12.日朝味 基礎用語集

飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)
 飛鳥時代の首都。天武(てんむ)天皇・持統(じとう)天皇の皇居。672大海人皇子(おおあまのおうじ。天武天皇)が遷都して即位。694持統天皇の藤原京(ふじわらきょう)遷都で廃絶。

阿倍比羅夫(あべのひらふ)=阿倍引田(ひけた)比羅夫
 (?-?) 武将。越(こし)国守。658齶田(あきた。秋田)の蝦夷(えぞ・えみし)を討ち、660津軽(つがる)の粛慎(あしはせ・みしはせ)を平定、663百済救援軍の将軍になったが、白村江(はくそんこう・はくすきのえ)で唐(とう)・新羅(しらぎ)連合軍に敗退(白村江の戦)、帰国後は大宰師(だざいのそち)を務めた。

安康天皇(あんこうてんのう)
 (401?-456?)第二十代天皇(在位453?-456?)。允恭(いんぎょう)天皇皇子。兄の木梨軽(きなしのかる)皇子を自殺させ、仁徳(にんとく)天皇の皇子・大草香(おおくさか)皇子を殺害してその妃・中蒂姫(なかしひめ)と結婚したが、継子・眉輪王(まゆわ・まよわおう)に殺されたという。倭王興(こう)とされる。
非行味

板垣退助(いたがきたいすけ)
 (1837-1919) 政治家。参議。内相。土佐高知藩士。1868-1869戊辰(ぼしん)戦争や1871廃藩置県の活躍で参議に就任、西郷隆盛(さいごうたかもり)らとともに留守政府を主導したが、1873征韓論争で破れて下野(明治六年の政変)、1874民選議院設立を建白し、東京で愛国公党(あいこくこうとう)を、土佐で立志社(りっししゃ)を、1875大阪で愛国社(あいこくしゃ)を結成して自由民権運動を主導、大阪会議で大久保利通(おおくぼとしみち)と和解し、一時参議に復帰するが、すぐに辞職、1878愛国社を再興し、1880国会期成同盟(こっかいきせいどうめい)と改称、1881自由党を結成し、第二次伊藤博文(いとうひろぶみ)内閣・第一次大隈重信(おおくましげのぶ)内閣で内相を務めた。

伊藤博文(いとうひろぶみ)
 (1841-1909) 政治家。首相(在職1885-1888,1892-1896,1898,1900-1901)。元老。長門萩(長州)藩士。1871-1873岩倉遣外使節副使として欧米を視察、参議兼工部卿・内務卿などを歴任した後、1885内閣制度を創設し、1889大日本帝国憲法(明治憲法)制定に尽力、四度首相になり、1887保安条例を制定、1894-1895日清戦争を行い、1895陸奥宗光(むつむねみつ)とともに清の李鴻章(りこうしょう)と下関(しものせき)条約を締結、1900立憲政友会(りっけんせいゆうかい)を結成して総裁に就き、退陣後も元老として重きをなし、1905統監府(とうかんふ)設置とともに初代韓国統監に就任、1904・1905・1907日韓協約を重ねて韓国併合を目指すが、1909韓国独立運動家・安重根(あんじゅうこん。アン・ジュングン)によって射殺された。

岩倉遣外使節(いわくらけんがいしせつ)=岩倉使節団
 明治政府が海外に派遣した使節。特命全権大使は岩倉具視(いわくらともみ)。副使は木戸孝允(きどたかよし・こういん)・大久保利通(おおくぼとしみち)・伊藤博文(いとうひろぶみ)・山口尚芳(やまぐちなおよし)。総勢約百人。1871出発。アメリカ・イギリス・フランス・ベルギー・オランダ・ドイツ・ロシア・デンマーク・スウェーデン・イタリア・オーストリア・スイスの十二か国を訪問。目的は条約改正のための予備交渉だったが、果たせず1873帰国。

岩倉具視(いわくらともみ)
 (1825-1883) 政治家。公家。孝明(こうめい)天皇に仕え、公武合体を目指して和宮(かずのみや)降嫁を画策、尊攘派ににらまれて洛北(らくほく)に隠棲(いんせい)し、密かに大久保利通(おおくぼとしみち)らと接触、1867王政復古を実現させ、小御所(こごしょ)会議で徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の辞官納地(じかんのうち)処分を決し、参与・議定(ぎじょう)・1869大納言・1870外務卿・1871右大臣等を歴任、1871-1873岩倉遣外使節の特命全権大使として欧米を視察し、帰国後は西郷隆盛(さいごうたかもり)らの征韓論を退け、1881明治十四年の政変にも関与した。

宇喜多秀家(うきたひでいえ)
 (1572-1655) 武将。大名。大老。直家の子。 豊臣秀吉の養子となり、1581備前岡山を領有、1585四国・1587九州・1590小田原攻めに従い、1592-1596文禄・1697-1598慶長の役で活躍、五大老に列したが、1600関ヶ原の戦で西軍の主力として戦、敗れて八丈島(はちじょうじま)に島流しにされた。

江藤新平(えとうしんぺい)
 (1834-1874) 政治家。司法卿(しほうきょう)。参議。肥前佐賀藩士。尊攘(そんじょう)運動に奔走し、東京遷都を提唱、1872司法卿として司法制度を整備し、1873参議になるが、征韓論争に敗れて下野(明治六年の政変)、1874板垣退助らとともに民選議院設立を建白するが、佐賀の乱を起こして敗死した。

恵美押勝(えみのおしかつ)の乱
 藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ。別名恵美押勝)が孝謙(こうけん)上皇に対して起こした反乱。764太師(太政大臣)・藤原仲麻呂は、孝謙上皇のお気に入りの僧・道鏡(どうきょう)を除こうとして反乱を起こすが、吉備真備(きびのまきび)の采配(さいはい)や藤原式家(しきけ)の人々の活躍などにより近江にて敗死。これにより、仲麻呂が擁していた淳仁天皇は淡路に流され、孝謙上皇は称徳天皇として再び皇位に就いた。

近江大津宮(おうみのおおつのみや)
 飛鳥時代の首都。滋賀県大津市所在。天智(てんち・てんじ)天皇・大友皇子(おおとものおうじ・弘文天皇)の皇居。667天智天皇が遷都するが、672壬申(じんしん)の乱で大友皇子が大海人皇子(おおあまのおうじ・天武天皇)に敗れて廃絶。

大臣(おおおみ)
 大和政権における最高執政者(政務)。臣姓氏族(大王家の支流氏族)の中で最高位。葛城(かずらき)氏・平群(へぐり)氏・巨勢(こせ)氏・蘇我(そが)氏が務めた。

大王(おおきみ)
 大和政権の首長。皇族の代表。天武(てんむ)天皇の頃から天皇と呼ばれるようになった。

大久保利通(おおくぼとしみち)
 (1830-1878) 政治家。参議。内務卿。薩摩鹿児島藩士。島津斉彬(しまづなりあき)・島津久光(ひさみつ)に仕え、公武合体に努めたが、後に倒幕に転じ、第二次長州征討(征伐)に西郷隆盛(さいごうたかもり)とともに反発、1867岩倉具視(いわくら)とともに王政復古を実現し、1868参与(さんよ)に就任、1869版籍奉還・1871廃藩置県に活躍し、大蔵卿(おおくらきょう)として殖産興業に尽力、1871-1873岩倉遣外使節に副使として従い、1873参議に就いて征韓論を唱える西郷らを排除(明治六年の政変)、内務卿を兼ねて実権を握り、1874佐賀の乱を鎮めて台湾出兵を断行、1875大阪会議で木戸孝允(きどたかよし)・板垣退助(いたがきたいすけ)と和解し、1876神風連(じんぷうれん)の乱・秋月(あきづき)の乱・萩(はぎ)の乱・1877西南戦争を鎮圧したが、1878不平士族に暗殺された(紀尾井坂の変)。

大坂城(おおさか・おおざかじょう)
 大阪市中央区所在。1583石山本願寺(いしやまほんがんじ)跡に豊臣秀吉が築城、1615大坂夏の陣で炎上した。戦後まもなく再建、将軍が城主とされ、大坂城代(じょうだい)が置かれた。天守閣は1665落雷で焼失したが、1931再現された。

大坂冬の陣(おおさかふゆのじん)
 1600関ヶ原の戦に勝って天下を取った徳川家康(とくがわいえやす)は、豊臣家滅亡を謀り、1614方広寺(ほうこうじ)の鐘銘(しょうめい)にいちゃもんをつけて豊臣家を挑発、多数の牢人(ろうにん。浪人)を雇ったことを口実に二十万の大軍で大坂城を攻囲するが、真田幸村(さなだゆきむら。信繁)らの奮戦で攻めきれず、講和した。

大坂夏の陣(おおさかなつのじん)
 
冬の陣で豊臣家と講和した徳川家康(とくがわいえやす)だったが、もとより仲良くする気はなく、大坂城の外堀だけを埋めるという講和条件を無視し、内堀まで埋めて豊臣家を挑発、重ねて無理難題を突きつけ、受け入れられないと知るや諸大名に出陣命令、十五万の大軍で再び大坂城に攻め寄せた。豊臣方も奮戦するがかなわず、真田幸村(さなだゆきむら。信繁)らは戦死、大坂城は炎上し、淀殿(よどぎみ)・豊臣秀頼(ひでより)母子は自害、豊臣家は滅亡した。  

大友皇子(おおとものおうじ・おおとものみこ)=伊賀皇子(いがのおうじいがのみこ)=弘文天皇(こうぶんてんのう)
 (648-672)伝三十九代天皇(在位671-672)。天智天・皇の第一皇子。671太政大臣になるが、672壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に敗死。

大伴金村(おおとものかなむら)
 (?-?)大連(おおむらじ)。武烈(ぶれつ)天皇・継体(けいたい)天皇を擁立して執政、新羅征討を行い、大連・物部麁鹿火(もののべのあらかひ)に527-528磐井(いわい)の乱を鎮圧させるが、512任那(みまな。加羅)四県を百済に割譲したことを大連・物部尾輿(おこし)らに責められ、540失脚した。国境味
日朝味2

大連(おおむらじ)
 大和政権における最高執政者(軍事)。連姓氏族(大王とは祖先が違う神別氏族)の中で最高位の者。大伴(おおとも)氏・物部(もののべ)氏が務めた。

加藤清正(かとうきよまさ)
 (1562-1611) 武将。大名。豊臣秀吉に仕え、1583賤ヶ岳(しずがたけ)の戦で活躍(七本槍の一人)、1588肥後熊本を領し、1592-1596文禄(ぶんろく)の役・1597-1598慶長(けいちょう)の役で奮戦、1600関ヶ原の戦では東軍に属し、1601熊本城を新築した。

韓国(かんこく)=大韓民国(だいかんみんこく)←大韓帝国(だいかんていこく)
 (1897-1910,1948-) アジアの朝鮮半島南部にある国。李氏朝鮮王朝二十六代・高宗(こうそう)が国号を大韓帝国と改めるが、1910韓国併合条約によって日本の植民地になり(日韓併合)、1945-1948アメリカの占領を経て、1948大韓民国として独立した。首都はソウル。

●関白(かんぱく)
 天皇が国政を執り行うのを補佐する者。初めての関白は光孝(こうこう)朝の藤原基経(ふじわらのもとつね)。

吉備真備(きびのまきび)
 (693?-775) 学者。公卿。右大臣。717-735唐に留学し、橘諸兄(たちばなのもろえ)の政治顧問となって大仏造営などに協力、皇太子・阿倍内親王(孝謙天皇)の侍講を務めたが、藤原仲麻呂の圧力で一時左遷、764恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で軍師として活躍し、右大臣に昇進、称徳(孝謙)天皇没後、文室浄三(ふんやのきよみ)・大市(おおいち)兄弟の擁立を図るが、失敗して引退した。

義兵(ぎへい)
 文禄・慶長の役において豊臣秀吉の侵略に抵抗するため朝鮮各地で決起した抗日義勇軍。高麗(こうらい)・朝鮮の元特権階級らが民衆を組織して戦った。

九州攻め(きゅうしゅうぜめ)=九州征伐→九州平定
 全国統一を目指す豊臣秀吉と九州統一を目指す島津義久(しまづよしひさ)との戦争。1578耳川(みみかわ)の戦で義久に大敗した大友宗麟(おおともそうりん)は秀吉に救援を依頼、秀吉は長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・仙石久秀(せんごくひさひで)らを遣わしたが、1586戸次川(へつぎがわ)の戦で敗れた。1587秀吉は出陣し、自らは肥後路を、弟の豊臣秀長(ひでなが)は日向路と別れて進撃、日向高城(たかじょう)救援に失敗して戦意を喪失した義久は降伏した。

欽明天皇(きんめいてんのう)
 (509?-571) 伝二十九代天皇(在位539?-571)。継体(けいたい)天皇の皇子。538or552に百済(くだら)の聖明王(せいめいおう)から
仏像・経典を送られ(仏教公伝)、562加羅(から。任那)が滅亡したという。

元老(げんろう)
 明治〜昭和時代初期の長老権力者。天皇に代わって首班選定や重要政策決定にあたった。伊藤博文(いとうひろぶみ)・井上馨(いのうえかおる)・山県有朋(やまがたありとも)・大山巌(おおやまいわお)・黒田清隆(くろだきよたか)・西郷従道(さいごうつぐみち)・松方正義(まつかたまさよし)の七人。後に桂太郎(かつらたろう)・西園寺公望(さいおんじきんもち)・大隈重信(おおくましげのぶ)が加えられた。

百済(くだら・ひゃくさい)
 (前18?-660) 古代朝鮮三国の一つ。四世紀の初めに馬韓(ばかん)五十五国を統一、北の高句麗(こうくり)、東の新羅(しらぎ・しんら)と勢力を三分するが、660唐(とう)・新羅連合軍に攻められて滅亡した。まもなく旧臣たちによって復興運動が起こり、日本も援助するが、663白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦で唐・新羅連合軍に敗れて壊滅した。

小泉純一郎(こいずみじゅんいちろう)
 (1942-) 政治家。首相(在職2001-)。福田赳夫(ふくだたけお)の秘書を経て1972衆院議員に当選、厚相・郵政相などを経て、2001自民党総裁として首相に就任、「聖域なき構造改革」を掲げ、派閥解消に尽力、2002北朝鮮の金正日(キムジョンイル)総書記と日朝平壌宣言(にっちょうピョンヤンせんげん)を発表し、2005道路公団を民営化、2007の郵政民営化を決定した。不況味

(こう)
 倭の五王の一人。済(せい)の子。武(ぶ)の兄。462宋に遣使し、「安東将軍」とされたという。安康天皇と思われる。安康天皇
非行味

皇極天皇(こうぎょくてんのう)⇒皇極上皇⇒斉明(さいめい)天皇
 (594-661) 宝(たから)皇女。伝三十五・三十七代天皇(在位642-645,655-661)。茅渟王(ちぬおう)の王女。高向(たかむこ)王の妃。舒明(じょめい)天皇の皇后。夫の没後に即位するが、645乙巳の変で弟・孝徳(こうとく)天皇に譲位、弟没後に再び即位し、新羅征討のため九州に赴いたが、筑紫朝倉宮(あさくらのみや)で没した。

高句麗(こうくり)
 (前47?-668) 古代朝鮮三国の一。現在の北朝鮮および中国東部。朱蒙(しゅもう)が建国。313楽浪郡を滅ぼし、五世紀初めに広開土王(こうかいどおう。好太王)が朝鮮半島に進出してきた倭(わ)を撃退、427長寿王が平壌に都を移し、唐・百済・新羅と争ったが、668唐・新羅連合軍に滅ぼされた。

光明皇后(こうみょうこうごう)・藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)
 (701-760)聖武(しょうむ)天皇皇后。藤原不比等(ふひと)の三女。729長屋王(ながやおう)の変後に臣下で初めて皇后となり、悲田院(ひでんいん)・施薬院(せやくいん)を設置、749聖武天皇没後、遺品を正倉院(しょうそういん。正倉院宝物の始まり)に納め、皇后宮職(こうごうぐうしき)を紫微中台(しびちゅうだい)に改組、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)をその長官とした。

古事記(こじき)
 現存日本最古の歴史書。3巻。紀伝体。天武天皇の命で稗田阿礼(ひえだのあれ)が暗唱していた昔話を太安万侶(おおのやすまろ)が編集。神代〜推古朝までを収録。

後藤象二郎(ごとうしょうじろう)
 (1838-1897) 政治家。参議。土佐高知藩士。藩主・山内豊信(やまうちとよしげ。容堂)を動かして徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の大政奉還(たいせいほうかん)を勧め、明治政府の参与(さんよ)・左院(さいん)議長・参議等を務めたが、征韓論争で破れて下野(明治六年の政変)、1874板垣退助(いたがきたいすけ)らと民選議院設立を建白し、1881自由党結成にも参加、1886藩閥(はんばつ)政府に反発するため大同団結運動を提唱したが、後に融和し、逓信相・農商相等を務めた。

小西行長(こにしゆきなが)
 (1558-1600) 武将。キリシタン大名。堺の豪商・小西隆佐(りゅうさ)の子。豊臣秀吉に仕え、船奉行として紀州・四国・九州攻めに従軍、1588肥後宇土(うと)を領し、1592-1596文禄(ぶんろく)の役では先陣として活躍、講和を画策するが失敗、1600関ヶ原(せきがはら)の戦で西軍について敗死した。

西郷隆盛(さいごうたかもり)
 (1827-1877) 軍人・政治家。参議。薩摩鹿児島藩士。島津斉彬(しまづなりあきら)に仕え、将軍継嗣問題で暗躍するが、1858安政の大獄が起こると奄美大島(あまみおおしま)に潜伏、島津久光(ひさみつ)によって徳之島(とくのしま)等に流刑にされたが召還され、1864禁門の変では薩摩藩参謀として長州藩を破り、第一次長州征討(征伐・戦争)を収拾、1866坂本竜馬(さかもとりょうま)の調停で桂小五郎(かつらこごろう。後の木戸孝允)と薩長連合(さっちょうれんごう。薩長同盟)を締結、1867岩倉具視(いわくらともみ)・大久保利通(おおくぼとしみち)と結んで倒幕の密勅降下を画策し、王政復古の実現に協力、1868-1869戊辰(ぼしん)戦争で参謀を務め、江戸開城を実現、1869版籍奉還(はんせきほうかん)に備え、山県有朋(やまがたありとも)と御親兵(ごしんぺい。後の近衛師団)を組織、1870参議になり、1871廃藩置県に尽力したが、1873征韓論争で敗れて下野(明治六年の政変)、1877西南戦争を起こして敗死した。
日朝味8

(さかい)
 現在の大阪府堺市。大阪湾に面した港町で、室町時代から勘合貿易や南蛮貿易で繁栄。三十六人の門閥豪商からなる会合衆(えごうしゅう)が町政を執った。織田信長に多額の矢銭(軍資金)を要求されて抵抗したが、結局屈服した。江戸時代は幕府領。

佐賀(さが)の乱
 佐賀の士族に担がれた江藤新平(えとうしんぺい)・島義勇(しまよしたけ)らと明治政府の戦争。最初の不平士族の反乱。1874佐賀の不平士族は征韓党(せいかんとう)の長に江藤を、憂国(ゆうこく)党の長に島を担ぎ、約一万二千人で佐賀県庁を襲撃、佐賀城を攻略したが、政府軍に奪還され、鎮圧された。江藤・島らは逃れたが逮捕、十一名が処刑された。

参議(さんぎ)
 初期明治政府の執政官。太政大臣・左右大臣を補佐して国政を主導した。西郷隆盛(さいごうたかもり)・大久保利通(おおくぼとしみち)・木戸孝允(きどたかよし)など、主に雄藩(ゆうはん)から選ばれた。

三条実美(さんじょうさねとみ)
 (1837-1891) 政治家。公卿。1862国事御用掛(こくじごようがかり)となり、尊攘(そんじょう)運動を推進、1863八月十八日の政変で失脚して長州に下るも(七卿落ち)、1867議定(ぎじょう)・1871太政大臣に就任、1873征韓論争に苦しみ、1885内閣制度創設によって内大臣に転じ、1889一時首相を兼ねた。

士族(しぞく)
 明治維新後に旧武士階級に与えられた身分呼称。華族の下。平民の上。石高に応じて家禄が与えられたが、秩禄(ちつろく)処分により廃され、生活苦の余り反乱を起こす者もあった。

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)≦将軍
 蝦夷(えぞ・えみし)など異敵を討伐するための軍事長官。奈良時代にあった征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。もとは東国で兵乱が起こったときの臨時職であったが、1192源頼朝(みなもとのよりとも)が任命されて以後、武家の最高指導者の称号となった。将軍味

聖徳太子(しょうとくたいし)=厩戸(うまやど)皇子
 (574-622) 摂政(在任593-622)。587蘇我馬子(そがのうまこ)とともに物部守屋(もののべのもりや)を討ち、594仏教興隆の詔を発表、593推古(すいこ)天皇の摂政となり、難波(なにわ)に四天王寺(してんのうじ)を建立、603冠位十二階を・604憲法十七条を定め、607小野妹子(おののいもこ)ら遣隋使(けんずいし)を派遣、斑鳩(いかるが)に法隆寺(ほうりゅうじ)を建て、611注釈書『勝鬘経義疏(しょうまんきょうぎしょ)』・614『維摩(ゆいま)経義疏』・615『法華(ほっけ)経義疏』・620史書『天皇記』・『国記』を編集した。
日朝味4

称徳天皇(しょうとくてんのう)←孝謙上皇(こうけんじょうこう)←孝謙天皇←阿倍内親王(あべないしんのう)
 (718-770) 伝四十六・四十八代天皇(在位749-758,764-770)。聖武天皇皇女。738日本初の女性皇太子になり、749即位、752東大寺大仏開眼法要を開き、758淳仁天皇に譲位するが、まもなく不和となって実権を奪還、764恵美押勝(えみのおしかつ)の乱を鎮圧し、再び天皇に即位、戦没者のために百万塔(ひゃくまんとう)を作らせ、寵愛する道鏡(どうきょう)を大臣禅師に765太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)に766法王(ほうおう)とし、769皇位まで譲ろうとしたが、和気清麻呂(わけのきよまろ)に阻まれた。
女帝味

新羅(しらぎ・しんら)
 (前57?-935) 古代朝鮮三国の一つ。四世紀前半に辰韓(しんかん)十二国を統一、唐と連合して西の百済(くだら)と北の高句麗(こうくり)を滅ぼし、684朝鮮半島を統一するが、935高麗(こうらい)によって滅亡した。
紙幣味

壬申の乱(じんしんのらん)
 皇位継承をめぐる飛鳥時代最大の内乱。671天智(てんち・てんじ)天皇の死後、子の大友(おおとも)皇子(弘文天皇)と弟の大海人(おおあま)皇子(天武天皇)が対立し、672大海人皇子は吉野(よしの)で挙兵、伊勢・美濃・尾張国司を懐柔し、不破(ふわ)・鈴鹿関(すずかのせき)を封鎖、飛鳥古京を占拠した。大友皇子は待ち返しを図るが瀬田(せた)で敗れ、大津宮(おおつのみや)で自殺した。

推古天皇(すいこてんのう)←額田部皇女(ぬかたべのおうじょ・ひめみこ)
 (554-628) 伝三十三代天皇(在位587-628)。欽明(きんめい)天皇の皇女。母は蘇我稲目(そがのいなめ)の娘・堅塩媛(きたしひめ)。敏達(びだつ)天皇の皇后となって竹田皇子らを生み、587用明天皇没後、崇峻天皇を大王に推挙、592崇峻天皇横死後に大臣・蘇我馬子(そがのうまこ)に推され、日本最初の女帝として即位し、聖徳太子を太子(摂政)に任じ、仏教政策を推進、飛鳥文化を花開かせた。
襲撃味

崇峻天皇(すしゅんてんのう)
 (?-592) 第三十二代天皇(在位587-592)。欽明(きんめい)天皇皇子。母は蘇我稲目(そがのいなめ)の娘・小姉君(こあねぎみ)。587用明(ようめい)天皇没後、蘇我馬子(うまこ)に擁されて即位したが、やがて対立し、592馬子の部下・東漢駒(やまとのあやのこま)に殺された。
襲撃味

関ヶ原の戦(せきがはらのたたかい)
 1600豊臣政権を守ろうと挙兵した石田三成(西軍)を美濃国の関ヶ原にて徳川家康(東軍)が破った戦。小早川秀秋(こばやかわひであき)らの裏切りや、吉川広家(きっかわひろいえ)の内応などで西軍は壊滅、三成は小西行長(こにしゆきなが)らとともに京都で処刑された。
変節味4

(せい)
 倭の五王の一人。興と武の父。允恭(いんぎょう)天皇と思われるが、反正(はんぜい)天皇説もある。443宋に遣使し、「安東将軍」とされた。

西南戦争(せいなんせんそう)
 九州の士族に担がれた西郷隆盛(さいごうたかもり)と明治政府の戦争。最後の士族の反乱。1877西郷隆盛(さいごうたかもり)は私学校党ほか九州の不平士族に担がれて決起、熊本城を攻囲したが、南下する政府軍に田原坂(たばるざか)の戦で敗れて撤退、宮崎の拠点を次々と落とされ、全軍を解散、鹿児島に戻って再挙を図るもかなわず、隆盛ら約百六十人が城山(しろやま)で敗死した。

摂政(せっしょう)
 天皇に代わって国政を執政する者。初めての摂政は『日本書紀』によれば、神功(じんくう)皇后とされるが、明らかではない。皇族の摂政は推古朝の聖徳太子(しょうとくたいし)が知られ、斉明朝の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や天武朝の草壁皇子(くさかべのおうじ)も摂政の職を執り行ったという。臣下で初めての摂政は、清和朝の藤和良房(ふじわらのよしふさ)。

『宋書』倭国伝(そうじょ・そうしょわこくでん)
 『宋書』は古代中国南朝・宋の史書。斉の武帝(ぶてい)の勅により、沈約(ちんやく)らが編集。「倭国伝」に倭の五王の遣使の記録がある。

副島種臣(そえじまたねおみ)
 (1828-1905) 政治家。肥前佐賀藩士。明治政府の参与(さんよ)となり、福岡孝弟(ふくおかたかちか)と政体書(せいたいしょ)を起草、1869参議になり、外務卿に転じて樺太(からふと)問題を担当、1873日清修好条規(にっしんしゅうこうじょうき)を批准(締結は1871)、参議兼外務卿になるが、征韓論争に敗れて下野(明治六年の政変)、板垣退助(いたがきたいすけ)らの民選議院設立の建白に参加、第一次松方正義(まつかたまさよし)内閣で内相を務めた。

蘇我氏(そがし・そがうじ)
 古代の大豪族。氏祖は武内宿祢(たけちのすくね)の子・蘇我石河宿祢(そがのいしかわのすくね)という。大和国高市郡(たかいちぐん)蘇我を本拠とした。大和政権で重きをなし、次々と大臣(おおおみ)を輩出、財政を担当したが、645中大兄皇子らに滅ぼされた。

蘇我入鹿(そがのいるか)
 (?-645) 鞍作・林太郎とも。大臣(おおおみ)。蝦夷の子。643蝦夷より大臣を譲られ、斑鳩宮(いかるがのみや)に山背大兄王(やましろのおおえのおう)を攻め滅ぼして権勢を誇ったが、645中大兄皇子(天智天皇)・中臣(藤原)鎌足らによって飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)にて殺害された(乙巳の変)。

蘇我馬子(そがのうまこ)
 (?-626) 大臣(おおおみ)。稲目(いなめ)の子。崇仏に努め、587排仏派の物部守屋(もののべのもりや)と有力皇位継承者・穴穂部皇子(あなほべのおうじ)らを討ち、崇峻(すしゅん)天皇を立てるが592に暗殺し、推古(すいこ)天皇を擁立、聖徳太子(厩戸皇子)を太子(摂政)に立てて国政を主導、596飛鳥寺(あすかでら。法興寺)を完成させ、620聖徳太子とともに『天皇記』『国記』を編修した。イヌ味 襲撃味

蘇我蝦夷(そがのえみし)
 (?-645) 大臣(おおおみ)。馬子の子。593山背大兄王を推した境部摩理勢(さかいべのまりせ)を滅ぼして舒明(じょめい)天皇を擁立、子の入鹿とともに権勢を誇るが、645乙巳の変で入鹿が殺され、自宅に放火して自殺した。

大化の改新(たいかのかいしん)
 中大兄皇子(天智天皇)と中臣(藤原)鎌足らが行った政治改革。645蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼし、孝徳(こうとく)天皇を即位させ、中大兄皇子を皇太子、中臣鎌足を内臣(うちつおみ・ないしん)、阿倍内麻呂(あべのうちまろ。倉橋麻呂)を左大臣、蘇我(倉山田)石川麻呂(いしかわまろ)を右大臣、旻(みん)・高向玄理(たかむこのくろまろ・げんり)を国博士(くにのはかせ)とし、646改新の詔を発表、公地公民制を確立させ、地方制度を整備、班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)を定め、新税制を導入した。

大宰府(だざいふ)
 九州に置かれた古代の官庁。福岡県太宰府市所在。西海道(きゅうしゅう)を統括し、外交使節との交渉にも当たった。朝廷の出張所で、「遠の朝廷(みかど)」と呼ばれた。長官は大宰師(だざいのそち)。1293博多に鎮西探題(ちんぜんたんだい)が置かれて以降、無力化した。

太政大臣(だじょうだいじん・だいじょうだいじん)
 律令制における最高責任者。太政官の最高官。常置ではなく、適任者がいなければ欠員。671大友(おおとも)皇子が任じられたのが最初。臣下初の太政大臣は857藤原良房(ふじわらのよしふさ)。

朝鮮民主主義人民共和国(ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく)=北朝鮮(きたちょうせん)
 (1948-) 東アジアの朝鮮半島北部にある社会主義国。1945日本降伏後ソ連が占領、金日成(キムイルソン・きんにっせい)らが臨時人民委員会を組織し、1948韓国に対抗して独立した。首都は平壌(ピョンヤン・へいじょう)。

筑紫磐井(つくしのいわい)
 (?-528) 筑紫国造。大彦命(おおびこのみこと)の子孫。527近江毛野(おうみのけの)率いる新羅政党軍をさえぎって反乱を起こすが、翌年、物部麁鹿火(もののべのあらかひ)の軍に敗死した。岩戸山(いわとやま)古墳がその墓とされている。

天智天皇(てんちてんのう・てんじてんのう)
 (626-671)中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)・葛城(かつらぎ)皇子とも。第三十八代天皇(在位668-671)。舒明(じょめい)天皇の第一皇子。母は皇極(こうぎょく)・斉明(さいめい)天皇。中臣(藤原)鎌足とともに645蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼし、大化の改新を断行、663白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦で唐・新羅に大敗した後、667近江大津宮(おうみのおおつのみや)に遷都し、668近江令(おうみりょう)を編集、670庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成した。
日朝味5

天武天皇(てんむてんのう)
 (631?-686)第四十代天皇(在位673〜686)。舒明(じょめい)天皇の皇子。天智天皇の弟。672壬申(じんしん)の乱で大友皇子(おおとものおうじ)を破り、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位、684八色(やくさ)の姓(かばね)を制定し、飛鳥浄御原令を編集させた。

(とう)
 (618-907) 古代中国の王朝。李淵(りえん)が創始。首都は長安(ちょうあん)。律令制・均田制を確立し、高句麗(こうくり)を滅ぼして繁栄を極めるが、八世紀半ば以後衰退、907朱全忠(しゅぜんちゅう)に滅ぼされた。

道鏡(どうきょう)
 (?-772) 法相宗(ほっそうしゅう)僧。義淵(ぎえん)の弟子。孝謙上皇(こうけんじょうこう。称徳天皇)の病気を治して信任され、763少僧都(しょうそうず)・764大臣禅師・765太政大臣禅師と昇進、西大寺(さいだいじ)を建立し、766法王(ほうおう)に就任、769宇佐八幡宮の神託を利用して皇位をねらったが、和気清麻呂(わけのきよまろ)らに阻まれ、称徳(しょうとく)天皇没後に失脚した。

東学党(とうがくとう)の乱=甲午農民戦争(こうごのうみんせんそう)
 朝鮮南部で起こった農民の反乱。1894東学幹部・全琫準(ぜんほうじゅん)が農民を扇動して反乱を起こしたため、朝鮮は清に救援を要請、日本も天津(てんしん)条約を口実に出兵し、乱を鎮圧したが、朝鮮の支配権をめぐって日本と清が対立、日清戦争の原因となった。

徳川家康(とくがわいえやす)
 (1542-1616) 武将。江戸幕府初代将軍(在職1603-1605)。三河岡崎(みかわおかざき)城主・松平広忠(まつだいらひろただ)の子。1560桶狭間(おけはざま)の戦後に岡崎城主となり、織田信長と同盟を締結、今川氏を滅ぼして遠江浜松(とおとうみはままつ)城主となり、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(たけだかつより)を撃退、1582本能寺(ほんのうじ)の変後、1584小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦で豊臣秀吉と戦うが講和し、1590小田原(おだわら)攻めの後、武蔵江戸(えど)城主となって関東を統治、1600関ヶ原の戦で石田三成らを破り、1603征夷大将軍となって江戸幕府を創設、1604糸割符制度(いとわっぷせいど)を定めて貿易を統制し、1605将軍職を秀忠(ひでたた)に譲って駿河府中(するがふちゅう)に退くが、依然大御所(おおごしょ)として実権を握りつづけ、1614-1615大坂の役(大坂冬の陣・夏の陣)で豊臣秀頼(ひでより)を滅ぼし、1615武家諸法度(ぶけしょはっと)・禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)・一国一城令(いっこくいちじょうれい)などを定めた。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)←羽柴(はしば)秀吉←木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)
 (1537-1598) 武将。関白・太政大臣。織田信長に仕えて出世し、1573近江長浜(おうみながはま)城主となり、1577中国攻めを開始、1582備中高松(びっちゅうたかまつ)城攻撃中に信長横死の知らせを受け、山崎(やまざき)の戦で明智光秀(あけちみつひで)を、1583賤ヶ岳(しずがたけ)の戦で柴田勝家(しばたかついえ)を滅ぼし、石山本願寺(いしやまほんがんじ)跡に大坂(おおさか)城を築城、1584小牧・長久手の戦を経て徳川家康と講和、1585関白となって紀伊の根来(ねごろ)・雑賀(さいが)一揆を、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を降し、1586太政大臣に就任、1587九州の島津義久を、1590東北の伊達政宗(だてまさむね)・最上義光(もがみよしあき)らを、関東の北条氏政(ほうじょううじまさ)・氏直(うじなお)を降して天下を統一、太閤検地(たいこうけんち)や刀狩(かたながり)を行い、バテレン追放令や身分統制令などを発令、聚楽第(じゅらくだい)や伏見城を築いたが、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は失敗した。怪談味2 日朝味7 花見味変節味1

豊臣秀頼(とよとみひでより)
 (1593-1615) 武将。秀吉の子。母は淀殿。1600関ヶ原の戦により天下人後継者から一大名に転落、徳川秀忠(ひでただ)の娘・千姫(せんひめ)と結婚するが、1615方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件から起こった大坂の役で徳川家康に敗れ、淀殿とともに自殺した。

南蛮(なんばん)
 もともとは東南アジアの人々のことだが、近世以降は東南アジアに植民地を持つスペイン・ポルトガルも含むようになった。これらの人々を南蛮人と呼び、彼らが建てた教会を南蛮寺と呼び、彼らが乗る船を南蛮船と呼び、彼らとの貿易を南蛮貿易と呼び、彼らが伝えたカステラ・ボーロ・金平糖(こんぺいとう)などを南蛮菓子といい、彼らが伝えた異国風の文化を南蛮文化と呼んだ。

日清戦争(にっしんせんそう)
 (1894-1895) 朝鮮の支配権をめぐる日本と清(中国)の戦争。1894朝鮮で起こった甲午農民戦争(東学党の乱)を機に日清両国は開戦、日本は豊島沖(ほうとうおき)の海戦・平壌の戦・黄海の海戦で勝利、1895威海衛(いかいえい)を占領して清を降伏させ、講和条約(下関条約)を調印、朝鮮の独立、遼東(りょうとう)半島・台湾・澎湖(ほうこ)諸島の割譲、賠償金二億両(テール)の支払い、通商航海条約の調印と最恵国条款の確立、沙市・重慶・蘇州・杭州の開市、威海衛の一時占領などを認めさせた。

日露戦争(にちろせんそう)
 (1904-1905) 朝鮮・満州の支配権をめぐる日本とロシアの戦争。日本は1900北清事変後、満州占領を続けたロシアに対抗、1902日英同盟を結んで1904ロシアを攻め、乃木希典(のぎまれすけ)が旅順(りょじゅん)を攻略、1905大山巌(おおやまいわお)が奉天(ほうてん)会戦で勝ち、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)が日本海海戦でバルチック艦隊を粉砕、アメリカの仲介で講和条約(ポーツマス条約)を調印し、ロシアに韓国指導権・関東州租借権・長春(ちょうしゅん)以南の鉄道の権益を認めさせ、樺太(からふと)の南半分の領土と沿海州・カムチャツカの漁業権を獲得したが、賠償金がもらえなかったため、日比谷(ひびや)焼打ち事件が起こった。

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。

日本書紀(にほんしょき)
 日本最古の勅撰歴史書。編年体。30巻。系譜1巻(現存せず)。舎人親王(とねりしんのう)・藤原不比等らが編集。神代〜持統朝までを収録。

白村江の戦(はくすきのえのたたかい・はくそんこうのたたかい)
 飛鳥時代に起こった日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との戦争。660唐・新羅連合軍は百済を滅ぼしたが、百済の遺臣・鬼室福信(きしつふくしん)は日本にいた王子・豊璋(ほうしょう)を召還し、これを国王に擁立して抵抗した。日本もこれを救援するため、阿倍比羅夫(あべのひらふ)・阿曇比羅夫(あずみのひらふ)らを派遣するが、白村江で唐・新羅連合軍に大敗した。この戦によって百済は再度滅亡、豊璋は高句麗に逃亡し、日本は朝鮮半島における足場を失った。日朝味5

(ぶ)
 倭の五王の一人。済(せい)の子。興(こう)の弟。478宋に遣使し上表文を奉り、「安東大将軍倭国王」とされた。江田船山古墳(えだふなやまこふん)出土鉄刀や 稲荷山古墳(いなりやまこふん)出土鉄剣に名が記されている。雄略天皇と思われる。雄略天皇

藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)→恵美押勝(えみのおしかつ)
 (706-764) 公卿。大師(たいし。太政大臣)。南家の祖・武智麻呂(むちまろ)の子。聖武(しょうむ)天皇の大仏造立に協力し、光明皇后(こうみょうこうごう)に取り入って749紫微令(しびれい)・紫微内相(しびないしょう。内臣に相当)に就任、757橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の反乱を未然に防ぎ(橘奈良麻呂の変・乱)、758舎人親王(とねりしんのう)の王子・淳仁(じゅんにん)天皇を擁立、大師に昇って栄華を極めるが、764孝謙(こうけん)上皇のお気に入り・道鏡(どうきょう)の排除を図って挙兵し、近江で敗れて殺された(恵美押勝の乱)。
温泉味 印度味 辞任味 意地味 日朝味 女帝味

仏教(ぶっきょう)=仏法(ぶっぽう)=仏道(ぶつどう)
 インドの釈迦(しゃか。ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教。日本には欽明(きんめい)天皇の時代に百済の国王・聖明王(せいめいおう)によってもたらされた。年代については552説(『日本書紀』による)と538説(『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』『元興寺縁起(がんごうじえんぎ)』による)がある。これを「仏教公伝」とするが、これ以前にも渡来人・司馬達等(しばたっと)が自宅で仏像を礼拝していたという(仏教私伝)。以後、従来からあった神道(しんとう)と並んで浸透し、奈良時代には国教化され(鎮護国家)、平安時代には密教(天台宗・真言宗)や浄土教が、鎌倉時代には鎌倉仏教(浄土宗・浄土真宗・時宗・日蓮宗・臨済宗・曹洞宗)が生まれ、諸宗派が乱立するようになった。
宗教味

文禄・慶長の役(ぶんろく・けいちょうのえき)=壬辰(じんしん)・丁酉(ていゆう)の倭乱
 (1592-1593,1597-1598) 豊臣秀吉が明を征服するため朝鮮に侵攻した戦争。1592秀吉は加藤清正(かとうきよまさ)・小西行長(こにしゆきなが)ら十六万の大軍を朝鮮に派兵、漢城(現ソウル)や平壌(ピョンヤン)などを攻略し、ほぼ朝鮮全域を蹂躙(じゅうりん)するも、明の救援、義兵の反乱、水軍の将・李舜臣(りしゅんしん)の活躍により後退。1593一時停戦し、明との間で講和交渉が進められたが決裂し、1597再度十四万の大軍を派兵するも苦戦、1598秀吉の死により撤退した。 
日朝味7

戊辰戦争(ぼしんせんそう)=戊辰の役
 明治初年に起こった明治新政府と旧幕府勢力との戦争。1868鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦・江戸開城・上野戦争(彰義隊の戦)・会津(あいづ)戦争・1869箱館(はこだて)戦争(五稜郭の戦)など一連の戦をいう。

渤海(ぼっかい)
 (698-926) 中国東満州・沿海州にあった国。698大祚栄(だいそえい)が震(しん)を建国、713渤海と改称し、唐と対立、727初めて日本に使者を遣わし、平安時代まで三十四回に及んだ。十代・大仁秀(だいじんしゅう)のときが最盛期で「海東の盛国」と呼ばれたが、926契丹(きったん)に滅ぼされた。

任那(みまな)=加羅=駕洛(から)=加耶=伽耶(かや)
 朝鮮南部にあった小国家群のこと。狭義にはその中の一国・金官加羅(きんかんから)国のこと。ヤマト政権の出先機関「任那日本府」があったともされるが、562新羅に滅ぼされた。

(みん)
 (1368-1644) 中世〜近世の中国王朝。朱元璋(しゅげんしょう。洪武帝)が元(げん)を倒して建国。三代・永楽帝(えいらくてい)はベトナムを支配し、足利義満(あしかがよしみつ)を日本国王に任じた。1644李自成(りじせい)に滅ぼされた。

物部守屋(もののべのもりや)
 (?-587) 大連(おおむらじ)。尾輿(おこし)の子。仏教を排斥し、崇仏派の大臣・蘇我馬子と対立、587用明(ようめい)天皇没後、穴穂部(あなほべ)皇子擁立を図るが、皇子は殺され、自身は馬子らと戦って射殺された。
イヌ味

山背大兄王(やましろのおおえのおう)
 (?-645) 聖徳太子の第一王子。推古(すいこ)天皇死後、境部摩理勢(さかいべのまりせ)に推されたが、摩理勢は蘇我蝦夷(えみし)に殺され、蝦夷の推す田村皇子(舒明天皇)が即位、643蘇我入鹿に本拠斑鳩宮(いかるがのみや)を襲撃され、一族もろとも自殺に追い込まれた。

雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)
 (418?-479?) 第二十一代天皇(在位456?-479?)。允恭天皇の皇子。安康天皇の弟。安康天皇没後、八釣白彦(やつりしらひこ)皇子・坂井黒彦(さかいのくろひこ)皇子・眉輪王(まゆわおう)・葛城円(かずらきのつぶら)・市辺押磐(いちのべのおしは)皇子を殺して泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)で即位した。倭王武とされる。 武

李氏朝鮮(りしちょうせん)≦朝鮮
 (1392-1910) 朝鮮半島の王朝。高麗(こうらい)の武将・李成桂(りせいけい)が高麗を倒して建国。首都は漢城府(かんじょうふ。ソウル)。十五世紀前半、ハングルを考案した世宗(せいそう)の頃が全盛期。1897国号を大韓帝国とするが、1910日韓併合により滅んだ。

李舜臣(りしゅんしん)
 (1545-1598) 李氏(りし)朝鮮の武将。1591全羅左道水軍節度使となり、1592-1596壬辰(じんしん)の倭乱(文禄の役)で亀甲船(きっこうせん)を考案し、各地で日本水軍を撃破、讒言(ざんげん)によって一時投獄されるが、1597-1598丁酉(ていゆう)の倭乱(慶長の役)で後任者が敗死したため復任、善戦するが、露梁(ろりょう)海戦で戦死した。

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