1.青雲の要路 | ||||||||||||||
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水野氏は、徳川家康の母・水野於大(みずのおだい。伝通院。忠政の娘)の実家である。
そのため、水野一族からは多くの大名・幕臣を輩出、江戸時代以降大繁栄した。
中でも有名なものは以下の六流であろう。
勝成流 | 大名家。勝成は忠政の孫。6→10→1→1.3→1.8万石 三河苅谷→大和郡山→備後福山→能登西谷→下総結城 |
忠守流 | 大名家。忠守は忠政の子。3.5→4.5→5→6→7→5万石 駿河田中→三河岡崎→肥前唐津→遠江浜松→出羽山形など 忠之・忠邦は老中に昇進。 |
忠清流 | 大名家。忠清は勝成の弟。1→4→7→0.7→2→3→4→5万石 上野小幡→三河苅谷→三河吉田→信濃松本→駿河沼津など 忠友・忠成は老中に昇進。 |
忠増流 | 大名家。忠増は忠清の子。0.5→0.7→1.2→1.5万石 安房北条→上総鶴巻 忠定は若年寄に昇進。 |
重央流 | 家老家。重央は忠政の孫。紀伊徳川家家老。 遠江浜松→紀伊新宮 |
成貞流 | 旗本家。成貞は勝成の子。 旗本奴・十郎左衛門(成之)は成貞の子。 |
忠邦は忠守流の末裔(まつえい)、肥前唐津(からつ。佐賀県唐津市)藩主・水野忠光(みずのただあきら)の次男として寛政六年(1794)六月二十三日に江戸で生まれた。
生母は側室・中川恂であったが、兄・芳丸(よしまる)の早世により、世継とされたのである。
水野忠邦 PROFILE | |
【生没年】 | 1794-1851 |
【別 名】 | 於菟五郎・松軒・菊園・越前守 |
【出 身】 | 江戸(東京都) |
【本 拠】 | 江戸城(東京都千代田区) |
【職 業】 | 大名・政治家 |
【役 職】 | 奏者番→寺社奉行→大坂城代→京都所司代 →老中(1828-1843,1844-1845) →老中首座(1839-1843,1844-1845) 肥前唐津藩主→遠江浜松藩主 式部少輔→和泉守→左近将監→越前守→侍従 |
【位 階】 | 従五位下→従四位下 |
【 父 】 | 水野忠光 |
【 母 】 | 中川恂(大住氏養女) |
【継 母】 | 浅野重晟の娘 |
【 兄 】 | 水野芳丸 |
【 妻 】 | 酒井忠進の娘 |
【 子 】 | 水野忠精 |
【主 君】 | 徳川家斉・徳川家慶 |
【上 司】 | 水野忠成ら |
【 師 】 | 塩谷宕陰 |
【部 下】 | 二本松義廉・鳥居耀蔵・渋川敬直・後藤光亨 ・羽倉外記・江川英竜・川路聖謨・遠山景元ら |
【仇 敵】 | 姉小路局・土井利位ら |
【墓 地】 | 万松寺(茨城県結城市) |
文化四年(1807)忠邦は十四歳で元服、文化九年(1812)十九歳で父の後を継いで肥前唐津藩主となり、
「藩政改革を行う!」
と、高らかと宣言、父が解雇していた家老・二本松義廉(にほんまつよしかど。大炊)を再雇用し、質素倹約や風紀粛清を行わせた。
当然、自らも率先して粗末な着物を着、倹約に努めたのである。
二本松はホクホクして言った。
「若様。すこぶるいいことですよ〜」
が、忠邦は現状に満足していなかった。
(小さい! 小さい! 余はこんな僻地(へきち)で小さくまとまっている人物ではなーい!)
忠邦は出世をねらっていた。
老中首座(ろうじゅうしゅざ。今の首相)!
幕府の最高峰、幕閣のトップに昇り詰めることをもくろんでいたのである。
水野家は譜代大名であり、今までに老中も何人か輩出していた。忠守流でも六代前の忠之(ただゆき)が老中になっているから、決して不可能な目標ではなかった。
文化十一年(1814)、忠邦は奏者番(そうじゃばん)に就任した。
奏者番は幕閣への登竜門である。
大名や旗本が将軍に謁見(えっけん)する際に取り次ぐ役職であり、朝廷でいう蔵人頭のようなものである(「2005年7月号 詐欺味」参照)。出世をもくろむ譜代大名は、ここから上を目指すのであった。
「余は出世するのだ! 出世しなければ、余に活躍の場は与えられないのだ! 余の行く道は、そう!
青雲の要路なのだっ!」