84.辞任味 基礎用語集 | ||||||||||||||
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●右大臣(うだいじん)
律令制における執政官。太政大臣・左大臣欠員時の最高官。左大臣とともに国政を統括した。645大化の改新で蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ。倉山田石川麻呂)が任じられたのが最初。
●江戸幕府(えどばくふ)=徳川(とくがわ)幕府
(1600?-1867) 江戸時代の武家政権。1600関が原の戦で勝利した徳川家康(とくがわいえやす)が1603に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任して創始。徳川氏が代々将軍に就任、老中(ろうじゅう)が政務を統括し、臨時に大老(たいろう)が置かれた。1867十五代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が朝廷に大政奉還(たいせいほうかん)、1868-1869戊辰(ぼしん)戦争をへて旧幕府勢力は解体した。
●開国≒開国和親(かいこくわしん)
外国との交流を認め、仲良くしようとする思想。
●鑑真(がんじん)
(688?-763) 唐(とう)出身の僧。日本律宗(りっしゅう)の祖。唐で菩薩戒(ぼさつかい)と具足戒(ぐそくかい)を極め、江淮(こうわい)の化主と仰がれるが、栄叡(ようえい・えいえい)・普照(ふしょう)に請われて日本渡航を決意、五度の失敗と失明にもめげず、753六度目に来日、754東大寺に戒壇を設置し、聖武上皇・光明皇太后・孝謙(こうけん)天皇らに授戒、755戒壇院を建立し、756大僧都(だいそうず)に就任、759唐招提寺(とうしょうだいじ)を創建した。
●貴族(きぞく)
家柄や身分の高い人。五位以上の役人。古代では三位以上を貴といい、五位以上を通貴といった。
●軍部(ぐんぶ)
陸海空軍などの総称。特に陸軍省(長は陸相)・海軍省(長は海相)・参謀本部(長は参謀総長)・軍令部(長は軍令部総長)など政治に関わる上層部のこと。
●小泉純一郎(こいずみじゅんいちろう)
(1942-) 政治家。首相(在職2001-)。福田赳夫(ふくだたけお)の秘書を経て1972衆院議員に当選、厚相・郵政相などを経て、2001自民党総裁として首相に就任、「聖域なき構造改革」を掲げ、派閥解消に尽力、2002北朝鮮の金正日(キムジョンイル)総書記と日朝平壌宣言(にっちょうピョンヤンせんげん)を発表し、2005道路公団を民営化、2007の郵政民営化を決定した。
●畿内(五畿)・七道(きない(ごき)・しちどう)
古代の行政区分。首都を起点にした(西海道は大宰府が起点)主要幹線道路が通っていた。以下の七つ。所属国・国数・郡数は平安中期のもの。⇒旧国名一覧
区分(よびかた) | 所属国(島) | 国・郡数 |
畿内(きない) | 山城・大和・河内・摂津・和泉 | 5・53 |
東海道 (とうかいどう) |
伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐 ・伊豆・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸 |
15・128 |
東山道 (とうさんどう) |
近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽 | 8・112 |
北陸道 (ほくりくどう) |
若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡 | 7・31 |
山陽道 (さんようどう) |
播磨・備前・美作・備中・備後・安芸・周防・長門 | 8・69 |
山陰道 (さんいんどう) |
丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐 | 8・52 |
南海道 (なんかいどう) |
紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐 | 6・50 |
西海道 (さいかいどう) |
筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向 ・大隅・薩摩・壱岐・対馬・(多褹・掖玖) |
11・96 |
●吉備真備(きびのまきび)←下道真備(しもつみちのまきび)
(693?-775) 学者。公卿。右大臣。下道圀勝(くにかつ)の子。717-735唐に留学、玄ム(げんぼう)とともに橘諸兄(たちばなのもろえ)の政治顧問となり、皇太子・阿倍内親王(孝謙・称徳天皇)の侍講を担当するが、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の圧力で一時左遷、怡土城を築城するが、764恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で軍師に抜擢されて活躍し、右大臣に昇進、称徳(孝謙)天皇没後、文室智努(ふんやのちぬ。浄三)・大市(おおいち)兄弟の擁立を図るが、失敗して引退した。
●行基(ぎょうき)
(668-749) 僧。道昭(どうしょう)に師事し、法相宗を学習、諸国をめぐって民衆を教化し、各地に寺・池・堤・橋などを建設するなど社会事業に従事、東大寺大仏造営の勧進を任され、大僧正に任ぜられるが、大仏完成前に没した。
●公卿(くぎょう)
公(太政大臣・左右大臣)と卿(大中納言・参議・その他三位以上の者)のこと。現在でいう閣僚に相当。
●恭仁京(くにきょう)≧恭仁宮(くにのみや)
奈良時代の一時期の首都。京域は京都盆地南部(京都府木津川市)。740聖武(しょうむ)天皇が平城京から遷都するか、743紫香楽宮(しがらきのみや)造営によって工事は中断、744難波宮(なにわのみや)に遷都された。
●遣唐使(けんとうし)=入唐使(にっとうし)=もろこしの使い
(630-894) 古代に日本から唐(とう)に派遣された公式使節。飛鳥〜平安時代に19回にわたって任命された(渡海は15回。諸説あり)。初代遣唐大使は犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)。以後、高向玄理(たかむこのくろまろ・げんり)・阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)・玄ム(げんぼう)・吉備真備(きびのまきび)・最澄(さいちょう)・空海(くうかい)・円仁(えんにん)・円珍(えんちん)ら名だたる著名人が渡海し、さまざまな文物をもたらした。最後の遣唐大使は菅原道真(すがわらのみちざね)だが、894停止を建議して廃絶した。
●玄ム(げんぼう)
(?-746) 法相宗の僧。僧正。717-735唐に留学、737僧正に就き、皇太夫人・藤原宮子(ふじわらのみやこ)の病気を治癒、橘諸兄(たちばなのもろえ)の政治顧問となって国分寺建立・大仏造営に深く関与するが、藤原仲麻呂(なかまろ)に圧迫されて大宰府の観世音寺(かんぜおんじ)に左遷、配所にて怪死した。
●元明天皇(げんめいてんのう)
(661-721)伝四十三代天皇(在位707-715)。天智天皇の皇女。草壁皇子妃。文武天皇・元正天皇の母。708和同開珎(わどうかいちん・わどうかいほう)を鋳造し、710平城京へ遷都、711蓄銭叙位令を制定し、713『風土記』を編修させた。
●皇極天皇(こうぎょくてんのう)⇒皇極上皇⇒斉明(さいめい)天皇
(594-661) 宝(たから)皇女。伝三十五・三十七代天皇(在位642-645,655-661)。茅渟王(ちぬおう)の王女。高向(たかむこ)王の妃。舒明(じょめい)天皇の皇后。夫の没後に即位するが、645乙巳の変で弟・孝徳(こうとく)天皇に譲位、弟没後に再び即位し、新羅征討のため九州に赴いたが、筑紫朝倉宮(あさくらのみや)で没した。
●皇后(こうごう)←大后(たいごう)
天皇の正妻。天武天皇の頃(皇后は後の持統天皇)の頃に称号が定着。一条天皇から二后並立制(皇后・中宮)がとられた。
●皇太子(こうたいし)=東宮・春宮(とうぐう)
皇位を継ぐ予定の唯一の皇子(または王子・皇女・王女)。次期天皇。七世紀頃に成立?
●孝徳天皇(こうとくてんのう)←軽皇子(かるのおうじ・かるのみこ)
(596?-654) 伝三十六代天皇。茅渟王(ちぬのおう・ちぬのおおきみ)の子。母は吉備姫王(きびつひめのおおきみ)
645即位し、難波長柄豊碕宮(なにわながらのとよさきのみや)へ遷都、646改新の詔を発し、公地公民制を基本方針とした諸政策を行うが、後に皇太子の中大兄皇子と対立、654難波で没した。
●光明皇后(こうみょうこうごう)=藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)
(701-760)聖武(しょうむ)天皇皇后。皇太后。藤原不比等(ふひと)の三女。母は県犬養橘三千代(あがたのいぬかいのたちばなのみちよ)。729長屋王(ながやおう)の変後に臣下で初めて皇后となり、悲田院(ひでんいん)・施薬院(せやくいん)を設置、聖武天皇の仏教政策に協力し、749夫の没後、遺品を正倉院(しょうそういん。正倉院宝物の始まり)に納め、娘の孝謙(こうけん)天皇を後見して実権を掌握、皇后宮職(こうごうぐうしき)を紫微中台(しびちゅうだい)に改組し、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)をその長官とした。
●国分寺(こくぶんじ)=金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)
741or738に聖武(しょうむ)天皇による国分寺建立の詔によって諸国に建てられた僧寺。国衙(こくが)近くに置かれ、僧二十人を常駐、境内の七重塔に聖武天皇直筆の「金光明最勝王経(こんこうみょうさいしょうおうきょう)」にが収められた。
●国分寺建立の詔(こくぶんじこんりゅうのみことのり)=国分寺・国分尼寺(こくぶんにじ)建立の詔
741or738に聖武天皇が出した詔。諸国に国分寺・国分尼寺を設け、七重塔(しちじゅうのとう)を建立、天皇直筆の「金光明最勝王経」を収め、国家の平安を祈らせた。
●坂本竜馬(さかもとりょうま)
(1835-1867) 武士。土佐高知藩士。1861武市瑞山(たけちずいざん)の土佐勤王党に加わるが、江戸へ出て勝海舟(かつかいしゅう)に弟子入り、1864長崎で社中(しゃちゅう。後の海援隊)を結成し、1866薩長連合を仲介、寺田屋事件に遭遇するが逃亡し、1867上下議政局と大名会議を頂点とした新国家構想「船中八策(せんちゅうはっさく)」を起草、これを土佐藩政・後藤象次郎(ごとうしょうじろう)に提示し、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の大政奉還に貢献するが、中岡慎太郎とともに京都で暗殺された。
●左大臣(さだいじん)
律令制における執政官。太政大臣欠員時の最高官。国政を統括した。645大化の改新で阿倍内麻呂(あべのうちまろ。倉梯麻呂)が任じられたのが最初。
●参議(さんぎ)
朝廷の閣僚。令下官(りょうげのかん)の一つ。太政官で大臣・納言(なごん)に次き、公卿会議に参加。現代でいう国相。702大伴安麻呂(おおとものやすまろ)・粟田真人(あわたのまひと)・高向麻呂(たかむこのまろ)・下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)・小野毛野(おののけの)の五人に「朝政を参議」させたのが初め。731正式設置。
●紫香楽宮(しがらきのみや)=信楽宮(しがらきのみや)=甲賀宮(こうがのみや)≦紫香楽京(しがらききょう)=信楽京=甲賀京
奈良時代の一時期の首都。現在の滋賀県甲賀市。742聖武(しょうむ)天皇が離宮を造営してちょくちょく訪れ、743この地で大仏造立を発願、744難波から元正(げんしょう)上皇を迎えて実質的な首都になるが、745平城京へ還都した。
●衆議院(しゅうぎいん)=衆院(しゅういん)
(1890- )日本国憲法のもと、参議院とともに国会を構成する両院の一つ。戦前は、大日本帝国憲法のもと、貴族院とともに帝国議会を構成。戦前は予算の先議権が認められ、戦後は加えて法律の再議決などが認められている(衆議院の優越)。
●称徳天皇(しょうとくてんのう)←孝謙(こうけん)上皇←孝謙天皇←阿倍内親王(あべないしんのう)
(718-770) 第四十六・四十八代天皇(在位749-758,764-770)。聖武天皇皇女。738日本初の女性皇太子になり、749即位し752東大寺大仏開眼法要を開催、758淳仁天皇に譲位するが、まもなく不和となって実権を奪還、764恵美押勝(えみのおしかつ)の乱を鎮圧し、再び天皇に即位、百万塔(ひゃくまんとう)を作らせ、寵愛する道鏡(どうきょう)を大臣禅師に765太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)に766法王(ほうおう)にし、769皇位まで譲ろうとしたが、和気清麻呂(わけのきよまろ)に阻まれた。
●聖武天皇(しょうむてんのう)→聖武上皇
(701-756)伝四十五代天皇(在位724-749)。文武(もんむ)天皇の皇子。母は藤原不比等(ふひと)の娘・宮子(みやこ)。伯母・元正(げんしょう)天皇から皇位を譲られ、727基王を立太子させるが翌年没したため、738阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)を皇太子に立て、741国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)建立の詔を、743大仏造立(だいぶつぞうりゅう)の詔を発布、総国分寺・東大寺(とうだいじ)を完成させるなど鎮護国家(ちんごこっか)政策を推進、740藤原広嗣(ひろつぐ)の乱を避けるように、恭仁京(くにきょう)・744紫香楽宮(しがらきのみや)・難波宮(なにわのみや)と都を遷し、754譲位、754鑑真(がんじん)から菩薩戒を受けた。
●清(しん)
(1616-1912) 近世〜近代の中国の王朝。1616太祖ヌルハチが女真族を統一して後金(ごきん)を興し、二代太宗ホンタイジが国号を清と改称、三代世祖順治帝が北京を攻略して首都となし、中国を統一したが、1840アヘン戦争を機に諸外国に侵食され、1894-1895日清戦争で日本に敗北、1911辛亥(しんがい)革命が起こり、1912宣統帝溥儀(ふぎ)の退位によって滅びた。
●征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)≦将軍
もとは蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための軍事長官。後に武家政権の最高指導者の称号。奈良時代の征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。1192源頼朝(みなもとのよりとも)就任以後は幕府の統率者の称号。
●大政奉還(たいせいほうかん)
1867.11/に土佐藩主・山内豊信(やまうちとよしげ・やまのうちとよしげ。容堂)の建白により、江戸幕府十五代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が辞任し、政権を朝廷に返上したこと。
●大納言(だいなごん)
太政官(だいじょうかん・だじょうかん)で左右大臣に次ぐ官職。大臣とともに政務を執った。定員は四人。天武(てんむ)天皇が設置した御史大夫(ぎょしたいふ)が起源で、705その下に中納言が置かれた。758〜764御史大夫(ぎょしたいふ)と改称。最初の大納言は蘇我果安(そがのはたやす)ら。
●大仏造立の詔(だいぶつぞうりゅうのみことのり)
743聖武(しょうむ)天皇が盧舎那仏(るしゃなぶつ)造立を思い付き、恭仁京(くにきょう)で発した詔。初め大仏は近江紫香楽宮(しがらきのみや)付近の甲賀寺(こうがでら)で造られたが、745平城京還都後に東大寺(とうだいじ)に移った。
●大宰府(だざいふ)
九州に置かれた古代の官庁。福岡県太宰府市所在。西海道(九州)を統括し、外交使節との交渉にも当たった。朝廷の出張所で、「遠の朝廷(みかど)」と呼ばれた。長官は大宰師(だざいのそち)。1293博多に鎮西探題(ちんぜんたんだい)が置かれて以降、無力化した。
●太政官(だじょうかん・だいじょうかん)
律令制において神祗官(じんぎかん)と並ぶ中央の最高行政機関。八省以下すべての官庁を統括。事務局としてし少納言局・弁官局をもつ。⇒古代官制
●橘氏(たちばなし・たちばなうじ)
特に古代に繁栄した氏族。四姓の一。氏祖は橘諸兄(たちばなのもろえ。葛城王)とその弟の橘佐為(さい。佐為王)。実質的な始祖は二人の母の県犬養橘三千代(あがたのいぬかいのたちばなのみちよ)。氏祖の諸兄は正一位左大臣に昇って政権を担ったが、757その子・奈良麻呂(ならまろ)が反乱を企てて没落、平安時代初期に嘉智子(かちこ)が嵯峨天皇の皇后になっ再興するが、842承和の変など藤原北家による他氏排斥政策によって衰退した。⇒橘氏系図
●橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)
(721?-757?) 公卿。諸兄の子。母は藤原不比等(ふひと)の娘の多比能(たひの)。摂津大夫・民部大輔・左大弁などを経て749参議に昇るが、藤原仲麻呂(なかまろ)の政策に反感を抱き、757父の死後に大伴(おおとも)・佐伯(さえき)・多治比(たじひ)氏らと反乱を画策するも、未然に鎮圧されて逮捕された(橘奈良麻呂の変・乱)。
●橘 諸兄(たちばなのもろえ)←葛城王(かつらぎおう・かずらきおう)
(684-757) 公卿。左大臣。橘氏の祖。美努王(みぬおう)の子。母は県犬養橘三千代(あがたのいぬかいたちばなのみちよ)。藤原光明子(こうみょうし)の異父兄として藤原四兄弟没後に政権を握り、参議から大納言、右大臣、左大臣と昇進、国分寺建立・大仏造立など聖武(しょうむ)天皇の鎮護国家(ちんごこっか)政策に協力し、740恭仁京(くにきょう)遷都を主導したと思われるが、756左大臣を辞任した。
●中国(ちゅうごく)=中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく)←中華民国(ちゅうかみんこく)
(1912-) 東アジアにある国。1912孫文(そんぶん)が臨時大統領になって中華民国が成立、袁世凱(えんせいがい)が専制支配を確立し、1928蒋介石(しょうかいせき)が国内を統一するが、1937-1945日中戦争で衰退、1949中華人民共和国が成立した。現在の首都は北京。
●朝鮮戦争(ちょうせんせんそう)
(1950-1953) 大韓民国(韓国)と朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)との戦争。1950北朝鮮が武力統一を図って韓国へ侵攻し、ソウルを占領するが、アメリカが国連軍を組織してこれを奪還し、ピョンヤンを攻略するが、北朝鮮は中国人民義勇軍の後援を得て押し戻し、膠着(こうちゃく)状態になり、1953休戦協定が結ばれた。
●鎮護国家(ちんごこっか)
仏教によって国を治めること。律令国家は「法華経」「金光明最勝王経」など護国経典の霊力によって国を守ろうとした。
●天智天皇(てんちてんのう・てんじてんのう)←中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
(626-671)伝三十八代天皇(在位668-671)。舒明(じょめい)天皇の第一皇子。母は皇極(こうぎょく)・斉明(さいめい)天皇。中臣(藤原)鎌足とともに645蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼし、大化の改新を断行、663白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦で唐・新羅に大敗した後、667近江大津宮(おうみのおおつのみや)に遷都し、668近江令(おうみりょう)を編集、670庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成した。
●天皇(てんのう)
古代〜現代に至る日本の国王。推古天皇のときに成立? 初代天皇は神武(じんむ)天皇?
今上天皇は伝百二十五代。大日本帝国憲法では大日本帝国の元首、日本国憲法では国民統合の象徴。
●唐(とう)
(618-907) 古代中国の王朝。李淵(りえん)が創始。首都は長安(ちょうあん)。律令制・均田制を確立し、高句麗(こうくり)を滅ぼして繁栄を極めるが、八世紀半ば以後衰退、907朱全忠(しゅぜんちゅう)に滅ぼされた。
●東大寺(とうだいじ)=金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)=総国分寺(そうこくぶんじ)=大華厳寺(だいけごんじ)
奈良市所在。華厳宗総本山。南都七大寺の一。前身は金鐘寺(こんしゅじ)。745聖武(しょうむ)天皇が盧舎那仏(るしゃななぶつ)造立のため、市原王(いちはらおう)・佐伯今毛人(さえきのいまえみし)らに命じて創建し、752本尊の盧舎那仏の開眼法要を行った。1180平重衡(たいらのしげひら)に焼かれたが、鎌倉時代に重源(ちょうげん)らが復興、1567松永久秀(まつながひさひで)に焼かれたが、江戸時代に再び復興された。
●徳川慶喜(とくがわよしのぶ)←一橋(ひとつばし)慶喜
(1837-1913) 江戸幕府十五代将軍(在職1866-1867)。常陸水戸藩主・徳川斉昭(なりあき)の子。1847一橋(ひとつばし)家を継ぎ、十三代将軍・徳川家定(いえさだ)の将軍継嗣問題では、松平慶永(まつだいらよしなが)・島津斉彬(しまづなりあきら)ら一橋派に推されたが、井伊直弼(いいなおすけ)ら南紀(なんき)派が推す徳川慶福(よしとみ。後の家茂)に敗れ、1858日米修好通商条約調印に反発して処罰されたが(安政の大獄)、1862孝明(こうめい)天皇の勅命で始まった文久(ぶんきゅう)の改革では将軍後見職に就任、1866将軍となって慶応(けいおう)の改革を断行、フランスに接近して軍備増強を図るが挫折(ざせつ)、1867大政奉還を行って朝廷に政権を返上し、1868鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いに敗れて朝廷に恭順、1868明治維新後は静岡で隠居した。
●難波宮(なにわのみや)
奈良時代の一時期の首都。京域は現在の大阪市内。726聖武(しょうむ)天皇は藤原宇合(ふじわらのうまかい)に命じて孝徳(こうとく)天皇の難波長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)を再建、744元正上皇が恭仁京(くにきょう)から遷都した。その後も副都的役割を果たしたが、793桓武(かんむ)天皇によって廃止された。
●奈良時代(ならじだい)
(710-784) 平城京に都が置かれ、天皇や貴族が支配していた時代。710元明(げんめい)天皇の平城京遷都に始まり、律令国家の最盛期にあたり、天平文化が栄えた。784桓武天皇の長岡京(ながおかきょう)遷都で終焉。784-794長岡京時代も含む場合もある。
●日本(にほん・にっぽん・やまと)
東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。現在の首都は東京。
●藤原氏(ふじわらし・ふじわらうじ)
特に古代に繁栄した氏族。四姓の一。氏祖は中臣鎌足(なかとみのかまたり)。奈良時代に南家(なんけ)・北家(ほっけ)・式家(しきけ)・京家(きょうけ)の四家に分かれ、南家、次いで式家が繁栄したが、平安時代になると北家が台頭、摂政・関白を独占し、いわゆる摂関政治を現出した。鎌倉時代に北家の嫡流である摂関家は五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)に分裂し、摂家将軍も輩出した。⇒藤原氏系図
●藤原鎌足(ふじわらのかまたり)←中臣鎌足(なかとみのかまたり)←中臣鎌子(かまこ)
(614-669)公卿。内臣(うちつおみ・ないしん)。藤原氏の祖。中臣御食子(みけこ)の子。舒明(じょめい)天皇の代に神祗伯(じんぎはく)を辞退して隠棲、中大兄皇子(天智天皇)に近づき、645蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺、蘇我蝦夷(えみし)を滅ぼし、孝徳(こうとく)天皇を擁立、中大兄皇子を皇太子に立て、大化の改新で内臣(うちつおみ・ないしん)に就任、近江令編修に関わり、死の直前に藤原姓と大織冠(たいしょくかん)を受けた。
●藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)→恵美押勝(えみのおしかつ)
(706-764) 公卿。大師(たいし。太政大臣)。南家の祖・武智麻呂(むちまろ)の子。聖武(しょうむ)天皇の大仏造立に協力し、光明皇后(こうみょうこうごう)に取り入って749紫微令(しびれい)・紫微内相(しびないしょう。内臣に相当)に就任、757橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の反乱を未然に防ぎ(橘奈良麻呂の変・乱)、758舎人親王(とねりしんのう)の王子・淳仁(じゅんにん)天皇を擁立、大師に昇って栄華を極めるが、764孝謙(こうけん)上皇のお気に入り・道鏡(どうきょう)の排除を図って挙兵し、近江で敗れて殺された(恵美押勝の乱)。
●藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)
(?-740)官人。藤原宇合(うまかい)の子。藤原不比等(ふひと)の孫。式部少輔(しきぶのしょう・しきぶしょうゆう)・大養徳守(おおやまとのかみ)を務めた後、大宰少弐(だざいしょうに)に左遷、橘諸兄(たちばなのもろえ)の政治顧問・玄ム(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)の排除を要求して大宰府で挙兵するが、大野東人(おおののあずまひと)率いる征討軍に敗死した。
●藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)
740大宰少弐・藤原広嗣が大宰府で起こした古代九州最大の反乱。広嗣は橘諸兄(たちばなのもろえ)の政治顧問・玄ム(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)の排除を要求して大宰府で挙兵、軍を三つに分けて北九州へ向かうが、大野東人(おおののあずまひと)率いる征討軍に関門海峡を破られて九州上陸を許し、板櫃川(いたびつがわ)の戦いで大敗、新羅(しらぎ)亡命を目指したが失敗し、捕らえられて斬殺(ざんさつ)された。
●藤原不比等(ふじわらのふひと)
(659-720)公卿。右大臣。中臣(藤原)鎌足(なかとみ・ふじわらのかまたり)の子。武智麻呂(むちまろ。南家)・房前(ふささき。北家)・宇合(うまかい。式家)・麻呂(まろ。京家)・光明子(こうみょうし)らの父。仲麻呂(なかまろ)・広嗣(ひろつぐ)・百川(ももかわ)らの祖父。701刑部(おさかべ)親王とともに大宝律令(たいほうりつりょう)を完成させ、718養老(ようろう)律令も編修、710平城京(へいじょうきょう)遷都や721『日本書紀(にほんしょき)』編修にも関与した。
●藤原四兄弟(ふじわらよんきょうだい)=藤原四子(よんし)+藤原武智麻呂(むちまろ)+藤原房前(ふささき)+藤原宇合(うまかい)+藤原麻呂(まろ)
藤原不比等の四人の男子のこと。長男・武智麻呂(むちまろ)は南家(なんけ)を、次男・房前(ふささき)は北家(ほっけ)を、三男・宇合(うまかい)は式家(しきけ)を、四男・麻呂(まろ)は京家(きょうけ)を興し、729政敵・長屋王(ながやおう)を滅ぼして四人そろって権勢を誇るが、737天然痘で全員死亡し、一時期藤原氏は衰退した。死んだ。
●仏教(ぶっきょう)
釈迦(しゃか)を開祖とする宗教。日本には欽明(きんめい)天皇の時代に百済の国王・聖明王(せいめいおう)によってもたらされた。年代については552説(『日本書紀』による)と538説(『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』『元興寺縁起(がんごうじえんぎ)』による)がある。これを「仏教公伝」とするが、これ以前にも渡来人・司馬達等(しばたっと)が自宅で仏像を礼拝していたという(仏教私伝)。以後、従来からあった神道(しんとう)と並んで浸透した。
●平安時代(へいあんじだい)
(794-1185頃) 平安京に都が置かれ、天皇や貴族が支配していた時代。794桓武(かんむ)天皇の平安遷都に始まり、初期は天皇家が、前中期は藤原氏が、後期は院政の主が、末期は平家が政権を担った。1185源頼朝(みなもとのよりとも)の守護・地頭設置(事実上の鎌倉幕府の創立)頃までをいう。
●平城宮(へいじょうきゅう・へいぜいきゅう)
奈良時代の宮城(大内裏・皇居+官庁街)。平城京の北端中央にあった都城の中心区画。内裏(皇居)・朝堂(議事堂)・諸官庁からなる。
●平城京(へいじょうきょう・へいぜいきょう)
奈良時代の首都。京域は奈良盆地北部(奈良市・奈良県大和郡山市)。東西約四・三キロ。南北約四・八キロ。710元明(げんめい)天皇が遷都し、784桓武天皇の長岡京(ながおかきょう)遷都まで存続。
●ベトナム戦争(べとなむせんそう)
(1960-1975) 北ベトナム(ベトナム民主共和国)と南ベトナム(ベトナム共和国)との戦争。アメリカが南を後援するが敗れ、1973米軍は撤退、1975北ベトナムがサイゴン(現ホーチミン)を陥落させて終結した。
●戊辰戦争(ぼしんせんそう)=戊辰の役
明治初年に起こった明治新政府と旧幕府勢力との戦争。1868鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦・江戸開城・上野戦争(彰義隊の戦)・会津(あいづ)戦争・1869箱館(はこだて)戦争(五稜郭の戦)など一連の戦をいう。
●北家(ほっけ)=藤原北家(ふじわらほっけ)
藤原四家のうち、藤原不比等(ふひと)の次男・房前(ふささき)の子孫のこと。南家(長男・武智麻呂の子孫)・式家(三男・宇合の子孫)・京家(四男・麻呂の子孫)に対していう。良房(よしふさ)・基経(もとつね)・道長(みちなが)・頼通(よりみち)らを輩出し、四家中最も繁栄した。
●法相宗(ほっそうしゅう)=唯識宗(ゆいしきしゅう)
万物の諸相を明らかにしようとする仏教の宗派。南都(なんと)六宗の一。玄奘(げんじょう。三蔵法師)の弟子・基(き。慈恩大師)が確立し、日本には七〜八世紀に道昭(どうしょう)・智通(ちつう)・智鳳(ちほう)・玄ム(げんぼう)らが将来、元興寺(がんこうじ)と興福寺に伝えられた。現在の本山は興福寺(こうふくじ)と薬師寺(やくしじ)。