68.籠城味 基礎用語集

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浅野長政(あさのながまさ)←浅野長吉
 (1547-1611) 武将。五奉行首座。豊臣秀吉の義弟。浅野長勝の養子。織田信長・豊臣秀吉に仕え、秀吉に従って検地・軍事を担当、甲斐府中城主となるが、豊臣秀次(ひでつぐ)処刑事件に関わって一時失脚、1598奉行となるが、1599引退、1600関ヶ原の戦では徳川家康に属した。

石田三成(いしだみつなり)
 
(1560-1600) 武将。五奉行の一。豊臣秀吉に仕え、1583賤ヶ岳の戦・1590小田原攻め・朝鮮出兵などで活躍、太閤検地などに手腕を発揮し、1595近江佐和山城主となるが、1600関ヶ原の戦で徳川家康に敗れて処刑された。
花見味 変節味

石山本願寺(いしやまほんがんじ)
 現在の大阪市中央区所在。浄土真宗の寺。1496大坂に本願寺八世・蓮如(れんにょ)が隠居所を築いたのが起源で、1532山科本願寺焼失後、十世・証如(しょうにょ)が本山を移転、今日の大阪の原型となる広大な寺内町(じないちょう)を形成し、一向一揆の総本山となるが、十一世・顕如(けんにょ。光佐)が織田信長と抗争、1570-1580石山合戦の果てに焼失した。

上杉景勝(うえすぎかげかつ)
 (1555-1623) 武将。大名。大老。謙信(けんしん)の養子。1578-1579御館(おたて)の乱で義兄・上杉景虎(かげとら)を破って家督となるが、1584豊臣秀吉に服属、陸奥会津(あいづ)百二十万石を領し、豊臣政権の五大老に列するが、1600関ヶ原の戦で徳川家康に歯向かったため、戦後出羽米沢(よねざわ)三十万石へ飛ばされた。

宇喜多秀家(うきたひでいえ)
 (1572-1655) 武将。大名。大老。直家の子。 豊臣秀吉の養子となり、1581備前岡山を領有、1585四国・1587九州・1590小田原攻めに従い、1592-1596文禄・1697-1598慶長の役で活躍、五大老に列したが、1600関ヶ原の戦で西軍の主力として戦い、敗れて八丈島(はちじょうじま)に島流しにされた。

江戸(えど)
 現在の東京都都心。江戸時代の政治の中心地(首都)。1457太田道灌(おおたどうかん)が江戸城を築いて栄え、1590徳川家康が入城により発展、江戸時代中期に人口百万人を超え、1868明治天皇が行幸して東京と改められ、日本の首都になった。

江戸時代(えどじだい)=徳川(とくがわ)時代
 (1600or1603-1867) 江戸幕府が支配していた時代。1600関ヶ原の戦(せきがはらのたたかい)で徳川家康(とくがわいえやす)が政権を握ったこと、または1603家康が江戸幕府を開いたことに始まり、徳川氏が代々将軍に就任した。1867十五代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が大政奉還して終わった。

江戸城(えどじょう)→皇居
 東京都千代田区(ちよだく)所在。平安時代に江戸重継(えどしげつぐ)が居館を造営し、1457太田道灌(おおたどうかん)が初めて築城、1590徳川家康(とくがわいえやす)が入城して将軍在所となり、1868に明治天皇が入城して皇居となった。天守閣(てんしゅかく)は明暦(めいれき)の大火で炎上、以後、再建されなかった。

延暦寺(えんりゃくじ)
 滋賀県大津市所在。天台宗(てんだいしゅう)総本山。山号比叡山(ひえいざん)。785最澄(さいちょう)が比叡山に入り、788一乗止観院(いちじょうしかんいん比叡山寺)を立てたのが起源。最澄は唐から帰国後、この地で天台宗を開き、その死後「延暦寺」の勅願を賜り、平安時代以後は奈良の南都(興福寺)と並んで北嶺(ほくれい)と呼ばれ、日本の仏教教学の中心となった。

大御所(おおごしょ)
 引退した将軍のこと。もとは親王や将軍の隠居所のこと。特に徳川家康(とくがわいえやす)・徳川家斉(いえなり)が有名。

大坂(おおさか・おおざか)→大阪
 現在の大阪府大阪市。府庁所在地。戦国時代に石山本願寺(いしやまほんがんじ)を中心に栄え、1583豊臣秀吉が大坂城を築いて発展、江戸時代には日本経済の中心として「天下の台所」と呼ばれ、明治維新後に大阪と改めた。

大坂城(おおさかじょう・おおざかじょう)→大阪城(おおさかじょう)
 大阪市中央区所在。1583〜1585石山本願寺(いしやまほんがんじ)跡に豊臣秀吉が築城、1615大坂夏の陣で落城炎上するが、まもなく再建され、将軍が城主とされ、大坂城代(じょうだい)が置かれた。天守閣は1665落雷で焼失したが、1931再建された。
籠城味

大坂の役(おおさかのえき)=大坂冬の陣(ふゆのじん)+大坂夏の陣
(冬の陣) 1600関ヶ原の戦に勝って天下を取った徳川家康(とくがわいえやす)は、豊臣家滅亡を謀り、1614方広寺(ほうこうじ)の鐘銘(しょうめい)にいちゃもんをつけて豊臣家を挑発、多数の牢人(ろうにん。浪人)を雇ったことを口実に二十万の大軍で大坂城を攻囲するが、真田幸村(さなだゆきむら。信繁)らの奮戦で攻めきれず、講和した。籠城味

(夏の陣) 家康は大坂城の外堀だけを埋めるという講和条件を無視し、内堀まで埋めて豊臣家を挑発、重ねて無理難題を突きつけ、受け入れられないと知るや諸大名に出陣命令、十五万の大軍で再び大坂城に攻め寄せた。豊臣方も奮戦するがかなわず、真田幸村(さなだゆきむら。信繁)らは戦死、大坂城は炎上し、淀殿(よどぎみ)・豊臣秀頼(ひでより)母子は自害、豊臣家は滅亡した。

織田信長(おだのぶなが)
 (1534-1582) 武将。織田信秀(のぶひで)の子。父の死後、尾張を統一、1560桶狭間(おけはざま)の戦で今川義元(いまがわよしもと)を討ち、1567美濃の斎藤氏を追って岐阜城に入城、1568足利義昭(あしかがよしあき)を擁して上洛し、1570姉川(あねがわ)の戦で浅井(あさい)・朝倉(あさくら)氏を倒し、1571比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を焼き打ち、1573義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、1574伊勢長島一向一揆(いせながしまいっこういっき)を、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(たけだかつより)を撃破、1576近江に安土(あづち)城を築いて移り、楽市(らくいち)・楽座(らくざ)を実施、1580石山本願寺(いしやまほんがんじ)を大坂から立ち退かせ、1582天目山(てんもくざん)の戦で勝頼を滅ぼすが、本能寺(ほんのうじ)の変で家臣の明智光秀(あけちみつひで)に討たれた。
最強味 大雪味

園城寺(おんじょうじ)=三井寺(みいでら)
 滋賀県大津市所在。天台宗寺門派(てんだいしゅうじもんは。天台寺門宗)の総本山。山号長等山。大友皇子(おおとものおうじ)の子・与多王(よたおう)の創建と伝え、859円珍(えんちん)が再興、山門派(さんもんは)の延暦寺(えんりゃくじ)と天台宗の正統を争った。国宝不動明王像(黄不動)など、多くの寺宝が伝わる。

加藤清正(かとうきよまさ)
 (1562-1611) 武将。大名。豊臣秀吉に仕え、1583賤ヶ岳(しずがたけ)の戦で活躍(七本槍の一人)、1588肥後熊本を領し、1592-1596文禄(ぶんろく)の役・1597-1598慶長(けいちょう)の役で奮戦、1600関ヶ原の戦では東軍に属し、1601熊本城を新築した。

教王護国寺(きょうおうごこくじ)=東寺(とうじ)
 京都市南区所在。真言宗東寺派総本山。794平安京遷都の際に西寺(さいじ)とともに創建され、823嵯峨(さが)天皇が空海(くうかい)に下げ渡して真言宗の中心となった。五重塔・金堂・大師堂・蓮華門・僧形八幡神像・西院不動明王像・真言七祖像・両界曼荼羅・「風信帖」などは国宝。

京都(きょうと)
 現在の京都府京都市。府庁所在地。政令指定都市。794桓武天皇による平安京遷都から1868明治天皇による事実上の東京遷都まで日本の帝都として繁栄、明治維新後も文化の中心として発展した。世界文化遺産。

京都所司代(きょうとしょしだい)
 江戸幕府の職名。京都の支配、朝廷の監視、畿内天領の司法、西国大名の監視を担当。初代は板倉勝重(いたくらかつしげ)。これ以前にも織田信長が村井貞勝(むらいさだかつ)を、豊臣秀吉が前田玄以(まえだげんい)を、関ヶ原の戦後に徳川家康が奥平信昌(おくだいらのぶまさ)を任じている。

●吉利支丹・切支丹(キリシタン)
 キリスト教の信者のこと。クリスチャン。

高野山(こうやさん)
  和歌山県高野町にある標高千メートル内外の山地。真言宗(しんごんしゅう)総本山・金剛峰寺(こんごうぶじ)がある。

五大老(ごたいろう)
 豊臣政権の職名。政務機関・五奉行(ごぶぎょう)の顧問。徳川家康・前田利家(まえだとしいえ)・毛利輝元(もうりてるもと)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)・小早川隆景(こばやかわたかかげ)の五人の大老のこと。1597隆景死後は上杉景勝(うえすぎかげかつ)が加えられた。

小早川隆景(こばやかわたかかげ)
 (1533-1597) 武将。大名。大老。毛利元就(もうりもとなり)の三男。兄の吉川元春(きっかわもとはる)とともに甥の毛利輝元(てるもと)を補佐、中国進出をもくろむ織田信長と戦い、1582備中高松城水攻めで羽柴(豊臣)秀吉と講和、1585四国攻め・1587九州攻めで活躍し、筑前および筑後・肥前の一部五十二万石の太守、豊臣政権の五大老に列し、1592-1596文禄(ぶんろく)の役にも出陣したが、1595養子秀秋に家督を譲り、備後三原で隠居した。変節味2

後陽成天皇(ごようぜいてんのう)←周仁(かたひと)親王←和仁(かずひと)親王
 (1571-1617) 伝百七代天皇(在位1586-1611)。誠仁親王(さねひとしんのう)の王子。正親町天皇(おおぎまちてんのう)の孫。1586豊臣秀吉を太政大臣に任じ、1588聚楽第(じゅらくだい・じゅらくてい)に行幸、1603徳川家康・1605秀忠を将軍に任命、慶長勅版(けいちょうちょくはん)を刊行した。

四天王寺(してんのうじ)=天王寺
 大阪市天王寺区所在。和宗(わしゅう)総本山。587大臣・蘇我馬子(そがのうまこ)が大連・物部守屋(もののべのもりや)を滅ぼした後に聖徳太子(しょうとくたいし。厩戸皇子)が創建。金堂・塔・講堂・中門が一直線に並ぶ四天王寺式伽藍配置。現在の建物は戦後に復元。

朱子学(しゅしがく)
 儒学の一派。祖は南宋(なんそう)の朱熹(しゅき)。万物の存在を理と気で説明、格物致知を説き、身分秩序を重視する思想。日本には鎌倉時代に伝来し、江戸時代に発展、林羅山(はやしらざん)の登場で国家的学問となった。

真言宗(しんごんしゅう)
 仏教の流派。空海(くうかい)が創始。天台宗(てんだいしゅう)の台密(たいみつ)に対して東密(とうみつ)と呼ばれる。京都の東寺(とうじ)や高野山(こうやさん)の金剛峰寺(こんごうぶじ)を中心に発展し、三十六流に分かれた。

駿府(すんぷ)→静岡(しずおか)
 現在の静岡市。駿河府中。古代から駿河国府として栄え、中世に今川氏が城下町を形成、江戸時代初期に徳川家康の隠居所とし、天領として駿府城代・駿府町奉行を設置、1868徳川氏が江戸から移り、静岡と改めた。

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)≦将軍
 もとは蝦夷(えぞ・えみし)討伐のための軍事長官。後に武家政権の最高指導者の称号。奈良時代の征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。1192源頼朝(みなもとのよりとも)就任以後は幕府の統率者の称号で、現代の首相のようなもの。将軍味

関ヶ原の戦(せきがはらのたたかい)=関ヶ原の合戦
 豊臣秀吉没後、主導権を握ろうとする徳川家康と、豊臣政権を守ろうする石田三成(いしだみつなり)が美濃の関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)で対決した戦い。1598秀吉が没し、1599前田利家(まえだとしいえ)が死ぬと、家康の勢力は拡大、1600反抗的な態度を取った上杉景勝(うえすぎかげかつ)攻め(会津攻め)に向かった。一方、三成は家康の留守を突いて挙兵、毛利輝元(もうりてるもと)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)・小早川秀秋(こばやかわひであき)・小西行長(こにしゆきなが)らを味方につけ、京都の伏見城(京都市伏見区)等を攻略、美濃の大垣城(岐阜県大垣市)に入った。一方、家康は三成を討つため小山(おやま。栃木県小山市)で引き返し、福島正則(ふくしままさのり)・池田輝政(いけだてるまさ)を西上させ、織田秀信(おだひでのぶ)の守る岐阜城等を陥落させた。両軍は関ヶ原で激突するが、小早川秀秋(こばやかわひであき)らの裏切りや、吉川広家(きっかわひろいえ)の内応静観などで三成方は壊滅、三成は行長らとともに京都で処刑された。変節味4

大名(だいみょう)
 所領を多く持つ有力な武士のこと。もとは名田(みょうでん)を多く者の意味で、室町時代に守護大名が、戦国時代に戦国大名が登場、江戸時代では将軍に直属した一万石以上の武家のことをいった。

伊達政宗(だてまさむね)
 
(1567-1636) 武将・大名。初代陸奥仙台藩主。出羽米沢城主・伊達輝宗の長男。1584家督相続し、1585常陸の佐竹義重(さたけよししげ)らを撃破(人取橋の戦い)、1586畠山氏を滅ぼし、1589会津の葦名盛氏(あしなもりうじ)を攻略(摺上原の戦い)、ほぼ陸奥を平定するが、1590豊臣秀吉に、1600徳川家康に服属、1600関ヶ原の戦いでは会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)を攻め、1603仙台に引越、1613家臣の支倉常長(はせくらつねなが)らを欧州に派遣し(慶長遣欧使節)、1614-1615大坂の役にも参戦した。

茶の湯(ちゃのゆ)≒茶道(さどう・ちゃどう)
 喫茶の作法。平安時代に最澄(さいちょう)が唐(とう)から茶の実を持ち帰り、鎌倉時代に明庵栄西(みょうあんえいさい)が飲み方を広め、室町時代に村田珠光(むらたじゅこう)や武野紹鴎(たけのじょうおう)が飲み方に工夫を凝らし、千利休(せんのりきゅう)が茶道として大成した。

中国(ちゅうごく)=中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく)←中華民国(ちゅうかみんこく)
 (1912-) 東アジアにある国。1912孫文(そんぶん)が臨時大統領になって中華民国が成立、袁世凱(えんせいがい)が専制支配を確立し、1928蒋介石(しょうかいせき)が国内を統一するが、1937-1945日中戦争で衰退、1949中華人民共和国が成立した。首都は北京。

鉄砲(てっぽう)=火縄銃(ひなわじゅう)≦種子島(たねがしま)
 火薬の爆発力によって弾丸を発射する武器。1543ポルトガル人によって種子島に伝来。和泉(いずみ)の堺(さかい)・紀伊(きい)の根来(ねごろ)・近江(おうみ)の国友(くにとも)などの鉄砲鍛治(かじ)が製造し、戦国大名の間で普及した。織田信長が三千丁の鉄砲を使用して長篠(ながしの)の戦で勝利したことは有名。

天守閣(てんしゅかく)=天守=天主閣
 城郭の中心となる高層建築物。現存最古の天守閣は犬山城のもの。以下、戦国〜江戸時代に建てられた城のうち、以下の十二の天守閣が現存する。

城名(別名)

所在地

築城年

築城者

規模

犬山城(白帝城)

愛知県犬山市

1537

織田信康

三層四階

丸岡城(霞ヶ城)

福井県坂井市

1576

柴田勝豊

二層三階

松本城(深志城)

長野県松本市

1596

石川康長

五層六階

彦根城(金亀城)

滋賀県彦根市

1604

井伊直継

三層三階

宇和島城(板島城)

愛媛県宇和島市

1604

藤堂高虎

三層三階

姫路城(白鷺城)

兵庫県姫路市

1609

池田輝政

五層七階

松江城(千鳥城)

島根県松江市

1611

堀尾吉晴

五層六階

丸亀城(亀山城)

香川県丸亀市

1641

山崎家治

三層三階

高梁城(松山城)

岡山県高梁市

1683

水谷勝宗

二層二階

高知城(大高坂城)

高知県高知市

1747

山内豊敷

三層六階

弘前城(高岡城)

青森県弘前市

1810

津軽寧親

三層三階

松山城(勝山城)

愛媛県松山市

1852

松平勝善

三層四階

 ※ 丸亀・高梁・高知・弘前・松山は江戸時代途中に再建。

 ※ 宇和島は伊達宗利の時代に細部を改修。

天台宗(てんだいしゅう)
 仏教の宗派。隋(ずい)の僧・智(ちぎ)を祖とし、法華経を基とする。日本には805最澄(さいちょう)が将来し、桓武(かんむ)天皇によって国家公認の宗派となった。十世紀末に山門派(さんもんは。延暦寺)と寺門派(じもんは。園城寺)に分裂した。

東福寺(とうふくじ)
 京都市東山区所在。臨済宗東福寺派大本山。京都五山第四位。1236関白・九条道家(くじょうみちいえ)が創建。開山は円爾弁円(えんにべんえん)。東大寺・興福寺より一ずつとって命名。無準師範画像・「太平御覧」などは国宝。

徳川家康(とくがわいえやす)←松平元康(まつだいらもとやす)←松平元信(もとのぶ)
 (1542-1616) 武将。江戸幕府初代将軍(在職1603-1605)・大御所。三河岡崎(みかわおかざき)城主・松平広忠(まつだいらひろただ)の子。1560桶狭間(おけはざま)の戦後に岡崎城主となり、織田信長と同盟を締結、今川氏を滅ぼして遠江浜松(とおとうみはままつ)城主となるが1572三方原(みかたがはら)の戦で武田信玄(たけだしんげん)に惨敗、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(かつより)を撃退し、1582本能寺(ほんのうじ)の変後、1584小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦後に豊臣秀吉と講和、1590小田原(おだわら)攻めに従って武蔵江戸(えど)城主となり、関東を統治、五大老に列し、秀吉の死後の1600関ヶ原の戦で石田三成らを撃破、1603征夷大将軍となって江戸幕府を開き、1605将軍職を秀忠(ひでたた)に譲渡、駿河府中(するがふちゅう)に退くが、大御所として実権を掌握、1614〜1615大坂の役で豊臣秀頼(ひでより)を滅ぼし、1615武家諸法度(ぶけしょはっと)・禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)・一国一城令(いっこくいちじょうれい)などを定めた。惨敗味 変節味
裏金味4 籠城味

徳川秀忠(とくがわひでただ)
 (1579-1632) 江戸幕府二代将軍(在職1605-1623)。家康の子。父より将軍職を譲られ、1614-1615大坂の役で豊臣秀頼(とよとみひでより)を滅ぼして元和偃武(げんなえんぶ)を実現、武家諸法度・禁中並公家諸法度などを制定、1623子の家光に将軍職を譲ってからも大御所として実権を握り続けた。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)←羽柴(はしば)秀吉←木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)
 (1537-1598) 武将。関白・太政大臣。織田信長に仕えて出世し、1573近江長浜(おうみながはま)城主となり、1577中国攻めを開始、1582備中高松(びっちゅうたかまつ)城攻撃中に信長横死の知らせを受け、山崎(やまざき)の戦で明智光秀(あけちみつひで)を、1583賤ヶ岳(しずがたけ)の戦で柴田勝家(しばたかついえ)を滅ぼし、石山本願寺(いしやまほんがんじ)跡に大坂(おおさか)城を築城、1584小牧・長久手の戦を経て徳川家康と講和、1585関白となって紀伊の根来(ねごろ)・雑賀(さいが)一揆を、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を降し、1586太政大臣に就任、1587九州の島津義久を、1590東北の伊達政宗(だてまさむね)・最上義光(もがみよしあき)らを、関東の北条氏政(ほうじょううじまさ)・氏直(うじなお)を降して天下を統一、太閤検地(たいこうけんち)や刀狩(かたながり)を行い、バテレン追放令や身分統制令などを発令、聚楽第(じゅらくだい)や伏見城を築いたが、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は失敗した。 怪談味2 地震味4 日朝味7 芸人味 花見味 変節味

豊臣秀頼(とよとみひでより)
 (1593-1615) 武将。秀吉の子。母は淀殿(よどどの。淀君)。1600関ヶ原の戦により天下人後継者から一大名に転落、徳川秀忠(ひでただ)の娘・千姫(せんひめ)と結婚するが、1615方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件から起こった大坂の役(大坂冬の陣・夏の陣)で徳川家康に敗れ、淀殿とともに自殺した。
花見味 籠城味

南禅寺(なんぜんじ)
 京都市左京区所在。臨済宗南禅寺派大本山。1264亀山天皇が母・大宮院の御所として造営し、1391無関普門(むかんふもん)を開山として禅寺に改造、14c初に五山第一位となり、1386別格上位に昇格した。方丈などは国宝。

日光東照宮(にっこうとうしょうぐう)≦東照宮←東照社
 栃木県日光市所在。徳川家康の霊廟。全国の東照宮の総本宮。権現造。1617徳川秀忠(ひでただ)が駿河久能山(くのうざん)から移し、1634-1636に徳川家光(いえみつ)が大改修した。本殿・石間・拝殿・陽明門などは国宝。世界遺産。

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。

林羅山(はやしらざん)=林道春(どうしゅん)←林信勝(のぶかつ)
 
(1583-1657) 儒学者。藤原惺窩(ふじわらせいか)に師事し、彼の推薦で徳川家康に仕え、武家諸法度制定や「寛永諸家系図伝(かんえいしょかけいずでん)」編集等に関与、神儒集合の理当心地神道を唱え、キリスト教を排除、秀忠(ひでただ)・家光(いえみつ)・家綱(いえつな)四代の侍講を務め、1630上野忍岡(しのぶがおか)に家塾弘文館を創設、林家の祖となり、『羅山文集』を残した。

比叡山(ひえいざん)=叡山(えいざん)
 京都府京都市と滋賀県大津市の境を成す山。標高八四八メートル。山頂に延暦寺(えんりゃくじ)が、山麓に園城寺(おんじょうじ)がある。

伏見城(ふしみじょう)=桃山城(ももやまじょう)
 京都市伏見区所在。1592豊臣秀吉が築城。1596慶長の地震で倒壊するが、すぐに再建。秀吉死後は徳川家康が居城とし、1607伏見城代を置いたが、1623解体。西本願寺書院・唐門・都久夫須麻神社本殿・唐門はその遺構とされる。

法隆寺(ほうりゅうじ)=斑鳩寺(いかるがでら)
 奈良県斑鳩町所在。聖徳宗総本山。南都七大寺の一つ。607用明(ようめい)天皇の遺志を継いだ聖徳太子(しょうとくたいし)が完成させた。金堂(こんどう)・五重塔(ごじゅうのとう)・中門(ちゅうもん)・歩廊(ほろう。回廊とも)は世界最古の木造建築物で、ほとんどの建物が国宝。1993世界文化遺産に選定。

前田利家(まえだとしいえ)
 (1538-1599) 武将。五大老の一。織田信長に仕え、柴田勝家(しばたかついえ)の名代として能登七尾(ななお)城主となり、1583賤ヶ岳(しずがたけ)の戦で豊臣秀吉に属して加賀金沢(かなざわ)城主となり、秀吉死後は遺児・秀頼の後見役を務めた。

増田長盛(ましたながもり)
 (1545-1615) 武将。五奉行の一。豊臣秀吉に仕え、検地や朝鮮出兵で手腕を発揮、大和郡山(こおりやま)城主となり、奉行に列するが、1600関ヶ原の戦で敗れて追放、1614-1615大坂の役(大坂冬の陣・夏の陣)で子・盛次(もりつぐ)が豊臣方についたため、自害させられた。

三浦按針(みうらあんじん)=三浦安針=ウイリアム・アダムズ(William Adams)
 
(1564-1620) イギリス人。1600オランダ貿易会社のリーフデ号に乗るが、豊後に漂着、徳川家康に外交顧問として仕え、朱印船貿易に従事、相模三浦に所領を与えられ、平戸のイギリス商館開設に尽力した。

毛利輝元(もうりてるもと)
 (1553-1625) 武将。大名。大老。隆元(たかもと)の子。元就(もとなり)の孫。二人の叔父・吉川元春(きっかわもとはる)と小早川隆景(こばやかわたかかげ)に補佐されて中国地方を治め、畿内を平定した織田信長と対立、1582備中高松城水攻めで羽柴(豊臣)秀吉と和し、1585四国攻め・1587九州攻めに従軍、豊臣政権の五大老に列し、1600関ヶ原(せきがはら)の戦いでは西軍の総大将として石田三成(いしだみつなり)に担ぎ出されて大坂城に入るが、戦後徳川家康に追い出され、長門・周防二国に減封された。

薬師寺(やくしじ)←本薬師寺(もとやくしじ)
 奈良県奈良市所在。法相宗大本山。南都七大寺の一。天武天皇(てんむてんのう)の発願で持統天皇(じとうてんのう)が藤原京に創建。710遷都によって平城京へ移転した。東塔・金堂薬師三尊像・東院堂聖観音像・吉祥天像・仏足石歌碑などは国宝。

竜安寺(りょうあんじ)
 京都市右京区所在。臨済宗妙心寺派。山号大雲山。1450細川勝元(ほそかわかつもと)の創建。開山は義天玄承(ぎてんげんしょう)石庭は「虎の子の渡し」ともいい、定型的枯山水として有名。

林家(りんけ・はやしけ)
 近世の儒家。江戸幕府の儒官として文書行政を担当。祖は林羅山(はやしらざん。道春)。

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