45.詐欺味 基礎用語集 | ||||||||||||||
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●江戸幕府(えどばくふ)=徳川(とくがわ)幕府
(1603-1867) 江戸時代の武家政権。1603徳川家康(とくがわいえやす)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されたことに始まる。徳川氏が代々将軍に就任、老中(ろうじゅう)が政務を統括し、臨時に大老(たいろう)が置かれた。1867十五代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が朝廷に大政奉還(たいせいほうかん)、1868-1869戊辰(ぼしん)戦争をへて幕府は解体した。
●延喜・天暦の治(えんぎ・てんりゃくのち)
(897-930,946-967) 平安時代の中期、醍醐(だいご)天皇と村上(むらかみ)天皇の治世のこと。摂政・関白を置かず、天皇が親政を断行した。大きな内乱も起きず、文化も隆興、儀式制定・格式整備・史書編纂・通貨鋳造など積極的な政策が行われたため、後世に聖代とされた。
●蔭位の制(おんいのせい)=蔭位
律令制で、父祖が高位だと子孫にも位が与えられるという親の七光り制度。親王と王と五位以上の臣下の子や、三位以上の臣下の孫などには、二十一歳になると、下表に定められた位階が授けられた。
父祖の身分 | 嫡子 | 庶子 | 嫡孫 | 庶孫 |
親王 | 従四位下 | |||
四世以上の王 | 従五位下 | |||
五世王 | 正六位上 | 正六位下 | ||
一位 | 従五位下 | 正六位上 | 正六位上 | 正六位下 |
二位 | 正六位下 | 従六位上 | 従六位上 | 従六位下 |
三位 | 従六位上 | 従六位下 | 従六位下 | 正七位上 |
正四位 | 正七位下 | 従七位上 | ||
従四位 | 従七位上 | 従七位下 | ||
正五位 | 正八位下 | 従八位上 | ||
従五位 | 従八位上 | 従八位下 |
●鎌倉幕府(かまくらばくふ)
(1192?-1333) 鎌倉時代の武家政権。1192源頼朝(みなもとのよりとも)が征夷大将軍に任命されたことに始まるとされるが、創設の時期については異説が多い。1219三代将軍源実朝(さねとも)の暗殺・公暁(くぎょう)殺害によって源氏が滅亡してからは、外戚の北条(ほうじょう)氏が幕政を掌握し、代々執権(しっけん)を選出するが、1333新田義貞(にったよしさだ)に鎌倉を攻略され、北条氏は滅亡、幕府は解体した。
●関白(かんぱく)
天皇が国政を執り行うのを補佐する者。初めての関白は光孝朝の藤原基経(ふじわらのもとつね)。
●桓武天皇(かんむてんのう)←山部(やまべ)親王←山部王
(737-806) 伝五十代天皇(在位781-806)。光仁(こうにん)天皇の皇子。781父の譲位によって即位し、784長岡京(ながおかきょう)へ遷都するが、785造長岡宮使(ぞうながおかぐうし)・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の暗殺で挫折(ざせつ)、792健児(こんでい)の制を制定し、794和気清麻呂(わけのきよまろ)の勧めで平安京へ遷都、勘解由使(かげゆし)を置き、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍として蝦夷を征伐、藤原継縄(つぐただ)・菅野真道(すがののまみち)らに正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』を編集させた。
●公卿(くぎょう)
公(太政大臣・左右大臣)と卿(大中納言・参議・その他三位以上の者)のこと。現在でいう閣僚に相当。
●薬子の変(くすこのへん)
藤原薬子(ふじわらのくすこ)らにあおられた平城上皇(へいぜいじょうこう)が嵯峨(さが)天皇に対して起こした反乱未遂事件。809平城天皇は病気のため弟・嵯峨天皇に譲位、旧都・平城京へ移るが、藤原仲成(なかなり)・薬子兄妹らにそそのかされて重祚(ちょうそ。再即位)と平城京還都を計画、810嵯峨天皇は巨勢野足(こせののたり)・藤原冬嗣(ふゆつぐ)を蔵人頭(くろうどのとう)に任じ、反乱計画を察知、平安京で仲成を逮捕・射殺した。一方、平城上皇は東国へ行こうとするが失敗して出家、薬子は自殺し、皇太子・高丘(たかおか)親王(平城天皇皇子)は廃された。これにより藤原式家は衰退し、北家が台頭した。
●蔵人頭(くろうどのとう)
蔵人所(くろうどところ)長官。定員二人。天皇に近侍し、極秘文書や訴訟をつかさどった。810嵯峨(さが)天皇が薬子の変に備え、藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)と巨勢野足(こせののたり)を任命したのに始まり、以後、公卿昇進への登竜門となった。
●蔵人所(くろうどどころ)
令外官(りょうげのかん)の一。天皇に近侍し、極秘文書や訴訟をつかさどった役所。810嵯峨(さが)天皇が設置。長官は蔵人頭(くろうどのとう)。後にその上に別当(べっとう)が置かれた。事務所は内裏(だいり)校書殿(きょうしょ)にあった。
●称徳天皇(しょうとくてんのう)←孝謙(こうけん)天皇←阿倍内親王(あべないしんのう)
(718-770) 伝四十六・四十八代天皇(在位749-758,764-770)。聖武天皇皇女。738日本初の女性皇太子になり、749即位し752東大寺大仏開眼法要を開催、758淳仁天皇に譲位するが、まもなく不和となって実権を奪還、764恵美押勝(えみのおしかつ)の乱を鎮圧し、再び天皇に即位、百万塔(ひゃくまんとう)を作らせ、寵愛する道鏡(どうきょう)を大臣禅師に765太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)に766法王(ほうおう)にし、769皇位まで譲ろうとしたが、和気清麻呂(わけのきよまろ)らに阻まれた(宇佐八幡宮神託事件)。
●嵯峨天皇(さがてんのう)
(786-842) 伝五十二代天皇(在位809-823)。三筆(さんぴつ)の一人。桓武(かんむ)天皇の皇子。平城(へいぜい)天皇の弟。兄の譲位で即位し、検非違使(けびいし)や810蔵人所(くろうどのところ)を設置、反対派の藤原仲成(なかなり)・薬子(くすこ)兄妹らを退け(薬子の変)、820『弘仁格式(こうにんきゃくしき)』を完成、漢詩集814『凌雲集(りょううんしゅう)』・818『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』・814系譜集『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』を編集させた。842その死後、承和(じょうわ)の変が起こった。
●参議(さんぎ)
太政官で大臣・納言(なごん)に次き、公卿会議に参加した。令下官(りょうげのかん)の一つ。702大伴安麻呂(おおとものやすまろ)・粟田真人(あわたのまひと)・高向麻呂(たかむこのまろ)・下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)・小野毛野(おののけの)の五人に「朝政を参議」させたのが初め。731正式設置。
●左大臣(さだいじん)
律令制における執政官。太政大臣欠員時の最高官。国政を統括した。645大化の改新で阿倍内麻呂(あべのうちまろ)が任じられたのが最初。
●執権(しっけん)
鎌倉幕府の最高執政官。侍所別当(さむらいどころべっとう)と政所(まんどころ)別当を合わせた官。北条(ほうじょう)氏が世襲した。もとは院政における院司の長官のこと。
●征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)←将軍
蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための軍事長官。奈良時代にあった征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。もとは東国で兵乱が起こったときの臨時職であったが、1192源頼朝(みなもとのよりとも)が任命されて以後、武家の最高指導者の称号となった。
●摂政(せっしょう)
天皇に代わって国政を執政する者。初めての摂政は『日本書紀』によれば、神功皇后とされるが、明らかではない。皇族の摂政は推古朝の聖徳太子(しょうとくたいし)が知られ、斉明朝の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や天武朝の草壁皇子(くさかべのおうじ)も摂政の職を執り行ったという。臣下で初めての摂政は、清和朝の藤原良房(ふじわらのよしふさ)。
●側用人(そばようにん)
江戸幕府の職名。将軍の側近。老中との取次役。徳川綱吉が設置。初代側用人は牧野成貞(まきのなりさだ)。柳沢吉保(やなぎさわよしやす)は特に有名。
●醍醐天皇(だいごてんのう)←敦仁親王(あつぎみしんのう)
(885-930) 伝六十代天皇(在位897-930)。宇多(うだ)天皇の皇子。母は藤原高藤(たかふじ)の女・胤子(いんし)。893皇太子となり、897父から「寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)」と皇位を譲られて即位、901昌泰(しょうたい)の変で菅原道真(すがわらのみちざね)を左遷し、902延喜の荘園整理令(しょうえんせいりれい)を発令、藤原時平(ふじわらのときひら)らに『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』「延喜格式(えんぎきゃくしき)」を、905紀貫之(きのつらゆき)らに勅撰和歌集『古今和歌集』を編集させ、907延喜通宝を鋳造、914三善清行(みよしきよゆき)らに意見封事を上申させるなど延喜の治を行った。
●徳川綱吉(とくがわつなよし)
(1646-1709) 江戸幕府五代将軍(在職1680-1709)。家光(いえみつ)の子。1661上野館林(たてばやし)藩主となり、1680兄・家綱(いえつな)の死後に将軍職を継承、大老(たいろう)・堀田正俊(ほったまさとし)、側用人(そばようにん)・柳沢吉保(やなぎさわよしやす)らの補佐を受け、文治(ぶんち)政治を推進、1681母・桂昌院(けいしょういん)のため護国寺(ごこくじ)を建立、1690江戸忍岡(しのぶがおか)に湯島聖堂(ゆしませいどう)を設立し、林信篤(はやしのぶあつ)を大学頭(だいがくのかみ)に、渋川春海(しぶかわしゅんかい)を天文方(てんもんがた)に、北村季吟(きたむらきぎん)を歌学方(かがくがた)に任命、荻原重秀(おぎわらしげひで)を勘定吟味役(かんじようぎんみやく)に抜擢(ばってき)して元禄金銀(げんろくきんぎん)を改鋳させ、1685生類憐(しょうるいあわれ)みの令を発して動物を無理やりかわいがらせた。
●藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)
(775-826) 公卿。左大臣。内麻呂(うちまろ)の子。嵯峨(さが)天皇に信頼され、810巨勢野足(こせののたり)とともに初代蔵人頭(くろうどのとう)に就任、娘・順子(じゅんし)を正良親王(まさよししんのう。後の仁明天皇)に嫁がせ、後の道康親王(みちやす。文徳天皇)を出生、天皇家の外戚(がいせき)として力を持ち、821大学別曹(だいがくべっそう)・勧学院(かんがくいん)を設立して子弟を教育、820法令集『弘仁格式(こうにんきゃくしき)』・勅撰儀式書『内裏式(だいりしき)』を編集した。
●藤原基経(ふじわらのもとつね)
(836-891) 公卿。摂政・関白・太政大臣。藤原長良(ながら)の子。藤原良房(よしふさ)の養子。879正史『日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)』を完成、884陽成(ようぜい)天皇を廃して光孝(こうこう)天皇を擁立、887宇多(うだ)天皇によって臣下で初めて関白(かんぱく)に任じられたが、887-888阿衡(あこう)の紛議を起こして困らせた。
●藤原良房(ふじわらのよしふさ)
(804-872) 公卿。摂政・太政大臣。藤原冬嗣(ふゆつぐ)の子。妻は嵯峨天皇皇女・源潔姫(みなもとのきよひめ)。842嵯峨天皇没後、承和(じょうわ)の変で恒貞親王(つねさだしんのう)を廃し、通康(みちやす)親王(文徳天皇)を擁立、伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢(たちばなのはやなり)らを追放し、857臣下で初めて太政大臣に就任、866応天門(おうてんもん)の変で伴善男(とものよしお)・紀豊城(きのとよき)・紀夏井(なつい)らを追放し、臣下で初めて清和(せいわ)天皇の摂政(せっしょう)に就任、869正史『続日本後紀(しょくにほんこうき)』を完成させた。
●平安京(へいあんきょう)
(794-1868) 平安〜江戸時代の首都。京域は京都盆地北部。東西約4.5q。南北約5.2q。794桓武(かんむ)天皇が和気清麻呂(わけのきよまろ)の勧めで遷都。
●北条時頼(ほうじょうときより)
(1227-1263) 鎌倉幕府五代執権(在職1246-1256)。時氏(ときうじ)の子。1246兄の経時(つねとき)より執権職を譲られ、1246藤原頼経(よりつね)・名越光時(なごえみつとき)らを退け、1247宝治合戦(ほうじがっせん)で三浦泰村(みうらやすむら)を追討、1249引付衆(ひきつけしゅう)を設置し、1252皇族将軍・宗尊親王(むねたかしんのう)を擁立、執権退任後も実権を握り続けた。