165.不戦味 基礎用語集

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アメリカ(America)≧アメリカ合衆国(United States of America)=米国(べいこく)
 北アメリカ大陸にある国。1492コロンブスが漂着し、十六世紀初めにスペインが、1607年からイギリスが入植、1776イギリスから独立宣言し、1783パリ条約で独立を承認、徐々に西へ領土を広げ、十九世紀半ばに太平洋側に到達、二度の世界大戦と冷戦を経て、世界一の工業国・農業国・軍事大国に成長した。首都はワシントン。

右大臣(うだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣・左大臣欠員時の最高官。左大臣とともに国政を統括した。645大化の改新で蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ。倉山田石川麻呂)が任じられたのが最初。

教王護国寺(きょうおうごこくじ)=東寺(とうじ)
 京都市南区所在。真言宗東寺派総本山。794平安京遷都の際に西寺(さいじ)とともに創建され、823嵯峨(さが)天皇が空海(くうかい)に下げ渡して真言宗の中心となった。五重塔・金堂・大師堂・蓮華門・僧形八幡神像・西院不動明王像・真言七祖像・両界曼荼羅・「風信帖」などは国宝。

空海(くうかい)=弘法大師(こうぼうだいし)
 (774-835) 僧。真言宗・書道大師流の祖。書道三聖・三筆の一。佐伯田公(さえきのたきみ)の子。上京して大学へ学んだ後に出家し、804遣唐使に従って入唐、青竜寺の恵果(けいか)に密教を学んで806帰国し、高雄山寺に居住、816嵯峨天皇に高野山を賜り金剛峰寺を、823東寺を賜り教王護国寺(きょうおうごこくじ)を創建して真言宗を布教、824少僧都・827大僧都となり、828綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を創設、『三教指帰(さんごうしいき)』『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』などを著し、最澄(さいちょう)宛の書簡「風信帖(ふうしんじょう)」を残した。

薬子の変(くすこのへん)=平城上皇の変(へいぜいじょうこうのへん)=平城太上天皇(へいぜいだじょうてんのう)の変=薬子の乱
 式家の藤原仲成(ふじわらのなかなり)・藤原薬子(ふじわらのくすこ)らにあおられた平城上皇(へいぜいじょうこう)が嵯峨(さが)天皇に対して起こした反乱未遂事件。809平城天皇は病気のため弟・嵯峨天皇に譲位、旧都・平城京へ移るが、仲成・薬子らにそそのかされて重祚(ちょうそ。再即位)と平城京還都を計画、810嵯峨天皇は巨勢野足(こせののたり)・藤原冬嗣(ふゆつぐ)を蔵人頭(くろうどのとう)に任じ、反乱計画を察知、平安京で仲成を逮捕・射殺した。一方、平城上皇は東国へ行こうとするが失敗して出家、薬子は自殺し、皇太子・高岳親王(たかおかしんのう。高丘親王とも。平城天皇皇子)は廃された。これにより式家は衰退し、北家が台頭した。
内乱味

皇太子(こうたいし)=東宮(とうぐう)=春宮(とうぐう)←太子
 皇位を継ぐ予定の唯一の皇子(または王子・皇女・王女)。次期天皇。七世紀頃に成立?

興福寺(こうふくじ)
 奈良県奈良市所在。法相宗(ほっそうしゅう)大本山。藤原氏の氏寺。藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が建立した山階(やましな)寺をその子・不比等(ふひと)が奈良に移したもの。平安時代以降は北嶺(延暦寺)と並んで日本の仏教教学の中心となり、中世には大和国守護を兼ねた。

●嵯峨太上天皇(さがだいじょうてんのう)=嵯峨上皇(さがじょうこう)←嵯峨天皇←神野親王=賀美能親王(かみのしんのう)
 (786-842) 伝五十二代天皇(在位809-823)。三筆(さんぴつ)の一人。桓武(かんむ)天皇の皇子。平城(へいぜい)天皇の弟。兄の譲位で即位し、検非違使(けびいし)や810蔵人所(くろうどのところ)を設置、蔵人頭に北家の藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)らを登用し、式家の藤原仲成(なかなり)・薬子(くすこ)兄妹らを排斥(薬子の変)、820『弘仁格式(こうにんきゃくしき)』を完成、漢詩集814『凌雲集(りょううんしゅう)』・818『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』・814系譜集『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』を編集させた。842死後、承和(じょうわ)の変が起こった。
内乱味

三論宗(さんろんしゅう)
 南都六宗の一つ。インドの大乗論書の三論(中論+十二論+百論)を根本経典とした宗派。鳩摩羅什(くまらじゅう)が漢訳し、日本には恵灌(えかん)によって飛鳥時代に伝来、智光(ちこう)らが元興寺で、道慈(どうじ)らが大安寺で大成した。平安時代に元興寺流の聖宝(しょうぼう)が東大寺東南院を創建して三論の拠点とした。 

承和の変(じょうわのへん)
 842嵯峨天皇(さがてんのう)没後、政権確立を企んだ藤原良房(ふじわらのよしふさ)が外孫・道康(みちやす)親王を擁立、皇太子・恒貞親王(つねさだしんのう)を廃し、橘逸勢(たちばなのはやなり)・伴健岑(とものこわみね)らを失脚させた事件。逸勢は伊豆へ、健岑は隠岐へ島流しにされ、橘氏・伴氏は衰退、良房一家・藤原北家の勢力が拡大した。告発味2
安保味

真言宗(しんごんしゅう)
 仏教の流派。空海(くうかい)が唐から将来して開宗。天台宗(てんだいしゅう)の台密(たいみつ)に対して東密(とうみつ)と呼ばれる。京都の東寺(とうじ)や高野山(こうやさん)の金剛峰寺(こんごうぶじ)を中心に発展し、三十六流に分かれた。

清和上皇(せいわじょうこう)←清和天皇←惟仁親王(これひとしんのう)
 (850-880) 伝五十六代天皇(在位858-876)。父は文徳(もんとく)天皇。母は藤原良房(よしふさ)の娘・明子(あきらけいこ・めいし)。父の死で九歳で即位し、藤原良房が摂政として補佐、876陽成(ようぜい)天皇に譲位し、清和源氏の祖となった。
諾威味

摂政(せっしょう)
 天皇に代わって国政を執政する者。初めての摂政は『日本書紀』によれば神功皇后とされるが、明らかではない。皇族の摂政は推古朝の聖徳太子(しょうとくたいし)が知られ、斉明朝の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や天武朝の草壁皇子(くさかべのおうじ)も摂政の職を執り行ったという。臣下で初めての摂政は、清和朝の藤原良房(ふじわらのよしふさ)。

太政大臣(だいじょうだいじん・だじょうだいじん)
 律令制における太政官の最高官。常置ではなく、適任者がいなければ欠員。671大友(おおとも)皇子が任じられたのが最初。臣下初の太政大臣は857藤原良房(ふじわらのよしふさ)であるが、奈良時代に藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)が任ぜられた太師(たいし。大師)や、道鏡(どうきょう)が任じられた太政大臣禅師もこれに相当する役職。

天皇(てんのう)
 古代〜現代に至る日本の国王。もとはヤマト政権の大王。七世紀から天皇に移行。初代天皇(大王)は神武(じんむ)天皇?今上天皇は伝百二十五代。大日本帝国憲法では大日本帝国の元首、日本国憲法では国民統合の象徴。
女帝味

(とう)
 (618-907) 古代中国の王朝。李淵(りえん)が創始。首都は長安(ちょうあん)。律令制・均田制を確立し、高句麗(こうくり)を滅ぼして繁栄を極めるが、八世紀半ば以後衰退、907朱全忠(しゅぜんちゅう)に滅ぼされた。

東大寺(とうだいじ)=金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)=総国分寺(そうこくぶんじ)=大華厳寺(だいけごんじ)
 奈良市所在。華厳宗大本山。南都七大寺の一。前身は金鐘寺(こんしゅじ)。大勧進行基(ぎょうき)。開基良弁(ろうべん)。745聖武(しょうむ)天皇が盧舎那仏(るしゃななぶつ)造立のため、市原王(いちはらおう)・佐伯今毛人(さえきのいまえみし)らに命じて創建し、752本尊の盧舎那仏の開眼法要を行った。1180平重衡(たいらのしげひら)に焼かれたが、鎌倉時代に重源(ちょうげん)らが復興、1567松永久秀(まつながひさひで)に焼かれたが、江戸時代に再び復興された。

日本(にほん・にっぽん・やまと)≧日本国(にっぽんこく・にほんこく)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。現在の首都は東京。

日本国憲法(にほんこくけんぽう)
 (1947-) 現行の日本の憲法。十一章百三条。GHQが原案を作成し、幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣に提示、吉田茂(よしだしげる)内閣が審議し、1946.11/3公布、1947.5/3施行。主権在民・象徴天皇・平和主義・戦争放棄・基本的人権の尊重・議院内閣制・地方自治の保障・司法権の独立などを規定している。憲法味 平和味 不戦味

藤原良房(ふじわらのよしふさ)
 (804-872) 公卿。摂政・太政大臣。藤原冬嗣(ふゆつぐ)の子。母は藤原美都子(または大庭女王)。妻は嵯峨天皇皇女・源潔姫(みなもとのきよひめ)。842嵯峨天皇没後、承和(じょうわ)の変で恒貞親王を廃し、通康(みちやす)親王(文徳天皇)を擁立、伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢(たちばなのはやなり)らを追放し、857臣下で初めて太政大臣に就任、866応天門(おうてんもん)の変で伴善男(とものよしお)・紀豊城(きのとよき)・紀夏井(なつい)を追放し、臣下初めて清和(せいわ)天皇の摂政(せっしょう)に就任、869正史『続日本後紀(しょくにほんこうき)』を完成させ、摂関家の祖となった。告発味
安保味 諾威味

平安時代(へいあんじだい)
 (794-1185頃) 平安京に都が置かれ、天皇や貴族が支配していた時代。794桓武(かんむ)天皇の平安遷都に始まり、初期は天皇家が、前中期は藤原氏が、後期は院政の主が、末期は平家が政権を担った。1185源頼朝(みなもとのよりとも)の守護・地頭設置(事実上の鎌倉幕府の創立)頃までをいう。

平城宮(へいじょうきゅう・へいぜいきゅう)
 奈良時代の宮城(大内裏・皇居+官庁街)。平城京の北端中央にあった都城の中心区画。内裏(皇居)・朝堂(議事堂)・諸官庁からなる。

平城太上天皇(へいぜいだいじょうてんのう)=平城上皇(へいぜいじょうこう)←平城天皇←安殿親王(あてしんのう)
 (774-824) 伝五十一代天皇(在位806-809)。桓武(かんむ)天皇の皇子。嵯峨(さが)天皇・淳和(じゅん)天皇の兄。785父の皇太子になり、806父の死によって即位、観察使(かんさつし)を設置し、参議を廃して地方政治改革を行ったが、809病気のため神野親王(かみのしんのう。嵯峨天皇)に譲位、801藤原仲成(ふじわらのなかなり)・藤原薬子(くすこ)兄妹らの勧めで復位と平城京還都を画策して失敗し、仲成は射殺され、薬子は自殺、自身は出家した(薬子の変)。怨念味怨霊味
平城味

法相宗(ほっそうしゅう)=唯識宗(ゆいしきしゅう)
 南都六宗の一つ。万物の諸相を明らかにしようとする仏教の宗派。玄奘(げんじょう。三蔵法師)の弟子・基(き。慈恩大師)が確立し、日本には七〜八世紀に道昭(どうしょう)・智通(ちつう)・智鳳(ちほう)・玄ム(げんぼう)らが将来、元興寺(がんごうじ)と興福寺(こうふくじ)に伝えられた。現在の本山は興福寺と薬師寺(やくしじ)。 

文徳天皇(もんとくてんのう)←道康親王(みちやすしんのう)
 (827-858) 伝五十五代天皇(在位850-858)。仁明(にんみょう)天皇の皇子。母は藤原冬嗣(ふゆつぐ)の娘・順子(じゅんし)。842承和の変で恒貞(つねさだ)親王に代わって立太子し、850父の死で践祚、惟仁親王を皇太子にした。

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