48.改革味 基礎用語集

上知令(あげちれい)=上地令
 水野忠邦の天保の改革で、大都市周辺を強制的に幕府領にまとめようとした法令。財政・海防政策の一環であったが、該当大名や庶民の猛烈な反対にあい、当初賛成していた老中・土井利位(どいとしつら)らまで反対に回って失敗、忠邦は失脚し、天保の改革は終わった。

阿部正弘(あべまさひろ)≦阿部伊勢守(いせのかみ)
 (1819-1857) 老中(在職1843-1857)。備後福山(広島県福山市)藩主。正精(まさきよ)の子。1838奏者番(そうじゃばん)1840寺社奉行を経て1843二十六歳で老中になり、1844老中首座、水戸家当主・徳川斉昭(とくがわなりあき)、薩摩鹿児島藩主・島津斉彬(しまづなりあきら)らと連携し、1853ペリー来航に対し1854日米和親条約を調印して開国、英・露とも調印し、長崎海軍伝習所・洋学所(後の蕃所調所)・講武場(後の講武所)を設立、1855堀田正睦(ほったまさよし)に老中首座を譲った。

アヘン戦争(あへんせんそう)=阿片戦争・鴉片戦争
 (1840-1842) アヘン密輸問題から起こったイギリスと清(中国)の戦争。1839広州(こうしゅう)で在庫アヘンを大量に処分した清に怒ったイギリスが1840遠征軍を派遣、香港(ホンコン)など中国沿岸各地を攻略し、南京(ナンキン)に迫ったため清は降伏、南京条約を調印し、香港を割譲、広州・福州(ふくしゅう)・厦門(アモイ)・寧波(ニンポー)・上海(シャンハイ)を開港、多額の賠償金を支払った。

井伊直弼(いいなおすけ)≦井伊掃部頭(かもんのかみ)
 (1815-1860) 大老(在職1858-1860)。近江彦根(ひこね)藩主。1857-1858将軍継嗣問題では、南紀派(なんきは)として徳川慶福(とくがわよしとみ。家茂)を推し、徳川斉昭(なりあき)・松平慶永(まつだいらよしなが。春岳)ら一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ。徳川慶喜)を推す一橋派と対立、1858大老に就任し、勅許を得ずに日米修好通商条約を調印、神奈川(のち横浜)・長崎・新潟・兵庫を開港し、江戸・大坂の開市(かいし。商売)を許可、自由貿易を承認し、領事裁判権・協定関税などを規定、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結ぶ(安政の五か国条約)が反発多々、1858-1859安政の大獄で吉田松陰(よしだしょういん)・橋本左内(はしもとさない)らを処刑し、斉昭・慶永・近衛忠煕(このえただひろ)・梅田雲浜(うめだうんびん)・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)らを弾圧するが、1860桜田門外の変で水戸浪士らに暗殺された。

異国船打払令(いこくせんうちはらいれい)・無二念(むにねん)打払令・文政(ぶんせい)打払令
 1825江戸幕府が出した外国船追放令。1808フェートン号事件や1824イギリス捕鯨船による暴行事件を受け、全ての外国船を排除することにした。が、1837モリソン号事件や、1840-1842アヘン戦争での清の敗戦を受けて幕府の態度は軟化、1842老中・水野忠邦は天保の薪水(しんすい)給与令を発令している。

市川団十郎(いちかわだんじゅうろう)
 江戸を代表する歌舞伎役者の名門。荒事(あらごと)の宗家。初代(1660-1704)が荒事を創始し、二代(1688-1758)が確立、七代(1791-1859)は天保の改革で一時江戸を追放されるが、後に「歌舞伎十八番」を制定、九代(1838-1903)は近代随一の名優で「明治の劇聖」と呼ばれた。

印旛沼干拓(いんばぬまかんたく)
 田沼意次(たぬまおきつぐ)や水野忠邦(みずのただくに)らが行おうとした印旛沼(千葉県)の干拓事業。田沼は干拓により新田開発を目指すが、利根川の洪水により失敗した。水野は先の目的のほか海防政策の一環として行おうとしたが、失脚により中止された。

打ちこわし(うちこわし)
 江戸時代に庶民が金持ちを襲撃し、破壊・略奪を働いたこと。

浦賀(うらが)・浦河
 現在の神奈川県横須賀市にある地名。江戸時代に江戸湾の要所として天領となり、1720浦賀奉行(下田奉行を移転)を設置、1853ペリーが来航して入港し、幕府が海防の拠点として浦賀造船所を設立、明治維新後は軍港・工業港として栄えた。

江川英竜(えがわひでたつ)=江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん)=江川坦庵(たんあん)
 (1801-1855) 幕臣・砲術家。1835伊豆韮山(にらやま)代官を継ぎ、渡辺崋山(わたなべかざん)ら蘭学者と交流、天保の改革に参画し、江戸湾の海防政策で鳥居耀蔵(とりいようぞう)と対立、高島秋帆に砲術を学び、ペリー来航後に勘定吟味役格海防掛に就任、伊豆防備を建言し、韮山に反射炉を、品川に台場を設置した。

江戸(えど)
 現在の東京都都心。江戸時代の政治の中心地(首都)。1457太田道灌(おおたどうかん)が江戸城を築いて栄え、1590徳川家康(とくがわいえやす)が入城により発展、江戸時代中期に人口百万人を超え、1868明治天皇が行幸して東京と改められ、日本の首都になった。

江戸城(えどじょう)→皇居
 東京都千代田区(ちよだく)所在。平安時代に江戸重継(えどしげつぐ)が居館を造営し、1457太田道灌(おおたどうかん)が築城、後北条氏の支城となり、1590徳川家康(とくがわいえやす)が改築、1603以降は将軍在所となり、1868に明治天皇が入城して皇居となった。天守閣(てんしゅかく)は明暦(めいれき)の大火で炎上後は再建されなかった。

江戸幕府(えどばくふ)=徳川(とくがわ)幕府
 (1603-1867) 江戸時代の武家政権。1600関ヶ原の戦で勝利した徳川家康(とくがわいえやす)が1603に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任して創始。徳川氏が代々将軍に就任、老中(ろうじゅう)が政務を統括し、臨時に大老(たいろう)が置かれた。1867十五代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が朝廷に大政奉還(たいせいほうかん)、1868-1869戊辰(ぼしん)戦争をへて旧幕府勢力は解体した。

大岡忠相(おおおかただすけ)≦大岡越前守(えちぜんのかみ)
 (1677-1751) 幕臣。忠真(ただざね)の養子。目付(めつけ)・山田奉行から八代将軍・徳川吉宗(とくがわよしむね)に見込まれて町奉行に抜擢(ばってき)され、1716-1745享保(きょうほう)の改革に協力、1742『公事方御定書(くじかたおさだめがき)』を編集し、小石川養生所を設置、町火消(まちびけし)制度を確立させ、寺社奉行に昇進、三河西大平(みかわにしおおひら。愛知県岡崎市)藩を興した。

大御所(おおごしょ)
 引退した将軍のこと。もとは親王や将軍の隠居所のこと。特に徳川家康(とくがわいえやす)・徳川家斉(いえなり)が有名。

大坂(おおさか・おおざか)→大阪
 現在の大阪府大阪市。府庁所在地。戦国時代に石山本願寺(いしやまほんがんじ)を中心に栄え、1583豊臣秀吉が大坂城を築いて発展、江戸時代には日本経済の中心として「天下の台所」と呼ばれ、明治維新後に大阪と改めた。

大坂城代(おおさかじょうだい)
 江戸幕府の職名。大坂城主代理。大坂城主は将軍なので、実質上の城主。大坂の支配、畿内の治安や西国大名の監視を担当。

大塩平八郎(おおしおへいはちろう)=大塩後素(としもと)=大塩中斎(ちゅうさい)
 (1793-1837) 陽明学者。大坂町奉行与力を務め、引退後は洗心洞(せんしんどう)を開塾、『洗心洞箚記(せんしんどうさっき)』を著し、1833-1839天保の飢饉の窮状を大阪町奉行所に訴えたが聞き入れられず、「救民」の旗を掲げて蜂起、豪商・鴻池(こうのいけ)屋などを破壊するが、鎮圧されて自殺した(大塩平八郎の乱)。

大塩平八郎の乱(おおしおへいはちろうのらん)
 1837元大坂町奉行与力で陽明学者の大塩平八郎が起こした反乱。大塩は天保の飢饉の窮状を大阪町奉行所に訴えたが聞き入れられず、「救民」の旗を掲げて蜂起、豪商・鴻池(こうのいけ)屋などを破壊するが、鎮圧された。

大目付(おおめつけ)
 江戸幕府の職名。老中付属。幕政・大名を監察。定員は四〜五名で旗本から選任。

オランダ商館(おらんだしょうかん)
 オランダ東インド会社日本支店。1609平戸(ひらど)に設置され、鎖国により1641長崎の出島に移転、長崎貿易の拠点として栄えたが、幕府の貿易制限により貿易額は次第に減少した。

オランダ商館長(おらんだしょうかんちょう)=甲比丹(カピタン)
 オランダ商館の館長。オランダ貿易の指揮官。毎年江戸に赴き、将軍と会った。初代館長はJ.スペック。

オランダ風説書(おらんだふうせつがき)
 オランダ船が入港するたびにオランダ商館長が江戸幕府に提出した海外情報報告書。オランダ通詞が翻訳し、長崎奉行が幕閣に届けた。1842アヘン戦争後、詳細版として「別段風説書」も始まった。

囲米(かこいまい・かこいごめ)=囲籾(かこいもみ)
 江戸時代に凶作や米価高騰に備えて米を蓄えておいたこと。

歌舞伎(かぶき)
 安土桃山時代に始まった舞踊劇。出雲阿国(いずものおくに)の「かぶき踊り(阿国歌舞伎・女歌舞伎)」が始まり。女歌舞伎や若衆(わかしゅ。少年)歌舞伎は間もなく禁止されたが、野郎(やろう。おじさん)歌舞伎は現在まで続いている。

株仲間(かぶなかま)
 江戸時代に幕府や藩から公認された商工業者の同業組織。株仲間は幕府に冥加金(みょうがきん)を上納することで営業独占権を与えられた。

株仲間解散令(かぶなかまかいさんれい)
 1841水野忠邦の天保の改革で、株仲間・問屋・組合の解散を命じた法令。1841江戸の十組問屋などに適用し、1842全国的に適用した。商業を自由化させることによって物価下落を促すのが目的であったが、流通が混乱するなどしてかえって物価は急騰、1851再興令が出された。

勘定吟味役(かんじょうぎんみやく)
 江戸幕府の職名。老中付属。1682徳川綱吉(とくがわつなよし)が設置。1712新井白石(あらいはくせき)が再置。定員は三名(後に四〜六名)。勘定奉行を助け、収支を監査した。

勘定奉行(かんじょうぶぎょう)=勘定頭(かんじょうがしら)
 江戸幕府の職名。幕府の財政を担当。三奉行の一。老中付属で旗本から選任。定員は四名。天領(幕府領)の財政・訴訟を担当。

寛政の改革(かんせいのかいかく)
 (1787-1793) 老中首座・松平定信(まつだいらさだのぶ)が行った幕政改革。1786老中・田沼意次(たぬまおきつぐ)が失脚すると、将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)は松平を抜擢(ばってき)、将軍補佐となり、1789棄捐令(きえんれい)を、1790寛政異学の禁・物価引下げ令・出版統制令を発令、江戸石川島に人足寄場(にんそくよせば)を設け、囲米(かこいまい)を命令、旧里帰農令を発し、1791七分金積立(しちぶきんつみたて。七分積金)を制定した。

紀伊家(きいけ)
 御三家の一。紀伊和歌山(きいわかやま。和歌山県和歌山市)藩。五十五万五千石。祖は徳川家康十男・頼宣(よりのぶ)。藩校は学習館。八代将軍吉宗(よしむね)、十四代将軍家茂(いえもち)を出した。

京都所司代(きょうとしょしだい)
 江戸幕府の職名。室町幕府の侍所所司代に由来。京都の支配、朝廷の監視、畿内天領の司法、西国大名の監視を担当。実質的な初代は板倉勝重(いたくらかつしげ)だが、これ以前にも織田信長が村井貞勝(むらいさだかつ)を、豊臣秀吉が前田玄以(まえだげんい)を、関ヶ原の戦後に徳川家康が奥平信昌(おくだいらのぶまさ)を任じている。

金座(きんざ)=小判座(こばんざ)
 江戸時代の貨幣鋳造所。三座の一。勘定奉行付属。代々後藤家が御金改役として統轄した。1869造幣局設立により廃止。

蔵人頭(くろうどのとう)
 蔵人所(くろうどところ)長官。定員二人。天皇に近侍し、極秘文書や訴訟をつかさどった。810嵯峨(さが)天皇が薬子の変に備え、藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)と巨勢野足(こせののたり)を任命したのに始まり、以後、公卿昇進への登竜門となった。詐欺味1

小泉純一郎(こいずみじゅんいちろう)
 (1942-) 政治家。首相(在職2001-)。福田赳夫(ふくだたけお)の秘書を経て衆院議員に当選し、厚相・郵政相などを歴任、2001自民党総裁として首相に就任し、「聖域なき構造改革」を提示、郵政民営化等を目指し、2002北朝鮮の金正日(キムジョンイル)総書記と日朝平壌宣言(にっちょうピョンヤンせんげん)を発表、拉致問題解決に尽力している。不況味

合巻(ごうかん)
 近世小説の一分野。黄表紙(きびょうし。滑稽・風刺小説)数冊分を合わせた大衆・通俗小説の一種。最初のものは式亭三馬(しきていさんば)の『雷太郎強悪物語(いかずちたろうごうあくものがたり)』。代表作は柳亭種彦(りゅうていたねひこ)の『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)。1841-1843天保の改革で弾圧されて衰退した。

豪商(ごうしょう)
 江戸時代の大商人のこと。江戸の三井(みつい)家・紀伊国屋文左衛門(きのくにやぶんざえもん)・奈良屋茂左衛門(ならやもざえもん)、大坂の末吉孫左衛門(すえよしまござえもん)・鴻池(こうのいけ)家・住友(すみとも)家・淀屋辰五郎(よどやたつごろう)、京都の茶屋四郎次郎(ちゃやしろうじろう)、堺の津田宗及(つだそうぎゅう)・今井宗久(いまいそうきゅう)・今井宗薫(そうくん)・納屋助左衛門(なやすけざえもん)、博多の島井宗室(しまいそうしつ)・神谷宗湛(かみやそうたん)、長崎の末次平蔵(すえつぐへいぞう)・荒木宗太郎(あらきそうたろう)らが有名。消費味豪遊味

御三家(ごさんけ)
 徳川家康の子を祖とする親藩(しんぱん)中最高位の三家のこと。尾張(おわり)徳川家・紀伊(きい)徳川家・水戸(みと)徳川家。将軍直系が絶えたときに後継を出した。

嵯峨天皇(さがてんのう)←賀美能親王(かみのしんのう)・神野親王
 (786-842) 伝五十二代天皇(在位809-823)。三筆(さんぴつ)の一人。桓武(かんむ)天皇の皇子。平城(へいぜい)天皇の弟。兄の譲位で即位し、検非違使(けびいし)や810蔵人所(くろうどのところ)を設置、反対派の藤原仲成(なかなり)・薬子(くすこ)兄妹らを退け(薬子の変)、820『弘仁格式(こうにんきゃくしき)』を完成、漢詩集814『凌雲集(りょううんしゅう)』・818『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』・814系譜集『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』を編集させた。842その死後、承和(じょうわ)の変が起こった。

佐藤信淵(さとうのぶひろ)
 (1769-1850) 思想家・経世家(経済学者)。江戸に出て宇田川玄随(うだがわげんずい)に蘭学を、木村泰蔵に天文・地理学を、平田篤胤(ひらたあつたね)に国学を学び、諸国を回遊して『農政本論』『経済要録』『宇内混同秘策』『鎔造化育論』などを著した。

参議院(さんぎいん)=参院(さんいん)
 (1890- )日本国憲法のもと、衆議院とともに国会を構成する両院の一つ。議員定数は二百四十二人(当初は二百五十二人)。任期は六年で、三年ごとに半数改選。解散はない。

寺社奉行(じしゃぶぎょう)
 江戸幕府の職名。三奉行の筆頭。将軍直属で譜代大名から選任。定員は四、五名。寺社・寺社領・僧・神官・楽人・棋士・陰陽師などを支配した。

下田(しもだ)
 現在の静岡県下田市。1616下田奉行が置かれたが、1720浦賀に移転、1842再置され、一時廃止を経て1860まで存続した。1854日米和親条約で箱館(はこだて。函館)とともに開港され、1856アメリカ駐日総領事としてハリスがここに着任した。

衆議院(しゅうぎいん)=衆院(しゅういん)
 (1890- )日本国憲法のもと、参議院とともに国会を構成する両院の一つ。戦前は、大日本帝国憲法のもと、貴族院とともに帝国議会を構成。戦前は予算の先議権が認められ、戦後は加えて法律の再議決などが認められている(衆議院の優越)。議員定数は四百八十人(当初は三百人)。任期は四年だが、解散がある。

自由民主党(じゆうみんしゅとう)=自民党(じみんとう)
 (1955- )自由党と民主党の保守合同によって成立した政党。初代総裁は鳩山一郎(はとやまいちろう)。結党以来一貫して政権を保持したが、1993に分裂、初めて野党に転落するが、1994再び政権党に返り咲いた。

儒教(じゅきょう)≒儒学
 孔子(こうし)を開祖とする思想。日本には応神(おうじん)天皇の時代に百済の学者・王仁(わに)によってもたらされた。鎌倉時代に朱子学が伝来し、江戸時代に藤原惺窩(ふじわらせいか)・林羅山(はやしらざん)らが大成、陽明学・考証学も伝来し、古学・折衷学も興った。

尚歯会(しょうしかい)=山の手派=蛮学社中(ばんがくしゃちゅう)
 紀伊和歌山藩儒・遠藤勝助(えんどうしょうすけ)が天保の飢饉対策のため主宰した知識人の会合。高野長英(たかのちょうえい)・渡辺崋山(わたなべかざん)。政治結社や単なる洋学研究会ではないと思われる。

清(しん)
 (1616-1912) 近世〜近代の中国の王朝。1616太祖ヌルハチが女真族を統一して後金(ごきん)を興し、二代太宗ホンタイジが国号を清と改称、三代世祖順治帝が北京を攻略して首都となし、中国を統一したが、1840アヘン戦争を機に諸外国に侵食され、1894-1895日清戦争で日本に敗北、1911辛亥(しんがい)革命が起こり、1912宣統帝溥儀(ふぎ)の退位によって滅びた。

慎機論(しんきろん)
 江戸時代の思想書。渡辺崋山(わたなべかざん)著。1838成立。1837モリソン号事件での幕府の海防政策の無謀さを外国事情を紹介して説明したもの。この書により、渡辺は蛮社の獄で永蟄居(ちっきょ。生涯謹慎)させられた。

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)=将軍
 もとは蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための軍事長官。後に武家政権の最高指導者の称号。奈良時代の征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。1192源頼朝(みなもとのよりとも)就任以後は幕府の統率者の称号。将軍味

側用人(そばようにん)
 江戸幕府の職名。将軍の側近。老中との取次役。徳川綱吉が設置。初代側用人は牧野成貞(まきのなりさだ)。柳沢吉保(やなぎさわよしやす)は特に有名。

代官(だいかん)
 江戸幕府の職名。勘定奉行付属。天領(幕府領)の民政を担当。そのうち十万石以上の者を郡代(ぐんだい)といった。

大学頭(だいがくのかみ)
 昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんしょ)の長官。儒学界のドン。林家が世襲した。

大名(だいみょう)
 所領を多く持つ有力な武士のこと。もとは名田(みょうでん)を多く者の意味で、室町時代に守護大名が、戦国時代に戦国大名が登場、江戸時代では将軍に直属した一万石以上の武家のことをいった。

大老(たいろう)
 江戸幕府の最高職。臨時職。定員一名。1638三代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)が土井利勝(どいとしかつ)と酒井忠勝(さかいただかつ)を任じたのに始まり(井伊直孝が最初とも)、幕末までにほか七名が就任したが(数には諸説あり)、実権を振るったのは酒井忠清(さかいただきよ)・堀田正俊(ほったまさとし)・井伊直弼(いいなおすけ)ぐらいであった。

高島秋帆(たかしましゅうはん)
 (1798-1866) 砲術家。荻野(おぎの)流砲術と西洋砲術を学び、高島流を創始、江川英竜(えがわひでたつ)に砲術を教え、1840幕府に西洋砲術の必要性を説得、1841徳丸ヶ原(東京都板橋区)で練兵を行い、幕府に洋式砲を採用させるが、1842鳥居耀蔵(とりいようぞう)の讒言(ざんげん)によって失脚、1853ペリー来航後に江川の尽力で再び召され、1857講武所砲術師範となった。

鷹見泉石像(たかみせんせきぞう)
 江戸時代の肖像画。渡辺崋山(わたなべかざん)画。1837完成。渡辺の代表作で、写実的な名作。東京国立博物館蔵。国宝。モデルの鷹見泉石は下総古河(しもうさこが。茨城県古河市)藩の家老で蘭学者。

高野長英(たかのちょうえい)
 (1804-1850) 蘭学者・医学者。シーボルトに師事するが、1828シーボルト事件後蒸発し、江戸で医院を開業、尚歯会(しょうしかい)に属して渡辺崋山(わたなべかざん)・小関三英(こせきさんえい)らと討論し、1837モリソン号事件で幕府の海防政策を批判、『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』を著し、蛮社の獄で永牢(えいろう。終身刑)になるが脱獄逃亡、後に江戸で見つかって自殺した。

為永春水(ためながしゅんすい)
 (1790-1843) 戯作者。人情本(にんじょうぼん。恋愛小説)の元祖。式亭三馬(しきていさんば)に師事し、『春告鳥(はるつげどり)』『花名所懐中暦(はなめいしょかいちゅうごよみ。弟子たちと合作)』などを執筆するか、天保の改革で『春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ。梅暦)が風俗上の問題により絶版、処罰されてまもなく病死した。

天保の改革(てんぽうのかいかく)
 (1841-1843) 老中首座・水野忠邦()が行った幕政改革。1841大御所・徳川家斉(とくがわいえなり)の死により水野が幕政を掌握、1841質素倹約・風紀粛清などを行い、株仲間を解散、1842アヘン戦争に勝利したイギリスを意識して下田(しもだ)・羽田(はねた)・1843新潟奉行を設置し、人返しの法を発令、印旛沼(いんばぬま)を干拓するが、上知令(あげちれい。上地令)を老中・土井利位(どいとしつら)らに反発されて失敗した。改革味

天保の飢饉(てんぽうのききん)
 (1833-1839または1833-1836) 冷害や豪雨・台風などによる全国的な大飢饉。凶作により物価が急騰し、東北地方を中心に餓死する者多く、各地で百姓一揆や打ちこわしが多発、1837大塩平八郎(おおしおへいはちろう)の乱などの騒乱も発生した。税金味

天保の薪水給与令(てんぽうのしんすいきゅうよれい)=薪水給与令
 1842老中・水野忠邦(みずのただくに)が出した外国船友好令。それまで幕府は1808フェートン号事件や1824イギリス捕鯨船による暴行事件を受けて1825異国船打払令を発令して強硬に対処してきたが、1837モリソン号事件や、1840-1842アヘン戦争での清(しん)の敗戦を受けて軟化、外国船には友好的に対応し、薪水や食糧を支給するように命じた。

問屋(といや)
 室町〜江戸時代の運送・倉庫業者。鎌倉時代の運送業者・問(とい。問丸)が本格的に倉庫業を兼ねて発展したもの。

東京大学(とうきょうだいがく)=東大(とうだい)←東京帝国大学←帝国大学(ていこくだいがく)←東京大学
 (1877-) 明治時代に東京開成学校と東京医学校を統合して創立された国立大学。東京都文京区所在。初代総理は加藤弘之。1886帝国大学令によって帝国大学となり、1890東京農林学校を吸収、1897京都帝国大学設置によって東京帝国大学となり、1947東京大学と改称した。

徳川家斉(とくがわいえなり)
 (1773-1841) 江戸幕府十一代将軍(在職1787-1837)・大御所。御三卿の一・一橋治済(ひとつばしさだ)の子。陸奥白河藩主・松平定信(まつだいらさだのぶ)を登用し、寛政(かんせい)の改革を行わせるが、定信の失脚後は大御所時代の現出、豪華な生活をし、妻四十一人から五十五人の子女をもうけた。
改革味

徳川家康(とくがわいえやす)←松平元康(まつだいらもとやす)←松平元信(もとのぶ)
 (1542-1616) 武将。江戸幕府初代将軍(在職1603-1605)・大御所。三河岡崎(みかわおかざき)城主・松平広忠(まつだいらひろただ)の子。1560桶狭間(おけはざま)の戦後に岡崎城主となり、織田信長と同盟を締結、今川氏を滅ぼして遠江浜松(とおとうみはままつ)城主となるが1572三方原(みかたがはら)の戦で武田信玄(たけだしんげん)に惨敗、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(かつより)を撃退し、1582本能寺(ほんのうじ)の変後、1584小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦後に豊臣秀吉と講和、1590小田原(おだわら)攻めに従って武蔵江戸(えど)城主となり、関東を統治、五大老に列し、秀吉の死後の1600関ヶ原の戦で石田三成らを撃破、1603征夷大将軍となって江戸幕府を開き、1605将軍職を秀忠(ひでたた)に譲渡、駿河府中(するがふちゅう)に退くが、大御所として実権を掌握、1614〜1615大坂の役で豊臣秀頼(ひでより)を滅ぼし、1615武家諸法度(ぶけしょはっと)・禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)・一国一城令(いっこくいちじょうれい)などを定めた。最強味惨敗味人質味銃器味ニセ味穴雪味芸人味変化味変節味
官僚味裏金味籠城味

徳川家慶(とくがわいえよし)
 (1793-1853) 江戸幕府十二代将軍(在職1837-1853)。家斉(いえなり)の子。1841老中・水野忠邦(みずのただくに)に天保の改革を行わせるが、1843上知令が原因で罷免し、老中・阿部正弘(あべまさひろ)を登用して開国に導かせた。改革味

徳川斉昭(とくがわなりあき)
 (1800-1860) 常陸水戸藩主。治利(はるとし)の子。藤田東湖(ふじたとうこ)・会沢正志斎(あいざわせいしさい。安)らを登用し、検地・軍備増強・弘道館(こうどうかん)設立など藩政改革を行い、1853ペリー来航後は海防参与として攘夷を主張、1857-1858将軍継嗣問題では一橋派として息子・一橋慶を推すが、徳川慶福(よしとみ。家茂)を推した井伊直弼(いいなおすけ)ら南紀派に敗れ、1858日米修好通商条約調印にも反発し、1858-1859安政の大獄で処罰された。

十組問屋(とくみどいや)
 (1694-1841) 1694江戸で綿店組・酒店組・紙店組ら十組が結成した荷受問屋(にうけどいや。運送・倉庫業者)の組合。大坂の二十四組問屋と連携、菱垣廻船(ひがきかいせん)の再興、三橋(さんきょう)会所の設立、幕府への冥加金(みょうがきん)上納などによって特権的地位を築くが、1841株仲間解散令で廃止された。

長崎(ながさき)
 現在の長崎県長崎市。県庁所在地。1571大村純忠(おおむらすみただ)がポルトガルとの貿易のために開港し、1580イエズス会に寄進、九州平定後、豊臣秀吉が没収して直轄都市とし、江戸幕府も長崎奉行を設置して統治、鎖国時代は唯一の貿易港として、開国後は重工業都市として発展したが、1945アメリカにより原爆が投下された。

新潟(にいがた)
 現在の新潟県新潟市。県庁所在地。647渟足柵(ぬたりのさく)が置かれ、江戸時代には西廻航路の寄港地として発展、1843新潟奉行が設置され、1858日米修好通商条約により1868開港した。

二宮尊徳(にのみやそんとく・たかのり)←二宮金次郎(きんじろう)
 (1787-1856) 農政家。没落した家を再興して農政に目覚め、勤労・倹約を主とする報徳思想を創始、1823相模小田原藩に登用されて農村復興に尽力、1842普請役格の幕臣となり、印旛沼(いんばぬま)干拓にも関与した。

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。

人情本(にんじょうぼん)=中本(ちゅうぼん)=泣本(なきほん)
 近世小説の一分野。洒落本(しゃれぼん)の流れを汲む恋愛小説の一種。最初のものは十返舎一九(じっぺんしゃいっく)の『清談峯初花(せいだんみねのはつはな)』。代表作は為永春水(ためながしゅんすい)の『春色梅児誉美(しゅんしょくうめごよみ)』。1841-1843天保の改革で弾圧されて衰退した。

年貢(ねんぐ)
 平安〜江戸時代に領主が農民に課した税。江戸時代には原則として田は米、畑は作物で支払った。地租改正で廃止。

旗本(はたもと)
 将軍直属の家臣のうち、一万石未満、御目見得(おめみえ)以上の者。

蛮社の獄(ばんしゃのごく)
 1839江戸幕府が洋学研究会「尚歯会(しょうしかい)」を弾圧した事件。1837高野長英(たかのちょうえい)・渡辺崋山(わたなべかざん)・小関三英(こせきさんえい)ら尚歯会のメンバーは、モリソン号事件における江戸幕府の対応を非難、高野は『戊戌(ぼじゅつ)夢物語』を、渡辺は『慎機論(しんきろん)』を著した。これに対し目付・鳥居耀蔵(とりいようぞう)は尚歯会弾圧を画策、無人島(小笠原諸島)渡航計画という濡れ衣を着せて高野・渡辺を逮捕し(小関は自殺)、政敵・江川英竜(えがわひでたつ)らを失脚させようと告発した。しかし不審に思った老中・水野忠邦(みずのただくに)が再調査させたところ無実が発覚、江川らは助かったが、高野・渡辺は幕府を批判した罪で改めて処罰、渡辺はまもなく自殺し、高野は脱獄逃亡後に自殺した。

美人画(びじんが)
 浮世絵のうち、美人を描いたもの。代表作家は鈴木春信(すずきはるのぶ)・喜多川歌麿(きたがわうたまろ)ら。鈴木は錦絵(にしきえ。カラー版画)を創始した。

人返しの法(ひとかえしのほう)=人返し令
 水野忠邦の天保の改革で、大都市に流入していた農民を強制的に帰郷させた法令。都市の人口を減らし、農村を復興させようとした政策。

百姓一揆(ひゃくしょういっき)
 江戸時代の農民による領主への抵抗運動。越訴(おっそ。直訴)・強訴(ごうそ)・惣百姓一揆(デモ)・打ちこわしなどに分けられる。
税金味

武士(ぶし)・侍(さむらい)・武者(むしゃ)
 武芸をおさめて軍事にたずさわった者。

譜代大名(ふだいだいみょう)
 江戸時代の大名のうち、関ヶ原の戦いより早く徳川家に仕えていた大名のこと。全国の要衝を領し、幕府の要職に就くことができた。井伊家など。

戊戌夢物語(ぼじゅつゆめものがたり)
 江戸時代の思想書。高野長英(たかのちょうえい)著。1838成立。1837モリソン号事件での幕府の海防政策を夢の中の討論に固くして批判したもの。この書により、高野は蛮社の獄で永牢(えいろう。終身刑)になった。

堀田正睦(ほったまさよし)←堀田正篤(まさひろ)
 (1810-1864) 幕閣。老中(在職1837-1843,1855-1858)。下総佐倉(千葉県佐倉市)藩主。正時の子。1829奏者番(そうじゃばん)、1834寺社奉行、1837大坂城代を経て老中に昇進、1841-1843水野忠邦の天保の改革に協力するが上知令(あげちれい)には反対、1844水野失脚で罷免されるが、1855老中・阿部正弘(あべまさひろ)の要請で再任、老中首座となり、アメリカ駐日総領事・ハリスと日米修好通商条約を協議するが、孝明(こうめい)天皇の勅許を得られず断念、1857-1858将軍継嗣問題では一橋(ひとつばし)派に転じたため、大老・井伊直弼(いいなおすけ)に罷免された。

町奉行(まちぶぎょう)≧江戸町奉行
 江戸幕府の職名。三奉行の一。老中付属で旗本から選任。南北両町奉行が月番(一月交代)で江戸の民政(行政・司法・警察等)を担当。江戸のほかに京都・大坂・駿府(すんぷ。静岡)などにも町奉行が置かれた。

水野忠邦(みずのただくに)・水野越前守(えちぜんのかみ)
 (1794-1851) 幕閣。老中(在職1828-1843,1843-1844)。肥前唐津(佐賀県唐津市)→遠江浜松(静岡県浜松市)藩主。忠光(ただあきら)の子。1815奏者番(そうじゃばん)、1817寺社奉行、1825大坂城代、1826京都所司代を経て1828老中に昇進、1839老中首座になり、1841-1843天保の改革を断行、1841質素倹約・風紀粛清などを行い、株仲間を解散、1842アヘン戦争に勝利したイギリスを意識して下田(しもだ)・羽田(はねた)・1843新潟奉行を設置し、人返しの法を発令、印旛沼(いんばぬま)を干拓するが、上知令(あげちれい。上地令)を老中・土井利位(どいとしつら)らに反発されて失脚した。改革味

水戸家(みとけ)
 御三家の一。常陸水戸(ひたちみと。茨城県水戸市)藩。二十五万石(後に三十五万石)。祖は徳川家康十一男・頼房(よりふさ)。藩校は弘道館。二代光圀(みつくに)が『大日本史』を編集し、九代斉昭(なりあき)が天保の藩政改革を断行、幕末には1860桜田門外の変や1864天狗党(てんぐとう)の乱(筑波山事件)などを起こした。

目付(めつけ)
 江戸幕府の職名。若年寄付属。旗本・御家人を監察。定員は十名以上。

モリソン号事件(もりそんごうじけん)
 1837江戸幕府がアメリカ船・モリソン号を砲撃して撃退した事件。モリソン号は漂流民七名を送還するため浦賀に来航したが、浦賀奉行・太田資統(おおたすけのり)は異国船打払令に基づいてこれを砲撃、モリソン号は薩摩山川(さつまやまがわ)でも砲撃され、澳門(マカオ)に撤退した。この事件に対して高野長英(たかのちょうえい)・渡辺崋山らが幕府を非難、1839蛮社(ばんしゃ)の獄を招いた。

役者絵(やくしゃえ)
 浮世絵のうち、歌舞伎役者の似顔や舞台姿などを描いたもの。代表作家は東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)・勝川春章(かつかわしゅんしょう)ら。勝川は大首絵(おおくびえ。顔周辺どアップ画)を完成させた。

ラクスマン=ラックスマン(A.K.Laksman)
 (1766-?) フィンランド出身のロシアの陸軍軍人。1792エカチェリーナ二世の命令で漂流民・大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)を伴って根室(ねむろ)に来航、通商を要求したが断られ、代わりに長崎入港の許可を得て帰国した。

柳亭種彦(りゅうていたねひこ)
 (1783-1842) 戯作者。合巻(ごうかん。通俗小説)の大家。旗本。唐衣橘洲(からころもきっしゅう)や烏亭焉馬(うていえんば)に師事し、『正本製(しょうほんじたて)』『邯鄲(かんたん)諸国物語』などを執筆するが、『源氏物語』を借りて大奥を風刺した『偐紫田舎源氏(にせむらさきいなかげんじ)』が天保の改革で筆禍を受けて絶版、まもなく病死した。

老中(ろうじゅう)
 江戸幕府の執政官。幕政を統括。定員は四、五名で月番制。二万五千石以上の譜代大名から選抜された。最初の老中(当初は年寄と呼ばれた)は大久保忠隣(おおくぼただちか)と本多正信(ほんだまさのぶ)とされている(酒井忠世らとも)。

若年寄(わかどしより)
 江戸幕府の職名。老中補佐。定員は三〜五名で月番制。旗本及び諸役人を支配。

渡辺崋山(わたなべかざん)=渡辺定静(さだやす)
 (1793-1841) 蘭学者。画家。三河田原藩家老。谷文晁(たにぶんちょう)に師事し、『鷹見泉石像(たかみせんせきぞう)』『一掃百態(いっそうひゃくたい)』などを描画、高野長英(たかのちょうえい)・小関三英(こせきさんえい)らと共に尚歯会(しょうしかい)に属して蘭学を学び、1837モリソン号事件で幕府の海防政策を批判して1838『慎機論(しんきろん)』を執筆するが、1839蛮社(ばんしゃ)の獄で逮捕され、自殺した。

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