1.青雲の要路

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自民党圧勝政権は改革をするのか?
1.青雲の要路
2.出世運動
3.大願成就
4.独裁者降誕
5.貧民を救え!
6.こんな改革は嫌だ!
7.日本を守れ!
8.ああ、失脚……。
   

 水野氏は、徳川家康の母・水野於大(みずのおだい。伝通院。忠政の娘)の実家である。
 そのため、水野一族からは多くの大名・幕臣を輩出、江戸時代以降大繁栄した。
 中でも有名なものは以下の六流であろう。

勝成流 大名家。勝成は忠政の孫。6→10→1→1.3→1.8万石
三河苅谷→大和郡山→備後福山→能登西谷→下総結城
忠守流 大名家。忠守は忠政の子。3.5→4.5→5→6→7→5万石
駿河田中→三河岡崎→肥前唐津→遠江浜松→出羽山形など
忠之・忠邦は老中に昇進。
忠清流 大名家。忠清は勝成の弟。1→4→7→0.7→2→3→4→5万石
上野小幡→三河苅谷→三河吉田→信濃松本→駿河沼津など
忠友・忠成は老中に昇進。
忠増流 大名家。忠増は忠清の子。0.5→0.7→1.2→1.5万石
安房北条→上総鶴巻
忠定は若年寄に昇進。
重央流 家老家。重央は忠政の孫。紀伊徳川家家老。
遠江浜松→紀伊新宮
成貞流 旗本家。成貞は勝成の子。
旗本奴・十郎左衛門(成之)は成貞の子。

 忠邦は忠守流の末裔(まつえい)肥前唐津(からつ。佐賀県唐津市)藩主・水野忠光(みずのただあきら)の次男として寛政六年(1794)六月二十三日に江戸で生まれた。
 生母は側室・中川恂であったが、兄・芳丸
(よしまる)の早世により、世継とされたのである。

水野忠邦 PROFILE
【生没年】 1794-1851
【別 名】 於菟五郎・松軒・菊園・越前守
【出 身】 江戸(東京都)
【本 拠】 江戸城(東京都千代田区)
【職 業】 大名・政治家
【役 職】 奏者番→寺社奉行→大坂城代→京都所司代
→老中(1828-1843,1844-1845)
→老中首座(1839-1843,1844-1845)
肥前唐津藩主→遠江浜松藩主
式部少輔→和泉守→左近将監→越前守→侍従
【位 階】 従五位下→従四位下
【 父 】 水野忠光
【 母 】 中川恂(大住氏養女)
【継 母】 浅野重晟の娘
【 兄 】 水野芳丸
【 妻 】 酒井忠進の娘
【 子 】 水野忠精
【主 君】 徳川家斉・徳川家慶
【上 司】 水野忠成ら
【 師 】 塩谷宕陰
【部 下】 二本松義廉・鳥居耀蔵・渋川敬直・後藤光亨
・羽倉外記・江川英竜・川路聖謨・遠山景元ら
【仇 敵】 姉小路局・土井利位ら
【墓 地】 万松寺(茨城県結城市)

 文化四年(1807)忠邦は十四歳で元服、文化九年(1812)十九歳で父の後を継いで肥前唐津藩主となり、
「藩政改革を行う!」
 と、高らかと宣言、父が解雇していた家老・二本松義廉
(にほんまつよしかど。大炊)を再雇用し、質素倹約や風紀粛清を行わせた。
 当然、自らも率先して粗末な着物を着、倹約に努めたのである。
 二本松はホクホクして言った。
「若様。すこぶるいいことですよ〜」
 が、忠邦は現状に満足していなかった。
(小さい! 小さい! 余はこんな僻地
(へきち)で小さくまとまっている人物ではなーい!)

 忠邦は出世をねらっていた。
 老中首座
(ろうじゅうしゅざ。今の首相)
 幕府の最高峰、幕閣のトップに昇り詰めることをもくろんでいたのである。
 水野家は譜代大名であり、今までに老中も何人か輩出していた。忠守流でも六代前の忠之
(ただゆき)老中になっているから、決して不可能な目標ではなかった。

 文化十一年(1814)、忠邦は奏者番(そうじゃばん)に就任した。
 奏者番は幕閣への登竜門である。
 大名旗本将軍に謁見
(えっけん)する際に取り次ぐ役職であり、朝廷でいう蔵人頭のようなものである(「2005年7月号 詐欺味」参照)。出世をもくろむ譜代大名は、ここから上を目指すのであった。
「余は出世するのだ! 出世しなければ、余に活躍の場は与えられないのだ! 余の行く道は、そう! 青雲の要路なのだっ!」

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