89.朦朧味 基礎用語集

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足利義教(あしかがよしのり)←足利義宣(あしかがよしのぶ)←義円(ぎえん)
 (1394-1441) 武将。室町幕府六代将軍(在職1429-1441)。義満(よしみつ)の子。義持(よしもち)の弟。初め青蓮院(しょうれんいん)で出家し、大僧正・准后(じゅごう)・天台座主になるが、1428クジで選ばれて1429将軍となり、専制政治を志向、1438-1439永享の乱(えいきょうのらん)で鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)を、1440結城合戦(ゆうきかっせん)で結城氏朝(うじとも)・足利安王丸(やすおうまる)・春王丸(はるおうまるともに持氏の子)を滅ぼし、山城等守護・一色義貫(いっしきよしつら)らを失脚させたが、1441播磨等守護・赤松満祐(あかまつみつすけ)に謀殺された(嘉吉の変・嘉吉の乱)。
クジ味

アメリカ≧アメリカ合衆国(United States of America)=米国(べいこく)
 北アメリカ大陸にある国。1492コロンブスが漂着し、十六世紀初めにスペインが、1607年からイギリスが入植、1776イギリスから独立宣言し、1783パリ条約で独立を承認、徐々に西へ領土を広げ、十九世紀半ばに太平洋側に到達、二度の世界大戦と冷戦を経て、世界一の工業国・農業国・軍事大国に成長した。首都はワシントン。

右大臣(うだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣・左大臣欠員時の最高官。左大臣とともに国政を統括した。645大化の改新で蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ。倉山田石川麻呂)が任じられたのが最初。

宇多法皇(うだほうおう)←宇多上皇(じょうこう)←宇多天皇←源定省(みなもとのさだみ)
 (867-931) 伝五十九代天皇(在位887-897)。光孝(こうこう)天皇皇子。884臣籍降下されるが、887父の死後に即位、887-888阿衡(あこう)の紛議で関白・藤原基経(ふじわらのもとつね)と対立するが、891基経死後に寛平(かんぴょう)の治を断行、菅原道真(すがわらのみちざね)を登用し、摂関家を抑制、長子・醍醐(だいご)天皇に譲位し、『寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)』を残した。スト味 受験味朦朧味

織田信長(おだのぶなが)
 (1534-1582) 武将。織田信秀(のぶひで)の子。父の死後、尾張を統一、1560桶狭間(おけはざま)の戦で今川義元(いまがわよしもと)を討ち、1567美濃の斎藤氏を追って岐阜城に入城、1568足利義昭(あしかがよしあき)を擁して上洛し、1570姉川(あねがわ)の戦で浅井(あさい)・朝倉(あさくら)氏を倒し、1571比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を焼き打ち、1573義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、1574伊勢長島一向一揆(いせながしまいっこういっき)を、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(たけだかつより)を撃破、1576近江に安土(あづち)城を築いて移り、楽市(らくいち)・楽座(らくざ)を実施、1580石山本願寺(いしやまほんがんじ)を大坂から立ち退かせ、1582天目山(てんもくざん)の戦で勝頼を滅ぼすが、本能寺(ほんのうじ)の変で家臣の明智光秀(あけちみつひで)に討たれた。
最強味 大雪味 銃器味

桓武天皇(かんむてんのう)=柏原帝(かしわばらてい)←山部(やまべ)親王←山部王
 (737-806) 伝五十代天皇(在位781-806)。光仁(こうにん)天皇の皇子。781父の譲位によって即位し、784長岡京(ながおかきょう)へ遷都するが、785造長岡宮使(ぞうながおかぐうし)・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の暗殺で挫折(ざせつ)、792健児(こんでい)の制を制定し、794和気清麻呂(わけのきよまろ)の勧めで平安京へ遷都、勘解由使(かげゆし)を置き、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍として蝦夷を征伐、藤原継縄(つぐただ)・菅野真道(すがののまみち)らに正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』を編集させた。怨念味 怨霊味 ヤミ味

『魏志』倭人伝(ぎしわじんでん)
 『魏志』は中国三国時代の史書『三国志』の一つ。陳寿(ちんじゅ)が編集。「倭人伝(烏丸鮮卑東夷伝倭人条)」に倭国大乱後に卑弥呼(ひみこ)が邪馬台国(やまたいこく)女王に擁立されたこと、239卑弥呼が魏に遣使し、「親魏倭王(しんぎわおう)」の印綬と銅鏡100枚をもらったこと、卑弥呼没後、宗女・壱与(いよ。台与とも)が後を継いだことなどが記されている。

紀貫之(きのつらゆき)
 (872?-945)歌人・官人。三十六歌仙の一人。望行(もちゆき)の子。905醍醐(だいご)天皇の勅命で紀友則(とものり)・凡河内躬恒(おおしこうちのみつね)・壬生忠岑(みぶのただみね)とともに『古今和歌集』を編し、歌壇の第一人者となり、土佐守時代には『土佐(土左)日記』を執筆した。

公卿(くぎょう)
 公(太政大臣・左右大臣)と卿(大中納言・参議・その他三位以上の者)のこと。現在でいう閣僚に相当。

クラーク(William Smith Clark)
 アメリカの植物学者・教育家。マサチューセッツ農大長。1876御雇外国人として札幌農学校(現北海道大)教頭になり、内村鑑三(うちむらかんぞう)・新渡戸稲造(にとべいなぞう)らを教育、「Boys,be ambitious(青年よ大志を抱け)」と言い残して帰国した。

黒田清隆(くろだきよたか)
 (1840-1900) 武士・政治家。薩摩鹿児島藩士。1868-1869戊辰(ぼしん)戦争で活躍し、1869函館戦争(はこだいせんそう。五稜郭の戦)で敗れた榎本武揚(えのもとたけあき)を助命、開拓使次官・開拓使(かいたくし)長官として北海道開拓に努め、1873屯田兵(とんでんへい)を創設、1876日朝修好条規を結び、1881開拓使官有物払下げ事件に関わって辞職、農商務相・枢密院(すうみついん)議長を経て1888首相に就任、1889大日本帝国憲法を発布し、超然主義を主張、辞任後は元老として重きをなした。

五衛府(ごえふ)=衛府=衛門府(えもんふ)+左衛士府(さえじふ)+右衛士府(うえじふ)+左兵衛府(さひょうえふ)+右兵衛府(うひょうえふ)
 古代の宮都警備隊の総称。それぞれ長官(かみ)は督、次官(すけ)は佐、判官(じょう)は大尉・少尉、主典(さかん)は大志・少志。宮中の警備、要人の警護、京内の治安維持などを担当した。811に左右近衛府・左右兵衛府・左右衛門府の六衛府となる。

坂本竜馬(さかもとりょうま)
 (1835-1867) 武士。土佐高知藩士。1861武市瑞山(たけちずいざん)の土佐勤王党に加わるが、江戸へ出て勝海舟(かつかいしゅう)に弟子入り、1864長崎で社中(しゃちゅう。後の海援隊)を結成し、1866薩長連合を仲介、寺田屋事件に遭遇するが逃亡し、1867上下議政局と大名会議を頂点とした新国家構想「船中八策(せんちゅうはっさく)」を起草、これを土佐藩政・後藤象次郎(ごとうしょうじろう)に提示し、徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の大政奉還に貢献するが、中岡慎太郎とともに京都で暗殺された。

左大臣(さだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣欠員時の最高官。国政を統括した。645大化の改新で阿倍内麻呂(あべのうちまろ。倉梯麻呂)が任じられたのが最初。 

札幌農学校(さっぽろのうがっこう)→北海道大学(ほっかいどうだいがく)
 明治時代の高等農業教育機関。1872ケプロンの建策で東京に開校した開拓使仮学校を1876札幌に移転。アメリカからクラークを招いて初代教頭とし、農業を中心に教育、1918北海道帝国大学となり、1947北海道大学になった。

衆議院(しゅうぎいん)=衆院(しゅういん)
 (1890- )日本国憲法のもと、参議院とともに国会を構成する両院の一つ。戦前は、大日本帝国憲法のもと、貴族院とともに帝国議会を構成。戦前は予算の先議権が認められ、戦後は加えて法律の再議決などが認められている(衆議院の優越)。

承和(じょうわ)の変
 842嵯峨天皇(さがてんのう)没後、政権確立を企んだ藤原良房(ふじわらのよしふさ)が外孫・道康(みちやす)親王を擁立、皇太子・恒貞親王(つねさだしんのう)を廃し、橘逸勢(たちばなのはやなり)・伴健岑(とものこわみね)らを失脚させた事件。逸勢は伊豆へ、健岑は隠岐へ島流しにされ、橘氏・伴氏は衰退、良房一家・藤原北家の勢力が拡大した。告発味2

菅原道真(すがわらのみちざね)
 (845-903) 学者。公卿。右大臣。是善(これよし)の子。877文章(もんじょう)博士になり、894遣唐使(けんとうし)廃止を進言、887〜888阿衡(あこう)の紛議に意見して宇多(うだ)天皇の信頼を得、892史書『類聚国史(るいじゅうこくし)』を編集、893参議になり、899右大臣に昇って正史『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』・詩集『菅家文集(かんけぶんそう)』を編集するが、901左大臣・藤原時平(ときひら)によって大宰府(だざいふ)に左遷され(昌泰の変)、任地で没して怨霊となり、天神として祭られた。スト味
受験味

摂関家(せっかんけ)
 摂政・関白を独占して世襲した家柄。藤原北家の嫡流。良房(よしふさ)・基経(もとつね)に興り、道長(みちなが)・頼通(よりみち)の代で確立、院政期に三家(近衛・松殿・九条)に、鎌倉時代初期に五摂家(近衛・鷹司・九条・二条・一条)に分裂した。

戦国大名(せんごくだいみょう)
 戦国時代に各地に割拠した大領主。守護(しゅご)大名から移行したもののほか、守護代や国人(こくじん)から台頭したものもある。伊豆・相模を切り取った北条早雲(ほうじょうそううん。伊勢宗瑞)がその先駆者とされる。

醍醐天皇(だいごてんのう)←敦仁親王(あつぎみしんのう)
 (885-930) 伝六十代天皇(在位897-930)。宇多(うだ)天皇の皇子。897父から「寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)」と皇位を譲られて即位、摂政・関白を置かず、902延喜の荘園整理令(しょうえんせいりれい)を発令、藤原時平(ふじわらのときひら)らに『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』「延喜格式(えんぎきゃくしき)」を、905紀貫之(きのつらゆき)らに『古今和歌集』を編集させ、907延喜通宝を鋳造、914三善清行(みよしきよゆき)らに意見封事を上申させるなど天皇親政を行ったため、後世に延喜の治と呼ばれた。受験味 詐欺味3

大納言(だいなごん)
 太政官(だいじょうかん・だじょうかん)で左右大臣に次ぐ官職。大臣とともに政務を執った。定員は四人。天武(てんむ)天皇が設置した御史大夫(ぎょしたいふ)が起源で、705その下に中納言が置かれた。758〜764御史大夫(ぎょしたいふ)と改称。最初の大納言は蘇我果安(そがのはたやす)ら。

橘逸勢(たちばなのはやなり)
 (?-842)官人。嵯峨(さが)天皇・空海(くうかい)とともに三筆(さんぴつ)の一人。入居の子。804最澄・空海らとともに遣唐使に随行し、806帰国、842承和の変で伴健岑(とものこわみね)とともに首謀者として逮捕され、伊豆へ島流しにされるが、途中で病死した。

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。現在の首都は東京。

福沢諭吉(ふくざわゆきち)
 (1834-1901) 教育家・思想家。大坂の適塾(てきじゅく。適々斎塾)で学び、1858江戸で慶応義塾(けいおうぎじゅく)を開塾、欧米を歴訪した後、外国奉行翻訳方に就任、『西洋事情(せいようじじょう)』・『学問のすゝめ』・『文明論之概略(ぶんめいろんのがいりゃく)』『国会論』などを著し、明六社(めいろくしゃ)でも活躍、1882「時事新報(じじしんぽう)」を創刊した。
飲酒味

藤原兼家(ふじわらのかねいえ)
 (929-990)公卿。摂政・関白・太政大臣。藤原師輔(もろすけ)の子。972長兄・伊尹(これただ・これまさ)没後、次兄・兼通(かねみち)と関白を争って敗れるが、977兼通没後に986花山(かざん)天皇を退位させ(寛和の変)、一条天皇の外祖父として摂政に就任、989太政大臣に、990関白となった。『蜻蛉(かけろう)日記』の作者・藤原道綱母(みちつなのはは)は妻の一人。安倍味5

藤原忠平(ふじわらのただひら)
 (880-949) 公卿。摂政・関白・太政大臣。藤原基経(もとつね)の子。時平(ときひら)の弟。900参議になるが辞退し、908還任、927『延喜式』を完成させ、930朱雀(すざく)天皇の摂政とに就任、935-941承平・天慶の乱を平定し、941関白に転任、日記『貞信公記(ていしんこうき)』を残した。
受験味

藤原時平(ふじわらのときひら)
 (871-909) 公卿。左大臣。藤原基経(もとつね)の子。901右大臣・菅原道真(すがわらのみちざね)を大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷し、醍醐(だいご)天皇による延喜(えんぎ)の治(ち)に協力、『日本三代実録』『延喜格式』編集を主導した。
受験味

北家(ほっけ)=藤原北家(ふじわらほっけ)
 藤原四家のうち、藤原不比等(ふひと)の次男・房前(ふささき)の子孫のこと。南家(長男・武智麻呂の子孫)・式家(三男・宇合の子孫)・京家(四男・麻呂の子孫)に対していう。良房(よしふさ)・基経(もとつね)・道長(みちなが)・頼通(よりみち)らを輩出し、四家中最も繁栄した。

平安京(へいあんきょう)
 (794-1868) 平安〜江戸時代の日本の首都。平安時代の政治の中心地。京域は京都盆地北部(京都市)。東西約四・五キロ、南北約五・二キロ794桓武(かんむ)天皇が和気清麻呂(わけのきよまろ)の勧めで遷都。

平安時代(へいあんじだい)
 (794-1185頃) 平安京に都が置かれ、天皇や貴族が支配していた時代。794桓武(かんむ)天皇の平安遷都に始まり、初期は天皇家が、前中期は藤原氏が、後期は院政の主が、末期は平家が政権を担った。1185源頼朝(みなもとのよりとも)の守護・地頭設置(事実上の鎌倉幕府の創立)頃までをいう。

源実朝(みなもとのさねとも)
 (1192-1219) 鎌倉幕府三代将軍(在職1203-1219)。源頼朝(よりとも)の次男。母は北条政子(ほうじょうまさこ)。将軍を廃された兄・頼家(よりいえ)の後を継いで執権・北条義時(よしとき)らと政治を執り、和歌や蹴鞠に励んで歌集『金塊(きんかい)和歌集』を編集したが、右大臣就任祝いの時、鶴岡八幡宮で兄の子・公暁(くぎょう)に殺害された。将軍味

源義朝(みなもとのよしとも)
 (1123-1160) 武将。為義(ためよし)の子。1153下野守となり、1154家督を継承、1156保元(ほうげん)の乱で後白河(ごしらかわ)天皇について勝ち、左馬頭(さまのかみ)に就任するが、清盛らと対立、1159平治(へいじ)の乱で院近臣・藤原信頼(ふじわらののぶより)と結び、院近臣・藤原信西(しんぜい。通憲)を討つが、平清盛(たいらのきよもり)に敗れ、東国へ落ち延びる途中、尾張で長田忠致(おさだただむね)に殺された。

源頼家(みなもとのよりいえ)
 (1182-1204) 武将。鎌倉幕府二代将軍(在職1202-1203)。頼朝(よりとも)の子。実朝(さねとも)の兄。母は北条政子(ほうじょうまさこ)。父の死後に家督を継いで将軍となったが、北条時政(ときまさ)など有力御家人に実権を奪われ(十三人の合議制)、1203巻き返しをはかるも失敗、妻の父・比企能員(ひきよしかず)と息子・一幡(いちまん)は殺され、自身も失脚して伊豆修禅寺(しゅぜんじ)に幽閉され(比企能員の乱)、1204時政に殺されたという。

毛利元就(もうりもとなり)
 (1497-1571) 武将。弘元(ひろもと)の子。1523安芸郡山(こおりやま)城主となり、大内義興(おおうちよしおき)、次いでその子・義隆(よしたか)に服属、備後の小早川(こばやかわ)氏・吉川(きっかわ)氏を乗っ取り、1550家臣・井上正兼(のうえまさかね)を粛清、1551義隆を討った陶晴賢(すえはるかた)を1555厳島(いつくしま)の戦で破り、1557大内義長(よしなが)を滅ぼして周防・長門・石見を制圧、1566出雲の尼子義久(あまこ・あまごよしひさ)も滅ぼし、ほぼ中国地方を平定した。

参議(さんぎ)
 朝廷の閣僚。令下官(りょうげのかん)の一つ。太政官で大臣・納言(なごん)に次き、公卿会議に参加。現代でいう国相。702大伴安麻呂(おおとものやすまろ)・粟田真人(あわたのまひと)・高向麻呂(たかむこのまろ)・下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)・小野毛野(おののけの)の五人に「朝政を参議」させたのが初め。731正式設置。

横山大観(よこやまたいかん)
 (1868-1958) 日本画家。東京美術学校(現東京芸大)に入学し、岡倉天心(おかくらてんしん)・橋本雅邦(はしもとがほう)らに師事、京都市立美術工芸学校教諭を経て東京美術学校教授となるが、1898天心排斥運動のあおりで辞職、日本美術院創立に参加し、菱田春草(ひしだしゅんそう)とともに朦朧(もうろう)体を企画、インドや欧米に渡航後、茨城県五浦で創作に励み、1914日本美術院再興に尽力、『生々流転』『無我』などを描き、帝室技芸員・帝国美術院会員・芸術院会員などを歴任して画壇に影響力を持ち続けた。
芸術味

和田義盛(わだよしもり)
 (1147-1213) 武将。侍所(さむらいどころ)別当。杉本義宗(すぎもとよしむね)の子。三浦義明(みうらよしあき)の孫。1180同族の三浦義澄(よしずみ)とともに源頼朝(みなもとのよりとも)の挙兵に従い、初代侍所別当に就任、頼朝(みなもとのよりとも)死後は十三人の合議制に列し、1200梶原景時(かじわらのかげとき)・1203比企能員(ひきよしかず)討伐に参加、幕府内で力を持ったが、政所(まんどころ)別当・北条義時(ほうじょうよしとき)と対立、挑発に乗って和田合戦(和田氏の乱)を起こして敗死した。

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