2.不機嫌な老人 | ||||||||||||||
ホーム>バックナンバー2020>令和二年6月号(通算224号)ロス味 本能寺が変!2.不機嫌な老人
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嫌な夢だった。
本能寺で上様(織田信長)が殺される夢だった。
目が覚めた時には、全身汗びっしょりになっていた。
拙者は松野一忠(まつのかずただ)――。
通称・正介(しょうすけ。正助)。
拙者自身の知名度は低いが、吉田松陰という有名な子孫がいる。
拙者は二年前の天正八年(1580)から、上様の馬廻(うままわり)をしている。
牢人になった拙者を上様が拾ってくれたのである。
馬廻とは、今でいう護衛である。
(その馬廻が、上様が荒木村重に襲われた時に何をしていた?)
何もできなかった。
たとえ夢でも許せなかった。
(しかも、本能寺を襲撃したのは、土岐宗芸公を担いだ大殿(安藤道足)とは……)
衝撃だった。
拙者は牢人になる前、大殿に仕えていた。
拙者にとっては、今の上司が前の上司に殺された夢を見たことになるのである。
あり得なくはなかった。
「まさか、この年になってボロ雑巾(ぞうきん)のように捨てられるとは思わなかった……」
大殿は上様を恨んでいたからである。
そうである。拙者が牢人になった理由は、大殿が上様に解雇されたからなのである。
二年前、大殿と若殿(安藤尚就)父子は上様に追放された。
大殿と一緒に、佐久間信盛(さくまのぶもり)・信栄(のぶひで)父子、林秀貞(はやしひでさだ。佐渡守)、丹羽氏勝(にわうじかつ)といったベテラン家臣たちも追い払われた。
『安藤伊賀(道足)父子は武田に内通している疑いがある』
それが大殿と若殿が追放処分を受けた表向きの理由だった。
しかし、大殿は信じていなかった。
「違うな。佐久間は怠慢、氏勝は信長暗殺未遂が理由で追放されたのだが、わしと佐渡殿は、ただただ年を取ったから捨てられたのじゃ!
織田家臣団に七十や八十のジジイは不要と言うことじゃ! 使えるうちはこき使うが、使えなくなればポイ捨てする!
信長とはそういう男よ! ペッペッ!クソッタレがー!」
大殿が武田に内通していたかどうかはわからないが、大殿の娘婿・遠藤慶隆(えんどうよしたか)が織田と武田で二股をかけていたのは事実である。
遠藤は若殿と仲が良かったため、その線で疑われたのであろう。
『伊賀には裏切りの遍歴がある。裏切って余の下に来た者は、いつまた余を裏切るかわからぬ』
確かに大殿は「転職」遍歴を重ねてきた。
大殿は最初、美濃守護・土岐頼芸公に仕えていたが、守護代・斎藤道三(さいとうどうさん。利政・秀竜・山城守。「斎藤氏系図」)様の勢力が強くなると、すかさず道三様配下に「転職」した。
道三様よりその子・斎藤義竜(よしたつ。高政)様の勢力が増してくると、あっさり義竜様配下に「転職」した。
義竜様が亡くなり、その子・斎藤竜興(たつおき)様がボンクラとみると、とっとと見限って上様配下に「転職」した。
三度の「転職」の際、常に大殿と行動を共にしてきた二人の武将がいた。
大殿とともに美濃三人衆(西美濃三人衆)に数えられている、稲葉一鉄(いなばいってつ。良通・伊予守)と氏家卜全(うじいえぼくぜん。直元・常陸介。「氏家氏系図」参照)である。
一鉄は存命だが、卜全は第一次長島一向一揆攻めの際、太田口の戦で討ち死にした(「暴力味」参照)。
大殿のグチは止まらなかった。
「かわいそうに、卜全はあの戦いで信長を逃がすために死んでしまった。あの戦いではわしの息子の一人(安藤守宗?)も死に、わし自身も重傷を負ってしまった。信長はわしの見舞いに来てくれたが、本当は見舞いに来たのではない。わしがまだ使えるかどうかを確かめに来たのじゃ。そして、くたばっていたわしを見て思ったのであろう。(こいつ、もう使えねえな)と。確かに信長はそんな顔をしていた。しかしわしは見事に復活してやった! わしはその辺の年寄とは違う。日々、体を鍛えているからな。人間は裏切るが、筋肉は裏切らない。その後もわしは信長に求められるまま戦場を駆け巡り続けた。北は加賀、南は伊勢、東は三河、西は播磨まで各地を転戦してやった。そんなわしが武田への総攻撃の前にお払い箱にされた!
わしが武田に裏切るとでも思っていたのか! ペッペッ!クソッタレがー!」