち延びる途中で殺された。変異味

保元の乱(ほうげんのらん・ほげんのらん)
 1156上皇派(崇徳上皇・藤原頼長・源為義・平忠正ら)と天皇派(後白河天皇・藤原忠通・源義朝・平清盛ら)が京都で戦った内乱。戦いは天皇派の夜襲が成功し、一日で決着。頼長は敗死し、為義・忠正らは処刑され、崇徳上皇は讃岐へ流された。

源為義(みなもとのためよし)
 (1096-1156) 武将。義親(よしちか)の子。1108父が平正盛(たいらのまさもり)に討たれたため、叔父・義忠(よしただ)の養子となり、1109養父を殺害した叔父・義綱(よしつな)を討伐、強訴鎮圧に参加し、左衛門尉(さえもんのじょう)・検非違使(けびいし)などを歴任、1154八男・為朝(ためとも)乱行の責任を取って隠居し、長男・義朝(よしとも)に家督を譲渡、1156保元(ほうげん・ほげん)の乱で崇徳(すとく)上皇につき、敗れて処刑された。

源範頼(みなもとののりより)
 (?-1193?) 武将。頼朝(よりとも)の弟。藤原範季(ふじわらののりすえ)の庇護を受けて育ち、1180兄の挙兵に参加、弟・義経とともに平家を滅ぼし、三河守に任じられるが、1193曽我(そが)兄弟仇討事件で兄に疎まれ、伊豆へ流されて暗殺された。

源義経(みなもとのよしつね)
 (1159-1189) 武将。頼朝(よりとも)の弟。藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の庇護を受けて育ち、1180兄の挙兵に参加、1184源義仲(よしなか)を滅ぼし、一の谷(いちのたに)の戦い・屋島(やしま)の戦い・1185壇の浦(だんのうら)の戦いで平氏を破って滅ぼしたが、頼朝と不和になり、陸奥平泉(ひらいずみ)で藤原泰衡(ふじわらのやすひら)に殺された(北海道以北に落ちのびたという説もある)。

源義朝(みなもとのよしとも)
 (1123-1160) 武将。為義(ためよし)の子。1153下野守となり、1154家督を継承、1156保元(ほうげん)の乱で後白河(ごしらかわ)天皇について勝ち、左馬頭(さまのかみ)に就任するが、清盛らと対立、1159平治(へいじ)の乱で院近臣・藤原信頼(ふじわらののぶより)と結び、院近臣・藤原信西(しんぜい。通憲)を討つが、平清盛(たいらのきよもり)に敗れ、東国へ落ち延びる途中、尾張で長田忠致(おさだただむね)に殺された。

源義仲(みなもとのよしなか)=木曽(きそ)義仲
 (1154-1184) 武将。源義賢(よしかた)の子。源頼朝(よりとも)・義経(よしつね)らの従兄弟。父の死後、乳母の夫・中原兼遠(なかはらかねとお)に養育され、1180以仁王(もちひとおう)の令旨に応じて信濃木曽で挙兵、1181北陸道を制圧し、1183倶利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで平氏を破って上洛、1184後白河法皇(ごしらかわほうおう)から征夷大将軍に任じられるが、源義経・範頼(のりより)兄弟に近江粟津(あわづ)で敗死した。
ウシ味

源頼朝(みなもとのよりとも)
 (1147-1199) 武将。鎌倉幕府初代将軍(在職1192-1199)。父は源義朝(よしとも)。1159平治(へいじ)の乱で父とともに平清盛(たいらのきよもり)と戦って敗れ、1160捕われて伊豆へ流刑、1180以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を受けて伊豆で挙兵、石橋山(いしばしやま)の戦いで大庭景親(おおばかげちか)に敗れるが立て直し、富士川(ふじがわ)の戦いで平維盛(これもり)を撃退、鎌倉(かまくら)を本拠に軍事政権を築き(後の鎌倉幕府)、侍所(さむらいどころ)・1184公文所(くもんじょ。後の政所)・問注所(もんちゅうじょ)を設置、1185平氏を滅ぼし、諸国の守護(しゅご)・地頭(じとう)任命権と兵粮米(ひょうろうまい)の徴収を許され、1189奥州(おうしゅう)藤原氏を倒し、1190右近衛大将(うこのえたいしょう)・1192征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任した。

源頼政(みなもとのよりまさ)
 (1104-1180) 武将・公卿・歌人。源頼光(よりみつ)の子孫。仲政(なかまさ)の子。早くから白河(しらかわ)・鳥羽(とば)上皇(法皇)に仕え、1156保元(ほうげん)の乱で源義朝(よしとも)らと後白河(ごしらかわ)天皇について勝利、1159平治(へいじ)の乱も平清盛(たいらのきよもり)に味方し、勝って公卿に列したが、1180以仁王(もちひとおう)を奉じて平家打倒を画策、露見して宇治で敗死した。

以仁王(もちひとおう)=三条宮(さんじょうのみや)=高倉宮(たかくらのみや)
 (1151-1180) 後白河(ごしらかわ)天皇の皇子。八条院(はちじょういん)の猷子として皇位継承者に目されるが、1180安徳天皇即位で破綻(はたん)、1180源頼政(みなもとのよりまさ)と平家打倒を図り、以仁王の令旨を発して源氏諸将に挙兵を呼びかけるも発覚、平知盛(とももり)・重衡(しげひら)らに宇治(うじ。京都府宇治市)の平等院(びょうどういん)で敗死した。

文武天皇(もんむてんのう)
 (683-707) 伝四十二代天皇(在位697-707)。草壁皇子(くさかべのみこ・おうじ)の皇子。天武(てんむ)天皇・持統(じとう)天皇の孫。祖母から皇位を譲られ、701刑部親王(おさかべしんのう。忍壁皇子とも)・藤原不比等(ふじわらのふひと)らが完成させた大宝律令(たいほうりつりょう)のうち、令を701に、律を702に施行した。

横浜(よこはま)
 現在の神奈川県横浜市。県庁所在地・政令指定都市。近世までは漁村。1858日米修好通商条約ほか安政の五か国条約により1859開港。生糸の輸出など幕末貿易の八割を占め、維新後も文明開化の窓口として繁栄、日本一の国際貿易都市・日本第二の大都市に発展し、京浜工業地帯の中核となった。
外国味

陸軍省(りくぐんしょう)
 陸軍の一般軍制事務を担当した中央官庁。1871設置の兵部省陸軍部を起源とし、1872発足。初代陸軍卿は山県有朋(やまかたありとも)。1945廃止。

歴史チップスホームページ

inserted by FC2 system