86.襲撃味 基礎用語集

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アメリカ≧アメリカ合衆国(United States of America)=米国(べいこく)
 北アメリカ大陸にある国。1492コロンブスが漂着し、十六世紀初めにスペインが、1607年からイギリスが入植、1776イギリスから独立宣言し、1783パリ条約で独立を承認、徐々に西へ領土を広げ、十九世紀半ばに太平洋側に到達、二度の世界大戦と冷戦を経て、世界一の工業国・農業国・軍事大国に成長した。首都はワシントン。

乙巳の変(いつしのへん)
 645中大兄皇子(なかのおおえのおうじ。天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり。藤原鎌足)が蘇我蝦夷(えみし)・入鹿(いるか)父子を討った事件。中大兄皇子と鎌足は蘇我石川麻呂(いしかわまろ)らを味方につけ、飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で入鹿を暗殺、蝦夷を攻めてこれを自殺させた。ここに蘇我本宗家は滅亡し、大化の改新なる一連の政治改革が行われたという。⇒大化の改新

大臣(おおおみ)
 大和政権における最高執政者(政務)。臣姓氏族(大王家の支流氏族)の中で最高位。葛城(かずらき)氏・平群(へぐり)氏・巨勢(こせ)氏・蘇我(そが)氏が務めた。

大王(おおきみ)
 大和政権の首長。皇族の代表。天武(てんむ)天皇の頃から天皇と呼ばれるようになった。

大伴氏(おおともしおおともうじ)→伴氏(ともし)
 古代の大豪族。氏祖は天孫降臨に従った天忍日命(あめのおしひのみこと)という。摂津(せっつ)・和泉(いずみ)、後に大和の城上(しきのかみ)・十市(とおち)郡を本拠とした。大和政権で重きをなし、次々と大連(おおむらじ)を輩出、軍事を担当するが、540金村失脚後に衰退した。平安時代に淳和(じゅんな)天皇の諱(いみな)を避けて伴氏となった。

大伴金村(おおとものかなむら)
 (?-?)大連(おおむらじ)。武烈(ぶれつ)天皇・継体(けいたい)天皇を擁立して執政、新羅征討を行い、大連・物部麁鹿火(もののべのあらかひ)に527-528磐井(いわい)の乱を鎮圧させるが、512任那(みまな。加羅)四県を百済に割譲したことを大連・物部尾輿(おこし)らに責められ、540失脚した(任那四県割譲問題)。国境味
日朝味2

大連(おおむらじ)
 大和政権における最高執政者(軍事)。連姓氏族(大王とは祖先が違う神別氏族)の中で最高位の者。大伴(おおとも)氏・物部(もののべ)氏が務めた。

欽明天皇(きんめいてんのう)
 (509?-571) 伝二十九代天皇(在位539?-571)。継体(けいたい)天皇の皇子。母は仁賢(にんけん)天皇の皇女・手白香(たしらか)皇女。安閑(あんかん)天皇・宣化(せんか)天皇の弟。大臣(おおおみ)は蘇我稲目(そがのいなめ)。大連(おおむらじ)は物部尾輿(もののべのおこし)。538or552に百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)から仏像・経典を送られ(仏教公伝)、562加羅(から。任那)が滅亡したという。

(かん)=前漢(ぜんかん)+後漢(ごかん)
 (前202-8,25-207) 古代中国の王朝。秦(しん)の滅亡後、前202劉邦(りゅうほう)が建国。8王莽(おうもう)に滅ぼされたが、25l劉秀(りゅうしゅう。光武帝)によって復活した。都は前漢が長安(ちょうあん)、後漢が洛陽(らくよう)。184黄巾(こうきん)の乱で衰退し、207滅亡した。

冠位十二階(かんいじゅうにかい)
 603聖徳太子が定めた位階制。大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の十二階。冠の色(濃紫・淡紫・濃青・淡青・濃赤・淡赤・濃黄・淡黄・濃白・淡白・濃黒・淡黒)で区別した。

百済(くだら・ひゃくさい)
 (前18?-660) 古代朝鮮三国の一つ。四世紀の初めに馬韓(ばかん)五十五国を統一、北の高句麗(こうくり)、東の新羅(しらぎ・しんら)と勢力を三分するが、660唐(とう)・新羅連合軍に攻められて滅亡した。まもなく旧臣たちによって復興運動が起こり、日本も援助するが、663白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦いで唐・新羅連合軍に敗れて壊滅した。

皇后(こうごう)←大后(たいこう・たいごう・おおきさき)
 天皇の正妻。大王の正妻は大后。天武天皇の頃(皇后は後の持統天皇)に称号が定着し、大后は皇太后の略称となる。一条天皇から二后並立制(皇后・中宮)がとられた。

聖徳太子(しょうとくたいし)=厩戸皇子(うまやとのおうじ・うまやとのみこ・うまやどのおうじ・うまやどのみこ)=厩戸王(うまやとのおう)
 (574?-622) 摂政(在任593-622)。587蘇我馬子(そがのうまこ)とともに物部守屋(もののべのもりや)を討ち、594仏教興隆の詔を発表、593推古(すいこ)天皇の摂政となり、難波(なにわ)に四天王寺(してんのうじ)を建立、603冠位十二階を・604憲法十七条を定め、605上宮(かみつみや・うえのみや)から斑鳩宮(いかるがのみや)に引っ越し、607小野妹子(おののいもこ)ら遣隋使(けんずいし)を遣わし、斑鳩に法隆寺(ほうりゅうじ)や中宮寺(ちゅうぐうじ)を建立、611注釈書『勝鬘経義疏(しょうまんきょうぎしょ)』・614『維摩(ゆいま)経義疏』・615『法華(ほっけ)経義疏』・620史書『天皇記』・『国記』を編修したという。
法王味 襲撃味 日朝味4 憲法味 富豪味

推古天皇(すいこてんのう)←額田部皇女(ぬかたべのおうじょ・ぬかたべのひめみこ)=豊御食炊屋姫(とよみけかしやきひめ)
 (554-628) 伝三十三代天皇(在位587-628)。欽明(きんめい)天皇の皇女。母は蘇我稲目(そがのいなめ)の娘・堅塩媛(きたしひめ)。敏達(びだつ)天皇の皇后となって竹田皇子らを生み、587用明天皇没後、崇峻天皇を大王に推挙、592崇峻天皇横死後に大臣・蘇我馬子(そがのうまこ)に推され、日本最初の女帝として即位し、聖徳太子を太子(摂政)に任じ、仏教政策を推進、飛鳥文化を花開かせた。法王味
襲撃味

崇峻天皇(すしゅんてんのう)←泊瀬部皇子(はつせべのおうじ・はつせべのみこ)
 (?-592) 第三十二代天皇(在位587-592)。欽明(きんめい)天皇皇子。母は蘇我稲目(そがのいなめ)の娘・小姉君(こあねぎみ)。587用明(ようめい)天皇没後、蘇我馬子(うまこ)に擁されて即位したが、やがて対立し、592馬子の部下・東漢駒(やまとのあやのこま)に殺された。
襲撃味

蘇我氏(そがし・そがうじ)
 古代の大豪族。氏祖は武内宿祢(たけちのすくね)の子・蘇我石河(そがのいしかわ)という。大和国高市郡(たかいちぐん)蘇我を本拠とした。大和政権で重きをなし、次々と大臣(おおおみ)を輩出、財政を担当したが、645中大兄皇子らに滅ぼされた。

蘇我稲目(そがのいなめ)
 (?-570) 大臣(おおおみ)。高麗(こま)の子。娘の堅塩媛(きたしひめ)・小姉君(おあねぎみ)を欽明天皇に嫁がせて外戚(がいせき)となり、朝廷の財政を担当、崇仏に努め、587排仏派の物部尾輿(もののべのおこし)・中臣鎌子(なかとみのかまこ)らと対立した。
宗教味 法王味

蘇我入鹿(そがのいるか)蘇我鞍作(そがのくらつくり)
 (?-645) 大臣(おおおみ)。蝦夷の子。643蝦夷より大臣を譲られ、斑鳩宮(いかるがのみや)に山背大兄王(やましろのおおえのおう)を攻め滅ぼして権勢を誇ったが、645中大兄皇子(天智天皇)・中臣(藤原)鎌足らによって飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)にて殺害された。

蘇我馬子(そがのうまこ)
 (?-626) 大臣(おおおみ)。稲目(いなめ)の子。崇仏に努め、587排仏派の物部守屋(もののべのもりや)と有力皇位継承者・穴穂部皇子(あなほべのおうじ)らを討ち、崇峻(すしゅん)天皇を立てるが592に暗殺し、推古(すいこ)天皇を擁立、聖徳太子(厩戸皇子)を太子(摂政)に立てて国政を主導、596飛鳥寺(あすかでら。法興寺)を完成させ、620聖徳太子とともに『天皇記』『国記』を編修した。襲撃味

蘇我蝦夷(そがのえみし)
 (?-645) 大臣(おおおみ)。馬子の子。593山背大兄王を推した境部摩理勢(さかいべのまりせ)を滅ぼして舒明(じょめい)天皇を擁立、子の入鹿とともに権勢を誇るが、645乙巳の変で入鹿が殺され、自宅に放火して自殺した。

中国(ちゅうごく)=中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく)←中華民国(ちゅうかみんこく)
 (1912-) 東アジアにある国。1912孫文(そんぶん)が臨時大統領になって中華民国が成立、袁世凱(えんせいがい)が専制支配を確立し、1928蒋介石(しょうかいせき)が国内を統一するが、1937-1945日中戦争で衰退、1949中華人民共和国が成立した。現在の首都は北京。

日本書紀(にほんしょき)
 日本最古の勅撰歴史書。六国史の第一。編年体。30巻。系譜1巻(現存せず)。舎人親王(とねりしんのう)・藤原不比等らが編集。神代〜持統朝までを収録。

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。現在の首都は東京。

物部氏(もののべし・もののべうじ)
 古代の大豪族。氏祖は饒速日命(にぎはやひのみこと)という。河内国渋川郡(しぶかわぐん)付近を本拠とした。大和政権で重きをなし、次々と大連(おおむらじ)を輩出、軍事を担当したが、587守屋(もりや)が蘇我馬子(そがのうまこ)に滅ぼされて衰退した。

物部守屋(もののべのもりや)
 (?-587) 大連(おおむらじ)。尾輿(おこし)の子。仏教を排斥し、崇仏派の大臣・蘇我馬子と対立、587用明(ようめい)天皇没後、穴穂部(あなほべ)皇子擁立を図るが、皇子は殺され、自身は馬子らと戦って射殺された。

山背大兄王(やましろのおおえのおう)
 (?-645) 聖徳太子の第一王子。推古(すいこ)天皇死後、境部摩理勢(さかいべのまりせ)に推されたが、摩理勢は蘇我蝦夷(えみし)に殺され、蝦夷の推す田村皇子(舒明天皇)が皇位に就いた。643蘇我入鹿に本拠斑鳩宮(いかるがのみや)を襲撃され、一族もろとも自殺に追い込まれた。

雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)←大泊瀬皇子(おおはつせおうじ)=大泊瀬幼武皇子(おおはつせわかたけのおうじ)
 (418?-479?) 伝二十一代天皇(在位456?-479?)。允恭天皇の皇子。安康天皇の弟。安康天皇没後、八釣白彦(やつりしらひこ)皇子・坂井黒彦(さかいのくろひこ)皇子・眉輪王(まよわおう・まゆわおう)・葛城円(かつらぎのつぶら・かずらきのつぶら)・市辺押磐(いちのべのおしは)皇子を殺して泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)で即位した。倭王武とされる。
非行味 日朝味1

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