13.告発味 基礎用語集 | ||||||||||||||
●宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)
鎌倉初期の説話集。二巻百九十七話。著者不明。題名は『今昔物語集(宇治大納言物語)』の補足という意味。
●右大臣(うだいじん)
律令制における執政官。太政大臣・左大臣欠員時の最高官。左大臣とともに国政を統括した。645大化の改新で蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)が任じられたのが最初。
●絵巻物(えまきもの)
絵に詞書(ことばがき。説明)を添え、人物の伝記・寺社の縁起・その他昔話などを描写した巻物。奈良時代に始まり、平安・鎌倉時代に発展、室町時代に衰えた。以下が主なもの。
制作年代 | 絵巻物名 | 作家 | 描写内容 |
平安末期 | 源氏物語絵巻 | 藤原隆能?(絵) 藤原伊房?(詞) |
源氏物語の世界 |
平安末期 | 伴大納言絵巻 | 常盤光長(絵) 飛鳥井雅経?(詞) 藤原教長(詞) |
応天門の変 |
平安末期 | 信貴山縁起絵巻 | ? | 命蓮の説話。 朝護孫子寺の由来 |
平安末期 | 粉河寺縁起絵巻 | 寂蓮?(詞) | 粉河寺の霊験談 |
平安末期 | 年中行事絵巻 | 常盤光長?(絵) 住吉如慶(模写) |
宮廷年中行事 |
平安末期 | 鳥獣戯画 (鳥獣人物戯画) |
鳥羽僧正覚猷?(絵) | 貴族社会の風刺 |
鎌倉初期 | 北野天神縁起絵巻 | 藤原信実?(絵) | 菅原道真の生涯と 北野天満宮の由来 |
鎌倉初期 | 地獄草紙 | 後白河法皇?(企画) | 地獄の様子 |
鎌倉初期 | 病草紙 | 後白河法皇?(企画) | 病気の状態 |
鎌倉初期 | 餓鬼草紙 | 後白河法皇?(企画) | 苦しむ餓鬼 |
鎌倉中期 | 平治物語絵巻 | ? | 平治の乱 |
鎌倉後期 | 法然上人行状絵図 (法然上人絵伝) |
土佐吉光ら(絵) | 法然の生涯 |
鎌倉後期 | 一遍聖絵 (一遍上人絵伝) |
円伊(絵) 聖戒(詞) 世尊寺経尹(外題) |
一遍の生涯 |
鎌倉後期 | 鑑真和上東征絵伝 | 蓮行(絵) 美作前司宣方(詞) |
鑑真の伝記 |
鎌倉後期 | 春日権現霊験記 (春日権現験記) |
西園寺公衡(企画) 高階隆兼(絵) 鷹司基忠ら(詞) |
春日大社の霊験談 |
鎌倉後期 | 石山寺縁起絵巻 | 高階隆兼(絵) 杲守?(詞) 土佐光信ら(絵補写) 三条西正隆ら(詞補写) |
石山寺の由来 |
鎌倉後期 | 山王霊験縁起絵巻 | ? | 日吉大社の霊験談 |
鎌倉後期 | 蒙古襲来絵詞 | 竹崎季長(企画) | 文永・弘安の役 |
鎌倉後期 | 男衾三郎絵巻 | ? | 地方武士の物語 |
鎌倉後期 | 天狗草紙 | ? | 僧兵の風刺 |
南北朝時代 | 後三年合戦絵巻 | 玄恵(企画) 惟久(絵) 尊円入道親王ら(詞) |
後三年の役 |
●応天門(おうてんもん)の変
866大納言(だいなごん)・伴善男(とものよしお)が応天門(おうてんもん)に放火したとして失脚した事件。善男は放火は左大臣・源信(みなもとのまこと)の仕業と主張したが、藤原良房(ふじわらのよしふさ)がこれを擁護、逆に善男・中庸(なかつね)父子が犯人とされ、善男は伊豆へ、中庸は隠岐へ流刑、同時に紀豊城(きのとよき)・紀夏井(なつい)らも処罰された。この事件によって伴・紀氏は衰退、藤原北家の権力はより強化された。
●大伴氏(おおともし・おおともうじ)
古代の大豪族。氏祖は天孫降臨に従った天忍日命(あめのおしひのみこと)という。摂津(せっつ)・和泉(いずみ)、後に大和の城上(しきのかみ)・十市(とおち)郡を本拠とした。大和政権で重きをなし、次々と大連(おおむらじ)を輩出、軍事を担当するが、540金村失脚後に衰退した。
●勘解由使(かげゆし)
令下官(りょうげのかん。律令未規定の官職)の一つ。官人交替事務を監査した。797桓武(かんむ)天皇が国司交替の際の不正を防ぐために設置。806廃止。824再置。
●蔵人頭(くろうどのとう)
蔵人所(くろうどところ)長官。天皇に近侍し、極秘文書や訴訟をつかさどった。810嵯峨(さが)天皇が薬子の変に備え、藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)と巨勢野足(こせののたり)を任命したのに始まり、以後、公卿昇進への登竜門となった。
●国司(こくし)
古代に諸国の政務をつかさどった地方官。現在でいう都道府県庁高官に相当。長官(守・かみ)・次官(介・すけ)・判官(掾・じょう)・主典(目・さかん)という四等官(しとうかん。幹部のこと)が朝廷から派遣され、国衙(こくが。国庁とも。役所のこと)に勤務し、郡司(ぐんじ)・里長(りちょう・さとおさ)らを支配した。天武天皇の頃に成立し、鎌倉時代に守護・地頭勢力に押されて衰退した。
●嵯峨天皇(さがてんのう)
(786-842)第五十二代天皇(在位809-823)。三筆(さんぴつ)の一人。桓武(かんむ)天皇の皇子。平城(へいぜい)天皇の弟。兄の譲位で即位し、検非違使(けびいし)や810蔵人所(くろうどのところ)を設置、反対派の藤原仲成(なかなり)・薬子(くすこ)兄妹らを退け(薬子の変)、820『弘仁格式(こうにんきゃくしき)』を完成、漢詩集814『凌雲集(りょううんしゅう)』・818『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』・814系譜集『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』を編集させた。842その死後、承和(じょうわ)の変が起こった。
●左大臣(さだいじん)
律令制における執政官。太政大臣欠員時の最高官。国政を統括した。645大化の改新で阿倍内麻呂(あべのうちまろ)が任じられたのが最初。
●参議(さんぎ)
太政官で大臣・納言(なごん)に次き、公卿会議に参加した。令下官(りょうげのかん)の一つ。702大伴安麻呂(おおとものやすまろ)・粟田真人(あわたのまひと)・高向麻呂(たかむこのまろ)・下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)・小野毛野(おののけの)の五人に「朝政を参議」させたのが初め。731正式設置。
●承和の変(じょうわのへん)
842嵯峨天皇(さがてんのう)没後、政権確立を企んだ藤原良房(ふじわらのよしふさ)が外孫・道康(みちやす)親王を擁立、皇太子・恒貞親王(つねさだしんのう)を廃し、橘逸勢(たちばなのはやなり)・伴健岑(とものこわみね)・文室秋津(ふんやのあきつ)らを失脚させた事件。逸勢は伊豆へ、健岑は隠岐へ島流しにされ、橘氏・伴氏は衰退、良房一家・藤原北家の勢力が拡大した。
●神道(しんとう)
日本に古来から伝わる民族信仰。古墳時代の氏神(うじがみ)崇拝に始まり、平安時代に神社制度が整備され、鎌倉時代には伊勢(いせ)神道、室町時代には唯一(ゆいいつ)神道、江戸時代には垂加(すいか)神道といった理論も生まれた。
●清和源氏(せいわげんじ)
清和天皇の皇孫・経基王(つねもとおう)が源姓を賜って臣籍降下されたことに始まる氏族。平安後期、桓武平氏(かんむへいし)と並んで武家の棟梁(とうりょう)になり、主に関東地方に地盤を作った。足利(あしかが)氏・新田(にった)氏などもこの家系。
●清和上皇(せいわじょうこう)←清和天皇←惟仁親王(これひとしんのう)
(850-880) 伝五十六代天皇(在位858-876)。父は文徳(もんとく)天皇。母は藤原良房(よしふさ)の娘・明子(あきらけいこ・めいし)。父の死で九歳で即位し、藤原良房が摂政として補佐、876陽成(ようぜい)天皇に譲位し、清和源氏の祖となった。
●蘇我氏(そがし・そがうじ)
古代の大豪族。氏祖は武内宿祢(たけちのすくね)の子・蘇我石河宿祢(そがのいしかわのすくね)という。大和国高市郡(たかいちぐん)蘇我を本拠とした。大和政権で重きをなし、次々と大臣(おおおみ)を輩出、財政を担当したが、645中大兄皇子らに滅ぼされた。
●太政官(だいじょうかん・だじょうかん)
律令制において神祗官(じんぎかん)と並ぶ中央の最高行政機関。八省以下すべての官庁を統括。事務局としてし少納言局・弁官局をもつ。⇒古代官制
●太政大臣(だじょうだいじん・だいじょうだいじん)
律令制における最高責任者。太政官の最高官。常置ではなく、適任者がいなければ欠員。671大友(おおとも)皇子が任じられたのが最初。臣下初の太政大臣は857藤原良房(ふじわらのよしふさ)。
●大納言(だいなごん)
太政官(だいじょうかん・だじょうかん)で左右大臣に次ぐ官職。大臣とともに政務を執った。定員は四人。705その下に中納言が置かれた。
●内裏(だいり)
天皇の居所。皇居。御所。大内裏(だいだいり。皇居+主要官庁)の中にあり、紫晨殿(ししんでん・ししいでん。書斎ほか)・清涼殿(せいりょうでん。居間ほか)・仁寿殿(じじゅうでん・じじゅでん。客間ほか)などがある。
●橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の変=橘奈良麻呂の乱
757橘諸兄(たちばなのもろえ)死後、大炊親王(おおいしんのう。後の淳仁天皇)を擁立して実権を握った藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)に対し、参議・橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)が大伴古麻呂(おおとものこまろ)・小野東人(おののあずまひと)らと反乱を起こそうとしたが、計画は事前に発覚、古麻呂・東人らは獄死し、奈良麻呂も獄死したとされているが不明。
●橘逸勢(たちばなのはやなり)
(?-842)官人。嵯峨(さが)天皇・空海(くうかい)とともに三筆(さんぴつ)の一人。入居の子。804最澄・空海らとともに遣唐使に随行し、806帰国、842承和の変で伴健岑(とものこわみね)とともに首謀者として逮捕され、伊豆へ流刑にされる途中で病死した。
●天皇(てんのう)
古代〜現代に至る日本の国王。推古天皇のときに成立? 初代天皇は神武(じんむ)天皇?
今上天皇は伝百二十五代。大日本帝国憲法では大日本帝国の元首、日本国憲法では象徴。
●徳川光圀(とくがわみつくに)≦水戸黄門(みとこうもん)
(1628-1700) 大名。常陸水戸(みと)藩主。徳川頼房(よりふさ)の子。。1657江戸に史局(彰考館)を設けて『大日本史(だいにほんし)』編集に着手し、1661父の死によって藩主に就任、幕府に殉死(じゅんし)の禁止を勧め、生類憐(しょうるいあわれ)みの令を批判、1690兄・頼重(よりしげ)の子・綱条(つなえだ)に家督を譲って隠居し、『水戸黄門漫遊記』のモデルになった。
●伴 善男(とものよしお)
(811-868) 公卿。摂政・太政大臣。大伴(伴)国道(くにみち)の子。844右少弁(うしょうべん)になり、846善ト(ぜんがい)訴訟事件を経て847蔵人頭(くろうどのかみ)・848参議に昇進、855藤原良房(ふじわらのよしふさ)らと『続日本後紀(しょくにほんこうき)』編集に携わり、中納言を経て864大納言に昇進するが、866応天門(おうてんもん)の変で失脚、伊豆へ流された。
●長岡京(ながおかきょう)
(784-794) 奈良時代末期の首都。784桓武(かんむ)天皇が遷都して造営開始。京域は京都盆地西部。785造長岡宮使(ぞうながおかきゅうし)・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺されてから工事が進まなかった。現在、発掘が進められている。
省 名 | 主な職掌 |
中務(なかつかさ)省 | 天皇の重要事務 |
式部(しきぶ)省 | 学校管理・文官人事 |
治部(じぶ)省 | 冠婚葬祭・外交 |
民部(みんぶ)省 | 民政 |
兵部(ひょうぶ)省 | 軍事・武官人事 |
刑部(ぎょうぶ)省 | 刑罰・訴訟 |
大蔵(おおくら)省 | 出納・宝物管理 |
宮内(くない)省 | 宮中庶務 |
●日本(にほん・にっぽん・やまと)
東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。
●八省(はっしょう)
律令制において太政官に直属する八つの官庁の総称。八省の名称および職掌)は右のとおり。⇒古代官制
●藤原氏(ふじわらし)
特に古代に繁栄した氏族。氏祖は中臣鎌足(なかとみのかまたり)。奈良時代に南家(なんけ)・北家(ほっけ)・式家(しきけ)・京家(きょうけ)の四家に分かれ、南家、次いで式家が繁栄したが、平安時代になると北家が台頭、摂政・関白を独占し、いわゆる摂関政治を現出した。
●藤原基経(ふじわらのもとつね)
(836-891) 公卿。摂政・関白・太政大臣。藤原長良(ながら)の子。藤原良房(よしふさ)の養子。879正史『日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)』を完成、884陽成(ようぜい)天皇を廃して光孝(こうこう)天皇を擁立、887宇多(うだ)天皇によって臣下で初めて関白(かんぱく)に任じられたが、887-888阿衡(あこう)の紛議を起こして困らせた。
●藤原良房(ふじわらのよしふさ)
(804-872) 公卿。摂政・太政大臣。藤原冬嗣(ふゆつぐ)の子。母は藤原美都子(または大庭女王)。妻は嵯峨天皇皇女・源潔姫(みなもとのきよひめ)。842嵯峨天皇没後、承和(じょうわ)の変で恒貞親王を廃し、通康(みちやす)親王(文徳天皇)を擁立、伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢(たちばなのはやなり)らを追放し、857臣下で初めて太政大臣に就任、866応天門(おうてんもん)の変で伴善男(とものよしお)・紀豊城(きのとよき)・紀夏井(なつい)を追放し、臣下初めて清和(せいわ)天皇の摂政(せっしょう)に就任、869正史『続日本後紀(しょくにほんこうき)』を完成させ、摂関家の祖となった。
●平安京(へいあんきょう)
(794-1868)
平安〜江戸時代の首都。京域は京都盆地北部。東西約4.5q。南北約5.2q。794桓武(かんむ)天皇が和気清麻呂(わけのきよまろ)の勧めで遷都。
●弁官局(べんかんきょく)=左弁官局(さべんかんきょく)+右弁官局(うべんかんきょく)
太政官(だいじょうかん・だじょうかん)の事務局。左弁官局は中務(なかつかさ)・式部(しきぶ)・治部(じぶ)・民部(みんぶ)四省を担当し、右弁官局は兵部(ひょうぶ)・刑部(ぎょうぶ)・大蔵(おおくら)・宮内(くない)四省を担当した。
●法隆寺(ほうりゅうじ)=斑鳩寺(いかるがでら)
奈良県斑鳩町所在。聖徳宗総本山。南都七大寺の一つ。金堂(こんどう)・五重塔(ごじゅうのとう)・中門(ちゅうもん)・歩廊(ほろう。回廊とも)は世界最古の木造建築物で、ほとんどの建物が国宝。607用明(ようめい)天皇の遺志を継いだ聖徳太子(しょうとくたいし)が完成させた。1993世界文化遺産に選定。
●源義経(みなもとのよしつね)
(1159-1189) 武将。父は源義朝(よしとも)。頼朝(よりとも)の弟。藤原秀衡(ふじわらのひでひら)の庇護を受けて育ち、1180頼朝の挙兵に参加、1184源義仲(よしなか)を滅ぼし、一の谷(いちのたに)の戦い・屋島(やしま)の戦い・1185壇の浦(だんのうら)の戦いで平氏を破って滅ぼしたが、頼朝と不和になり、陸奥平泉(ひらいずみ)で藤原泰衡(ふじわらのやすひら)に殺された(北海道以北に落ちのびたという説もある)。
●源頼朝(みなもとのよりとも)
(1147-1199) 武将。鎌倉幕府初代将軍(在職1192-1199)。父は源義朝(よしとも)。1159平治(へいじ)の乱で父とともに平清盛(たいらのきよもり)と戦って敗れ、1160捕われて伊豆へ流刑、1180以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)を受けて伊豆で挙兵、石橋山(いしばしやま)の戦いで大庭景親(おおばかげちか)に敗れるが立て直し、富士川(ふじがわ)の戦いで平維盛(これもり)を撃退、鎌倉(かまくら)を本拠に軍事政権を築き(後の鎌倉幕府)、侍所(さむらいどころ)・1184公文所(くもんじょ。後の政所)・問注所(もんちゅうじょ)を設置、1185平氏を滅ぼし、諸国の守護(しゅご)・地頭(じとう)任命権と兵粮米(ひょうろうまい)の徴収を許され、1189奥州(おうしゅう)藤原氏を倒し、1190右近衛大将(うこのえたいしょう)・1192征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任した。
●物部氏(もののべし・もののべうじ)
古代の大豪族。氏祖は饒速日命(にぎはやひのみこと)という。河内国渋川郡(しぶかわぐん)付近を本拠とした。大和政権で重きをなし、次々と大連(おおむらじ)を輩出、軍事を担当したが、587守屋(もりや)が蘇我馬子(そがのうまこ)に滅ぼされて衰退した。
●遙任(ようにん)
国司(こくし)が現地に赴任せず、目代(もくだい。だいりにん)を遣わして収入だけ得ること。奈良時代に始まり、平安時代に制度化した。遙任に対し、実際に現地に赴いて政務を執った者は受領(ずりょう)といった。
●養老律令(ようろうりつりょう)
古代の基本法典。718元明朝に藤原不比等(ふじわらのふひと)により完成。律十巻・令十巻。757藤原仲麻呂(なかまろ)が施行。
●六国史(りっこくし)
奈良〜平安時代にかけて編集された正史のこと。以下六つ。
書名 (よみかた) |
成立年 | 巻数 | (編集命令者) 編集者 |
編集範囲 |
日本書紀 (にほんしょき) |
養老四年 720 |
30+1 | (天武天皇・元明天皇ら) 舎人親王・紀清人・三宅藤麻呂ら |
神代〜持統 (-697) |
続日本紀 (しょくにほんぎ) |
延暦十六年 797 |
40 | (桓武天皇) 菅野真道・藤原継縄 ・秋篠安人・中科巨都雄ら |
文武〜桓武 (697-791) |
日本後紀 (にほんこうき) |
承和七年 840 |
40 | (嵯峨天皇・淳和天皇・仁明天皇) 藤原緒嗣・藤原冬嗣・藤原貞嗣 ・良岑安世・源常・清原夏野ら |
桓武〜淳和 (792-833) |
続日本後紀 (しょくにほんこうき) |
貞観十一年 869 |
20 | (文徳天皇) 藤原良房・春澄善縄 ・伴善男・安野豊道ら |
仁 明 (833-850) |
日本文徳天皇実録 (にほんもんとくてんのうじつろく) |
元慶三年 879 |
10 | (清和天皇・陽成天皇) 藤原基経・南淵年名・菅原是善 ・大江音人・善淵愛成・都良香 ・島田良臣ら |
文 徳 (850-858) |
日本三代実録 (にほんさんだいじつろく) |
延喜元年 901 |
50 | (宇多天皇・醍醐天皇) 源能有・菅原道真・藤原時平 ・大蔵善行・三統理平ら |
清和〜光孝 (858-887) |
●律令(りつりょう)=律+令
古代の法律。律は刑法、令は行政法・民法のこと。
律は刑罰を規定し、天武(てんむ)天皇の飛鳥浄御原律(あすかきよみはらのりつ)に始まり、701大宝(たいほう)律、718養老(ようろう)律で整備された(ただし、飛鳥浄御原律の存在には疑問がある)。
令はその他の重要事を規定し、天智(てんじ・てんち)天皇の668近江令(おうみりょう)に始まり、701大宝令、718養老令で整備された(ただし、近江令の完成・施行には疑問がある)。