1.恭仁遷都 | ||||||||||||||
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天平十二年(740)九月、奈良時代最大の反乱が九州で勃発(ぼっぱつ)した。
いわゆる藤原広嗣の乱である(「暴発味」参照)。
「九州は遠い。だからジタバタ騒いではいないぞ」
時の帝聖武天皇は、参議大野東人(おおののあずまひと)ら率いる征討軍を派遣したが安心できず、とっとと東国へ逃亡した。大養徳の平城宮(奈良県奈良市)から伊賀・伊勢・美濃・近江・山背へと逃避行したのである。
六玉川 |
野田の玉川(宮城県多賀城市) 調布(たつくり)の玉川(東京都調布市) 野路の玉川(滋賀県草津市) 井手の玉川(京都府井手町) 高野の玉川(和歌山県高野町) 三島の玉川(大阪府高槻市) |
十一月、広嗣は肥前で処刑されたが、それでも聖武天皇は平城宮へ戻ろうとしなかった。
東国行幸の前騎兵大将軍(前衛守備隊長)を務めていた藤原仲麻呂が勧めた。
「乱は鎮定されました。もうそろそろ都に帰られては?」
しかし聖武天皇は慎重であった。
「いや。都にはまだ残党が潜んでいるかも知れぬ」
そこで右大臣・橘諸兄が勧めた。
「それでは井手(いで。京都府井手町)へおいでになられては?」
山背井手には諸兄の別邸「相楽別業(さがらのべつぎょう)」がある。六玉川の一つ「井手の玉川」が流れる景勝地であり、山吹の名所でもあった。
「井手か。悪くはないな」
何度か訪れたことがある聖武天皇はその気になった。
「何なら一生井手で暮らされても、おもしろイデ〜」
聖武天皇は諸兄の駄洒落(だじゃれ)に吹き出した。
諸兄は白鳳時代の駄洒落名人であった弁正(べんじょう)の子・秦朝元(はたのちょうげん)と親しいため、その影響を受けていたものと思われる。
仲麻呂も失笑したが、目は笑っていなかった。
「つまり、井手に遷都せよということですかな?」
諸兄は否定した。
「いやいや。井手は小山が点在していて都にするほど広くはない。その南にある瓶原宮(みかのはらのみや。京都府木津川市)周辺がふさわしいと思うが、どうだろう?」
瓶原宮は木津川左岸にある離宮(りきゅう皇室の別邸)である。どちらにせよ諸兄の「庭」には違いない。
(我田引水ってヤツか――)
仲麻呂は反対しようとしたが、聖武天皇が、
「決定!」
と、即決したため、そうできなくなってしまった。
「そうだ!瓶原に遷都する!右大臣は先に戻って支度をせよ!」
「御意」
「お待ちをっ!遷都は重大事です!このように軽々に――」
反対の言訳を考えていた仲麻呂に、聖武天皇が冷めた目つきで言い放った。
「あんたクビ!」
「へ?」
「朕(ちん)の落ち着き先は決まった。これ以上、行幸を続けている必要はない。前後の騎兵大将軍は解任だ」
「そんなぁ〜」
橘 諸兄 PROFILE | |
【生没年】 | 684-757 |
【別 名】 | 葛城王(葛木王)・橘宿祢諸兄・井手左大臣・西院大臣 |
【本 拠】 | 平城京(奈良県奈良市)・恭仁京(京都府木津川市) 山城国相楽別業(京都府井手町)・難波京(大阪市) |
【職 業】 | 公卿(政治家) |
【役 職】 | 馬寮監→左大弁→参議→大納言→右大臣→左大臣ほか |
【位 階】 | 無位→従五位下→従五位上→正五位下→正五位上 →従四位下→正四位下→従三位→正三位→従二位 →正二位→従一位→正一位 |
【 父 】 | 美努王(敏達天皇子孫) |
【 母 】 | 県犬養橘三千代 |
【 妻 】 | 藤原多比能(不比等娘) |
【 子 】 | 橘奈良麻呂 |
【兄 弟】 | 橘佐為・藤原光明子ら |
【義兄弟】 | 藤原武智麻呂・藤原房前・藤原宇合・藤原麻呂ら |
【主 君】 | 元明天皇・元正天皇・聖武天皇・孝謙天皇 |
【側 近】 | 玄ム・吉備真備・佐味宮守ら |
【友 人】 | 大伴家持・藤原豊成・秦朝元ら |
【墓 地】 | 北王塚(京都府井手町) |
天平十二年(740)十二月、聖武天皇は瓶原に遷都し、翌天平十三年(741)の新年の祝賀をそこで行った。
まだ大極殿(だいごくでん。天皇居所)ができていなかったため、臨時に幕を張って執り行ったのである。
で、三月には平城宮の武器を瓶原宮に移させると、いまだ平城京にいた官人たちに引っ越しを強制した。
藤原四兄弟・藤原四家 |
藤原武智麻呂(南家の祖。不比等長男) 藤原房前(北家の祖。不比等次男) 藤原宇合(式家の祖。不比等三男) 藤原麻呂(京家の祖。不比等四男) |
「何で余が諸兄の庭なんかに引っ越さなければならないのだ?」
仲麻呂は七月に民部卿(みんぶのかみ・みんぶきょう。民部省長官。いわば財務相。「古代官制」参照)に任じられていたが、おもしろくなかった。
平城京内の田村(たむら。奈良県奈良市)の自邸で引っ越し作業をしながら、妻の藤原袁比良(えひら・おひら。宇比良古)にぼやいていた。
この年の十一月には瓶原宮は恭仁宮(正式には「大養徳恭仁大宮」)と改められることになるのである(都名は恭仁京)。
「平城京は我が祖父藤原不比等が時の女帝元明天皇の命令で造り、我が父南家武智麻呂ら藤原四兄弟(「藤原氏系図」参照)が権勢を誇った藤原氏勃興(ぼっこう)の都なのだ。それを諸兄は、いとも簡単に廃墟(はいきょ)にしようと画策している」
不機嫌に酒をあおる仲麻呂の杯に、袁比良が無言で注ぎ足した。彼女も藤原氏出身、北家房前の娘である(「藤原北家系図」参照)。
「余は橘政権を甘く見ていた。諸兄自身はたいしたことはない。もともとヤツには権力欲がない。ヤツは目指して権力者になったわけではなく、余の父や叔父たちの死によってタナボタで政界首班になれただけなのだ」
天平九年(737)、藤原四兄弟は天然痘(てんねんとう。疱瘡)で全員病死した。ほかにも中納言・多治比県守(たじひのあがたもり)ら多くの政府高官が病死し、有望政治家はほぼ「絶滅」してしまったのである(「テロ味」参照)。
●聖武天皇・橘諸兄政権閣僚(741当時) |
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官 職 | 官 位 | 氏 名 | 兼職・備考 |
天 皇 | 聖武天皇 | ||
皇 后 | 藤原光明子 | ||
右大臣 | 正二位 | 橘 諸兄 | 橘氏の祖。元葛城王。 |
知太政官事 | 正三位 | 鈴鹿王 | 式部卿。長屋王の弟。 |
参 議 | 従三位 | 大野東人 | 藤原広嗣の乱を平定。 |
参 議 | 正四位上 | 巨勢奈弖麻呂 | 神祗伯・左大弁。 |
参 議 | 正四位下 | 大伴道足 | 右大弁。 |
参 議 | 正四位下 | 藤原豊成 | 兵部卿・中衛大将。 南家。仲麻呂の兄。 |
参 議 | 従四位下 | 大伴牛養 | 摂津大夫。 |
参 議 | 従四位下 | 県犬養石次 | 式部大輔。 |
非参議 | 従三位 | 藤原弟貞 | 長屋王の子。元山背王。 |
非参議 | 従三位 | 百済王南典 | |
(政治顧問) | 玄 ム | 僧正。 | |
(政治顧問) | 従五位上 | 下道真備 | 東宮学士。 |
「困ったわ〜」
そこで聖武天皇皇后・藤原光明子は、当時はまだ参議になったばかりの異父兄・橘諸兄を大抜擢(ばってき)、急遽(きゅうきょ)大納言に昇格させて政権を担わせたのであった(「橘氏系図」参照)。この翌年、諸兄は早くも右大臣に昇った。
仲麻呂は再び杯を飲み干した。今度は袁比良、酒を注がず、肴(さかな)を勧めた。蘇(そ)と呼ばれる牛乳を煮詰めて固めた食べ物である。
「皇后はペイペイの異父兄だけでは心もとないと思ったのであろう。そこで唐帰りの秀才僧と天才学者を諸兄の政治顧問にした。それが僧正の玄ムと東宮学士(とうぐうがくし。皇太子家庭教師)の下道真備だ」
仲麻呂、蘇を一口かじっただけでもう食べず、杯を差し出しおかわりをしたが、袁比良は首を横に振って「いやいや」をした。
「余はこの通り、唐にあこがれを抱いている。衣食住何もかも唐風を好んでいる。だから余は当初は唐帰りの玄ムと真備に興味を持ち、これらに近づこうとした。――が、馬が合わなかった。ヤツらは頭は切れるが、身分が低い。そのことに劣等感を持ち、余らのような二世三世の世襲貴族を嫌っているのだ」
袁比良は席を立った。
おかわりを持ってくるのかと思ったら、碁盤と将棋盤を持って来た。二者択一を求めているようなので、将棋のほうをすることにした。真備が碁の名人であることも気に食わなかった。
「玄ムは仏教の、真備は学問の興隆に努めている。僧や学者の地位を上げ、貴族社会をぶっ壊そうとしている。ヤツらは身分よりも才能が物をいう社会に変えようとしているのだ!国分寺建立の詔は玄ムの仕業だ。ヤツは国分寺を仏教布教全国制覇の拠点にしようとしているのだ!今度の遷都もそうだ。裏で糸を引いているのはヤツだ!藤原氏の根城である平城京を捨て、既存勢力とはしがらみのない、しかも主人である諸兄の庭に新都を築くことによって、自らの繁栄と藤原氏の衰退を策動しているのだ!何が鎮護国家だ!ヤツらは自己の権勢のために、仏教や学問を利用しているだけなのだ!広嗣はヤツらの魂胆を見抜いていた!だからこそ、この二人を排除するために反乱を起こしたのだ!」
盤上の形勢は一進一退であった。算術が得意な仲麻呂は将棋も強いが、なぜか袁比良にはなかなか勝つことができないのである。
「このままでは藤原氏は没落の一途をたどる。何とかしようにも、今の藤原氏にはヤツらに対抗できる人材がいない。我が兄なんぞは、保身のために、諸兄の手先になる道を選んだ……」
仲麻呂は武智麻呂の次男である。
長男の南家当主の豊成(とよなり)は諸兄と親しく(「藤原南家系図」参照)、藤原氏中唯一参議を務めている。現状、藤原氏の公卿は彼一人だけである(非参議・藤原弟貞は元皇族。「天皇家系図」参照)。
この年、一族から反逆者(広嗣)を出したお詫びとして藤原不比等の遺産五千戸が朝廷に寄贈されたが(うち二千戸は藤原氏に返却され、三千戸が仏教興隆のために使われることになった)、これを主導したのは光明子及び豊成であろう。
袁比良が仲麻呂の「桂馬」を取りながら、初めてしゃべった。
「将を射んと欲すれば、まず馬を射よ」
仲麻呂が「金将」を取り返した。
「そんなことはわかっている。真備はまだおとなしい。やかましいのは玄ムだけだ。玄ムさえ倒すことができれば、少なくとも橘政権は沈黙し、形勢は逆転する。しかしヤツは切れ者だ。唐の皇帝・玄宗(げんそう)から紫衣を賜り、帰国後は帝からも紫衣をもらい、帝の母君(藤原宮子)の病気を治し、僧綱(そうごう。僧官)の首位である僧正を任されているほどのお気に入りなのだ。問題はどうやってこれを追い落とすかだ」
「王手!」
バシ!
袁比良が仲麻呂の「玉将」の前に駒を打った。
その駒には、見慣れない字が書かれていた。
袁比良が自分で書いたのである。
仲麻呂がその字を読んだ。
「行基……」
みるみる仲麻呂の顔に笑みがこみ上げてきた。
「そういうことか……。余の負けだ……」