4.頑強!真田幸村!!

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愛知長久手立てこもり事件
1.狡猾!徳川家康!!
2.失望!片桐且元!!
3.結集!負け組共!!
4.頑強!真田幸村!!
5.錯乱!お茶々様!!

 十月一日、徳川家康は諸大名大坂城攻めを指令した。
 十一日、家康はわずか数百人で駿府城を出発、二十三日には将軍徳川秀忠が五万余騎を率いて江戸城を発った。
 同日、家康京都の二条城に入城、十一月十五日に二人は別れて出陣し、十七日に家康は住吉大社
(すみよしたいしゃ。大阪市住吉区)に、秀忠は平野(ひらの。同市平野区)に着陣した。
 十八日、家康秀忠と茶臼山
(ちゃうすやま。天王寺区)で軍議を開き、攻城方針を決定したが、十二月までは住吉大社を本陣にしていたと思われる。

 徳川方は全国から続々と大坂に集結した。
 加賀金沢
(石川県金沢市)藩主・前田利常(まえだとしつね。利家の子)越前北庄(きたのしょう。福井県福井市)藩主・松平忠直(まつだいらただなお。家康の孫)陸奥仙台(宮城県仙台市)藩主・伊達政宗紀伊和歌山(和歌山県和歌山市)藩主・浅野長晟(あさのながあきら。長政の子。幸長の弟)播磨姫路(ひめじ。兵庫県姫路市)藩主・池田利隆(いけだとしたか。輝政の子。「2002年8月号 怪談味」参照)出羽米沢(よねざわ。山形県米沢市)藩主・上杉景勝出羽秋田(秋田県秋田市)藩主・佐竹義宣(さたけよしのぶ)伊勢(三重県津市)藩主・藤堂高虎(とうどうたかとら)土佐高知(高知県高知市)藩主・山内忠義(やまうち・やまのうちただよし。一豊の甥)近江彦根(ひこね。滋賀県彦根市)藩主・井伊直孝(いいなおたか。直政の子)阿波徳島(徳島県徳島市)藩主・蜂須賀至鎮(はちすかよししげ。家政の子)陸奥盛岡(岩手県盛岡市)藩主・南部利直(なんぶとしなお)長門(山口県萩市)藩主・毛利秀就(もうりひでなり。輝元の子)伊勢桑名(くわな。三重県桑名市)藩主・本多忠政(ほんだただまさ。忠勝の子)伊勢亀山(三重県亀山市)藩主・松平忠明(ただあきら。家康養子。奥平信昌の子)出雲松江(島根県松江市)藩主・堀尾忠晴(ほりおただはる。吉晴の孫)上野館林(たてばやし。群馬県館林市)藩主・榊原康勝(さかきばらやすかつ)などなど、総兵力は十九万四千人(十五万〜三十万とも)と伝えられている。
 ちなみに安芸広島
(広島県広島市)藩主・福島正則(ふくしままさのり。「2007年3月号 芸人味」参照)筑前福岡(福岡県福岡市)藩主・黒田長政(くろだながまさ)伊予松山(愛媛県松山市)藩主・加藤嘉明(かとうよしあき)肥後熊本(熊本県熊本市)藩主・加藤忠広(ただひろ。清正の子)阿波徳島藩祖・蜂須賀家政(いえまさ)は参戦を許されず、江戸の留守を任されるか、帰国させられた。
 また、片桐且元も徳川方に参陣した。

 本多正信が言った。
「城攻めには城方の最低三倍の兵力が必要といいますが、二倍ほどの兵力だけで大丈夫ですかな?」
 家康は笑った。
「なあに。この戦は城を落とすことにあらず。淀殿を落とすのじゃ」
 正信は、はたと手を打った。
「そうでしたな。大御所は城を落とすより、女を落とすほうが得意でしたな。特に人妻を――」
「ほっとけ!」

 十九日、徳川方の蜂須賀至鎮隊三千が豊臣方の明石全登隊三百の守る穢多崎砦を急襲、瞬時にしてこれを陥落させた。
「え、もう落ちたの?」
 全登は軍議のため大坂城内にいたため、砦に帰ることもできなかった。

 二十六日、徳川方の佐竹義宣隊千五百が大野治長配下の矢野正倫(やのまさとも)・飯田家貞(いいだいえさだ)三百が守る今福砦(いまふくとりで。城東区)を攻撃、砦は陥落し、両将は戦死した。
 豊臣方は木村重成・後藤基次三千を繰り出して逆襲、義宣配下・渋江政光
(しぶえまさみつ)らを討ち取るなどしてこれを蹴(け)散らした。
 同日、治長配下・小早川左兵衛
(こばやかわさへえ)ら三百の守る鴫野砦(しぎのとりで。城東区)を上杉景勝隊五千が攻撃、豊臣方は渡辺糺隊が、徳川方は堀尾忠晴隊等が救援して激戦となったが、決着は付かなかった。

 月末までに豊臣方の新家・野田・福島・博労淵・天満(北区)・船場諸砦が陥落、十二月初めには、治長が張り巡らした城外の砦が壊滅し、徳川方が大坂城を完全包囲する形になったのである。

 こうなってくると、目立つのは城の南方に不自然に飛び出ている真田丸である。
「なんとかならぬか」
 真田丸と対陣する前田利常はイラついていた。
 幸村はただ守るだけではなく、時折、篠山
(ささやま)なる小山まで出撃してきてそこから鉄砲を撃ちかけてくるのである。
「そうだ! 篠山を占領してしまえばいいのだ」
 そこで利常配下・奥村栄顕
(おくむらひであき)がひそかに篠山を急襲したが、誰もいなかった。
 その様子を見ていた真田丸の兵士がはやし立てた。
「へっ!敵がいないところを攻めていやがる。何たる臆病者だ!それとも鳥追いにでも来たのか?ちゃんちゃらおかしーぜ!」
「ヤロー!」
 キレた奥村隊の兵士の何人かが真田丸の空堀をわたって強引に攻め寄せようとしたが、
「それー!今だー!」
 だだだーん!
 ぴゅんぴゅーん!
 ゴロンゴロン、ドカーン!
 鉄砲や弓矢や岩石なんかをバンバンお見舞いされて、何人かがオダブツになった。
「タワケがー!!」
 利常は栄顕を処罰したが治まらない。
「クソ真田!このままですむと思うなよっ!」
 配下の本多政重
(まさしげ)はフムフム感心していた。
「さすがに徳川を二度もこてんぱんにやっつけたことのある武将は違いますなー」
「うれしそーに『こてんぱんにやっつけた』って言うなー!余らは徳川の味方であるぞっ!」
「あ、そうでした」
 十二月四日、利常は松平忠直・井伊直孝らとともに真田丸に猛攻を加えたが、葬式を増やしただけであった。

「真田丸、どうしても落ちません〜」
 報告を受けた茶臼山の家康は、
「ならば調略するのみよ」
 と、幸村の叔父・信尹を真田丸へ差し向けて説得させた。
大御所はこう言われた。『味方に付くのであれば、十万石を与える
(一説に三万石)』と。お前がその気になれば、本多正純殿が誓書を書くそうだ」
「ありがたい話ですが、私はすでに秀頼様から手付金として黄金二十枚と銀三十貫目をいただき、勝利のあかつきには五十万石の大大名にしてくださることになっております。え? え? その私を十万石で引き抜こうと? フン! ケタが違うのではございませんか?」
 幸村は断って追い返した。
「ダメでした」
 帰ってきた信尹に、正純が耳打ちし、もう一度真田丸に遣わせた。
「叔父上、またござったか。何度でも答えは同じですよ」
「いやいや。今度は味方に下れば信濃一国を与えるとの仰せじゃ。大御所も正純殿も、お前を敵にしたくはないのじゃ。非現実的な褒美の話ではなく、確実に勝つほうに味方してはどうじゃ?」
 幸村は笑った。
「私の秀頼様への忠義は変わりません。豊臣と徳川が敵対している限り、私は命を懸けて秀頼様のために戦います。恒久的な講和でも結ばれれば、叔父上に仕えてもよろしいと存じますが」
 信尹は再びすごすごと帰っていった。
「またダメでした」
 家康はつめをかんだ。
「何が忠義じゃ!げに恐ろしきはカネの力よ!」

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