236.印度味 基礎用語集

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右大臣(うだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣・左大臣欠員時の最高官。左大臣とともに国政を統括した。645大化の改新で蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ。倉山田石川麻呂)が任じられたのが最初。

価格等統制令(かかくとうとうせいれい)
 1939公布。1938国家総動員法に基づく勅令。1939.9/18の価格で固定し、公定価格制を実施した。

学童疎開(がくどうそかい)
 1944開始。本土空襲激化のため、都市部の学童を学校まるごと地方の旅館や寺院などに集団疎開させたこと。

学徒出陣(がくとしゅつじん)
 1943文系学生の在学中の徴兵猶予制を停止して戦争に参加させたこと。同時に徴兵年齢も二十歳から十九歳に引き下げた。

鑑真(がんじん)
 (688?-763) 唐(とう)出身の僧。日本律宗(りっしゅう)の祖。唐で菩薩戒(ぼさつかい)と具足戒(ぐそくかい)を極め、江淮(こうわい)の化主と仰がれるが、栄叡(ようえい・えいえい)・普照(ふしょう)に請われて日本渡航を決意、五度の失敗と失明にもめげず、753六度目に来日、754東大寺に戒壇を設置し、聖武上皇・光明皇太后・孝謙(こうけん)天皇らに授戒、755戒壇院を建立し、756大僧都(だいそうず)に就任、759唐招提寺(とうしょうだいじ)を創建した。
呪い味 女帝味

切符制(きっぷせい)
 配給制の典型的な方法。切符を割り当てて物資と交換した。1940マッチや砂糖から始まり、日用品全般に拡大した。

吉備真備(きびのまきび)←下道真備(しもつみちのまきび)
 (693?-775) 学者。公卿。右大臣。下道圀勝(くにかつ)の子。717-735唐に留学、玄ム(げんぼう)とともに橘諸兄(たちばなのもろえ)の政治顧問となり、皇太子・阿倍内親王(孝謙・称徳天皇)の侍講を担当するが、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の圧力で一時左遷、怡土城を築城するが、764恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で軍師に抜擢されて活躍し、右大臣に昇進、称徳(孝謙)天皇没後、文室智努(ふんやのちぬ。浄三)・大市(おおいち)兄弟の擁立を図るが、失敗して引退した。中国味
暴発味 辞任味 意地味 女帝味 ヤミ味

供出制(きょうしゅつせい)
 政府が米などの食糧を農家から強制的に買い上げたこと。

勤労動員(きんろうどういん)
 多くの男性が徴兵されて労働不足になったため、学生・生徒・女性を軍需産業に動員したこと。

遣唐使(けんとうし)=入唐使(にっとうし)=もろこしの使い
 (630-894) 古代に日本から唐(とう)に派遣された公式使節。飛鳥〜平安時代に19回にわたって任命された(渡海は15回。諸説あり)。初代遣唐大使は犬上御田鍬(いぬかみのみたすき)。以後、高向玄理(たかむこのくろまろ・げんり)・阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)・玄ム(げんぼう)・吉備真備(きびのまきび)・最澄(さいちょう)・空海(くうかい)・円仁(えんにん)・円珍(えんちん)ら名だたる著名人が渡海し、さまざまな文物をもたらした。最後の遣唐大使は菅原道真(すがわらのみちざね)だが、894停止を建議して廃絶した。
中国味 受験味

光明皇后(こうみょうこうごう)=藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)→光明皇太后(こうみょうこうたいごう)
 (701-760)聖武(しょうむ)天皇皇后。皇太后。藤原不比等(ふひと)の三女。母は県犬養橘三千代(あがたのいぬかいのたちばなのみちよ)。729長屋王(ながやおう)の変後に臣下で初めて皇后となり、悲田院(ひでんいん)・施薬院(せやくいん)を設置、聖武天皇の仏教政策に協力し、749夫の没後、遺品を正倉院(しょうそういん。正倉院宝物の始まり)に納め、娘の孝謙(こうけん)天皇を後見して実権を掌握、皇后宮職(こうごうぐうしき)を紫微中台(しびちゅうだい)に改組し、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)をその長官とした。
テロ味 暴発味 印度味 辞任味 意地味

国民精神総動員運動(こくみんせいしんそうどういんうんどう)
 1937日中戦争開始後、第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣が呼びかけた、ナチスやファシスト党のような挙国一致の戦時体制を目指した国民組織運動。

国民徴用令(こくみんちょうようれい)
 1939公布。1938国家総動員法に基づく勅令。国民を強制連行して重要産業に就労させられるようにした。

国家総動員法(こっかそうどういんほう)
 日中戦争に際し、政府が人的・物的資源を統制・運用する権限を掌握した法令。1938第一次近衛文麿(このえふみまろ)内閣が発令。政治経済体制を形成し、この法令下で1938国民徴用令・1939賃金統制令・価格等統制令などが発令された。

左大臣(さだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣欠員時の最高官。国政を統括した。645大化の改新で阿倍内麻呂(あべのうちまろ。倉梯麻呂)が任じられたのが最初。 

参議(さんぎ)
 朝廷の閣僚。令下官(りょうげのかん)の一つ。太政官で大臣・納言(なごん)に次き、公卿会議に参加。現代でいう国相。702大伴安麻呂(おおとものやすまろ)・粟田真人(あわたのまひと)・高向麻呂(たかむこのまろ)・下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)・小野毛野(おののけの)の五人に「朝政を参議」させたのが初め。731正式設置。

称徳天皇(しょうとくてんのう)←孝謙(こうけん)上皇←孝謙天皇←阿倍内親王(あべないしんのう)
 (718-770) 第四十六・四十八代天皇(在位749-758,764-770)。聖武天皇皇女。母は藤原光明子(こうみょうし。光明皇后)。738日本初の女性皇太子になり、749即位し752東大寺大仏開眼法要を開催、758淳仁天皇に譲位するが、不和になって実権を奪還、764恵美押勝(えみのおしかつ。藤原仲麻呂)の乱を鎮圧し、天皇に重祚(ちょうそ)、西大寺を建立し、百万塔(ひゃくまんとう)を製作、寵愛(ちょうあい)する道鏡(どうきょう)を大臣禅師、765太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)、766法王(ほうおう)とし、769皇位まで譲ろうとしたが、和気清麻呂(わけのきよまろ)に阻まれ、皇嗣を定めずに没した。印度味 日朝味 意地味 奈良味
女帝味

聖武天皇(しょうむてんのう)→聖武上皇
 (701-756)伝四十五代天皇(在位724-749)。文武(もんむ)天皇の皇子。母は藤原不比等(ふひと)の娘・宮子(みやこ)。伯母・元正(げんしょう)天皇から皇位を譲られ、727基王を立太子させるが翌年没したため、738阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)を皇太子に立て、741国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)建立の詔を、743大仏造立(だいぶつぞうりゅう)の詔を発布、総国分寺・東大寺(とうだいじ)を完成させるなど鎮護国家(ちんごこっか)政策を推進、740藤原広嗣(ひろつぐ)の乱を避けるように、恭仁京(くにきょう)・744紫香楽宮(しがらきのみや)・難波宮(なにわのみや)と都を遷し、754譲位、754鑑真(がんじん)から菩薩戒を受けた。
改元味 令和味 暴発味 温泉味 ヤミ味 辞任味 

新羅(しらぎ・しんら)
 (前57?-935) 古代朝鮮三国の一つ。四世紀前半に辰韓(しんかん)十二国を統一、唐と連合して西の百済(くだら)と北の高句麗(こうくり)を滅ぼし、684朝鮮半島を統一するが、935高麗(こうらい)によって滅亡した。

新体制運動(しんたいせいうんどう)
 1940近衛文麿(このえふみまろ)が中心となり、ナチスやファシスト党のような挙国一致の戦時体制を目指した国民組織運動。

大納言(だいなごん)
 太政官(だいじょうかん・だじょうかん)で左右大臣に次ぐ官職。大臣とともに政務を執った。定員は四人。天武(てんむ)天皇が設置した御史大夫(ぎょしたいふ)が起源で、705その下に中納言が置かれた。758〜764御史大夫(ぎょしたいふ)と改称。最初の大納言は蘇我果安(そがのはたやす)ら。

大日本産業報告会(だいにほんさんぎょうほうこくかい)
 産業報告会(戦争協力体制の労働団体組織)の全国連合組織。

大仏開眼供養(だいぶつかいげんくよう)=大仏開眼供養会(だいぶつかいげんくようえ)
 752東大寺の大仏を開眼供養した祭典。聖武太上天皇、光明皇太后、孝謙天皇、皇太夫人・橘古那可智、左大臣・橘諸兄ら諸王諸臣百官数千人や僧一万人が参列し、開眼師を菩提僊那(ぼだいせんな)が、華厳経講師を隆尊(りゅうそん)が、読師を延福(えんふく)が、呪願師を道センが、都講を景静(けいせい)が務めた。法要で使われたものが正倉院宝物に多く伝わる。印度味

大宰府(だざいふ)=遠の朝廷(とおのみかど)
 九州に置かれた古代の地方特別官庁。福岡県太宰府市所在。西海道(九州)を統括し、外交使節との交渉にも当たった朝廷の出張所。長官は大宰師(だざいのそち)。663白村江(はくそんこう)の戦後に設置され、九世紀以降は貿易も行って活性化したが、1293博多に鎮西探題(ちんぜんたんだい)が置かれて以降、無力化した。
暴発味 令和味

橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)
 (721?-757?) 公卿。諸兄の子。母は藤原不比等(ふひと)の娘の多比能(たひの)。摂津大夫・民部大輔・左大弁などを経て749参議に昇るが、藤原仲麻呂(なかまろ)の政策に反感を抱き、757父の死後に大伴(おおとも)・佐伯(さえき)・多治比(たじひ)氏らと反乱を画策するも、未然に鎮圧されて逮捕された(橘奈良麻呂の変・乱)。印度味
辞任味 意地味

橘 諸兄(たちばなのもろえ)←葛城王(かつらぎおう・かずらきおう)
 (684-757) 公卿。左大臣。橘氏の祖。美努王(みぬおう)の子。母は県犬養橘三千代(あがたのいぬかいたちばなのみちよ)。藤原光明子(こうみょうし)の異父兄として藤原四兄弟没後に政権を握り、参議から大納言、右大臣、左大臣と昇進、国分寺建立・大仏造立など聖武(しょうむ)天皇の鎮護国家(ちんごこっか)政策に協力し、740恭仁京(くにきょう)遷都を主導したと思われるが、756左大臣を辞任した。テロ味
辞任味

鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)
 1944沖縄の中等学校男子生徒千七百八十人で組織された学徒隊。沖縄戦に従軍したが、八百九十人が亡くなった。

(とう)
 (618-907) 古代中国の王朝。李淵(りえん)が創始。首都は長安(ちょうあん)。律令制・均田制を確立し、高句麗(こうくり)を滅ぼして繁栄を極めるが、八世紀半ば以後衰退、907朱全忠(しゅぜんちゅう)に滅ぼされた。
呪い味

東大寺(とうだいじ)=金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)=総国分寺(そうこくぶんじ)=大華厳寺(だいけごんじ)
 奈良市所在。華厳宗大本山。南都七大寺の一。前身は金鐘寺(こんしゅじ)。大勧進行基(ぎょうき)。開基良弁(ろうべん)。745聖武(しょうむ)天皇が盧舎那仏(るしゃななぶつ)造立のため、市原王(いちはらおう)・佐伯今毛人(さえきのいまえみし)らに命じて創建し、752本尊の盧舎那仏の開眼法要を行った。1180平重衡(たいらのしげひら)に焼かれたが、鎌倉時代に重源(ちょうげん)らが復興、1567松永久秀(まつながひさひで)に焼かれたが、江戸時代に再び復興された。
印度味

隣組(となりぐみ)
 1940大政翼賛会の末端協力組織。都市では町内会、村では部落会の下に属し、回覧板で戦争に協力するように仕向けた。

長屋王(ながやおう)長屋親王(ながやしんのう)
 (676?-729)皇族・公卿。左大臣。高市皇子(たけちのおうじ)の子。天武(てんむ)天皇の孫。母は御名部(みなべ)皇女?。文武(もんむ)天皇の妹・吉備(きび)内親王を妻とし、元明(げんめい)天皇に信頼され、藤原不比等(ふじわらのふひと)死後は政界首班として722良田百万町歩の開墾を計画、723三世一身法を施行したが、729藤原四兄弟によって謀反の罪を着せられて自殺に追い込まれた(長屋王の変)。その邸宅跡から多くの木簡が出土した。栄光味 テロ味 温泉味
令和味 呪い味

日本(にほん・にっぽん・やまと)≧日本国(にっぽんこく・にほんこく)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。1869から事実上の首都は東京。

配給制(はいきゅうせい)
 戦中などに不足しがちな物資の流通を統制し、必要に応じて配分したこと。

藤原氏(ふじわらし・ふじわらうじ)
 特に古代に繁栄した氏族。四姓の一。氏祖は中臣鎌足(なかとみのかまたり)。奈良時代に南家(なんけ)・北家(ほっけ)・式家(しきけ)・京家(きょうけ)の四家に分かれ、南家、次いで式家が繁栄したが、平安時代になると北家が台頭、摂政・関白を独占し、いわゆる摂関政治を現出した。鎌倉時代に北家の嫡流である摂関家は五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)に分裂し、摂家将軍も輩出した。⇒藤原氏系図

藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)→恵美押勝(えみのおしかつ)
 (706-764) 公卿。大師(たいし。太政大臣)。南家の祖・武智麻呂(むちまろ)の子。聖武(しょうむ)天皇の大仏造立に協力し、光明皇后(こうみょうこうごう)に取り入って749紫微令(しびれい)・紫微内相(しびないしょう。内臣に相当)に就任、757橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の反乱を未然に防ぎ(橘奈良麻呂の変・乱)、758舎人親王(とねりしんのう)の王子・淳仁(じゅんにん)天皇を擁立、大師に昇って栄華を極めるが、764孝謙(こうけん)上皇のお気に入り・道鏡(どうきょう)の排除を図って挙兵し、近江で敗れて殺された(恵美押勝の乱)。
温泉味 印度味 辞任味 意地味 日朝味 女帝味

仏教(ぶっきょう)=仏道(ぶつどう)
 釈迦(しゃか)を開祖とする宗教。日本には欽明(きんめい)天皇の時代に百済の国王・聖明王(せいめいおう)によってもたらされた。年代については552説(『日本書紀』による)と538説(『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』『元興寺縁起(がんごうじえんぎ)』による)がある。これを「仏教公伝」とするが、これ以前にも渡来人・司馬達等(しばたっと)が自宅で仏像を礼拝していたという(仏教私伝)。以後、従来からあった神道(しんとう)と並んで浸透した。

盧舎那仏(るしゃなぶつ)=毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)≧東大寺大仏(とうだいじだいぶつ)
 蓮華蔵(れんげぞう)世界に住み、全宇宙を照らす仏。東大寺の盧舎那仏像は743聖武(しょうむ)天皇が紫香楽宮(しがらきのみや)で造立を発願し、行基(ぎょうき)を勧進に任命するが一時中断、747平城京で再開し、造仏長官・国中公麻呂(くになかのきみまろ)らが造立、752菩提僊那(ぼだいせんな)を開眼師に任じて開眼法要を行った。1180平清盛(たいらのきよもり)の命を受けた平重衡(しげひら)に、1567松永久秀(まつながひさひで)に焼かれたが、足や台座などは創建当初のもの。
印度味

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