30.裏金味 基礎用語集
 

石田三成(いしだみつなり)
 
(1560-1600) 武将。五奉行の一。豊臣秀吉に仕え、1583賤ヶ岳の戦・1590小田原攻め・朝鮮出兵などで功を立て、太閤検地などに手腕を発揮、1595近江佐和山城主となるが、1600関ヶ原の戦で徳川家康に敗れて処刑された。
花見味 変節味

石見銀山(いわみぎんざん)・大森(おおもり)銀山
 島根県大田市にあった銀鉱山。1533筑前博多の豪商・神谷寿禎(かみやじゅてい)が開発し、1562毛利元就(もうりもとなり)が接収、その孫・輝元の代に豊臣秀吉が直轄地にし、徳川家康も天領とした。大久保長安(おおくぼながやす)が奉行になると生産量が飛躍的に増えたが、江戸時代中期までに衰退、1923休山した。

一里塚(いちりづか)
 主要街道の一里(約4km)ごとにおいた標識。塚を築き、榎(えのき)や松を植えた。藤原清衡(ふじわらのきよひら)・織田信長・豊臣秀吉らがも設置したが、1604徳川家康が大久保長安(おおくぼながやす)らに命じ、東海道・中山道・北陸道に設けさせたのが最も有名。

上杉景勝(うえすぎかげかつ)
 (1555-1623) 武将。大名。大老。謙信(けんしん)の養子。1578-1579御館(おたて)の乱で義兄・上杉景虎(かげとら)を破って家督となるが、1584豊臣秀吉に服属、陸奥会津(あいづ)百二十万石を領し、豊臣政権の五大老に列するが、1600関ヶ原の戦で徳川家康に歯向かったため、戦後出羽米沢(よねざわ)三十万石へ飛ばされた。

運上(うんじょう)
 江戸時代の税の一つ。幕府が商業・鉱工業・漁業・運送業などを営む者に課した営業税。

江戸城(えどじょう)
 東京都千代田区(ちよだく)所在。平安時代に江戸重継(えどしげつぐ)が居館を造営。長禄元年(1457)に太田道灌(おおたどうかん)が初めて築城。天正十八年(1590)に徳川家康(とくがわいえやす)が入城して将軍在所となり、明治元年(1868)に明治天皇が入城して皇居となる。天守閣(てんしゅかく)は明暦(めいれき)の大火で炎上、以後、再建されなかった。

江戸幕府(えどばくふ)・徳川(とくがわ)幕府
 (1603-1867) 江戸時代の武家政権。1603徳川家康(とくがわいえやす)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されたことに始まる。徳川氏が代々将軍に就任、老中(ろうじゅう)が政務を統括し、臨時に大老(たいろう)が置かれた。1867十五代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が朝廷に大政奉還(たいせいほうかん)、1868-1869戊辰(ぼしん)戦争をへて幕府は解体した。

外務省(がいむしょう)
 (1869-) 外交を担当する国の行政官庁。長官は外務卿(初代は沢宣嘉)、1885内閣創設以降は外相(初代は井上馨)。1942-1945大東亜省設置中は権限を一部譲渡。1945-1952はGHQとの折衝のみで外交機能停止。

●関白(かんぱく)
 天皇が国政を執り行うのを補佐する者。初めての関白は光孝朝の藤原基経(ふじわらのもとつね)。

●吉利支丹・切支丹(キリシタン)
 キリスト教の信者のこと。クリスチャン。

●キリスト教禁教令(きりすときょうきんきょうれい)
 江戸幕府が発したキリスト教の禁止令。1612徳川秀忠の代に江戸・京都・駿府でキリスト教を禁じ、1613全国的にキリスト教を禁止、1614高山右近(たかやまうこん)ら三百余名のキリシタンの国外追放を実施した。

五街道(ごかいどう)
 江戸時代の幹線道路。東海道(とうかいどう)・中山道(なかせんどう)・甲州道中(こうしゅうどうちゅう)・日光(にっこう)道中・奥州(おうしゅう)道中の五道。道中奉行が管理した。

道 名  起点・宿駅・終点
東海道 日本橋・品川・川崎・神奈川・保土ヶ谷・戸塚・藤沢・平塚・大磯・小田原・箱根・三島・沼津・原・吉原・蒲原・由比・興津・江尻・府中・丸子・岡部・藤枝・島田・金谷・日坂・掛川・袋井・見附・浜松・舞坂・新居・白須賀・二川・吉田・御油・赤坂・藤川・岡崎・池鯉鮒・鳴海・熱田・桑名・四日市・石薬師・庄野・亀山・関・坂下・土山・水口・石部・草津・大津(・伏見・淀・枚方・守口・大坂) 
中山道
(中仙道)
日本橋・板橋・蕨・浦和・大宮・上尾・桶川・鴻巣・熊谷・深谷・本庄・新町・倉賀野・高崎・板鼻・安中・松井田・坂本・軽井沢・沓掛・追分・小田井・岩村田・塩名田・八幡・望月・芦田・長窪・和田・下諏訪・塩尻・洗馬・本山・贄川・奈良井・薮原・宮越・福島・上松・須原・野尻・三留野・妻籠・馬籠・落合・中津川・大井・大久手・細久手・御嶽・伏見・太田・鵜沼・加納・河渡・美江寺・赤坂・垂井・関ヶ原・今須・柏原・醒井・番場・鳥居本・高宮・愛知川・武佐・守山・草津・大津(・京都)
甲州道中 日本橋・内藤新宿・下高井戸・上高井戸・国領・下布田・上布田・下石原・上石原・府中・・日野・横山・駒木野・小仏・小原・与瀬・吉野・関野・上野原・鶴川・野田尻・犬目・下鳥沢・上鳥沢・猿橋・駒橋・大月・下花咲・上花咲・下初狩・中初狩・白野・阿弥陀海道・黒野田・駒飼・鶴瀬・勝沼・栗原・石和・甲府・韮崎・台ヶ原・教来石・蔦木・金沢・上諏訪・下諏訪
日光道中 日本橋・千住・草加・越ヶ谷・粕壁・杉戸・幸手・栗橋・中田・古河・野木・間々田・小山・新田・小金井・石橋・雀宮・宇都宮・下徳次郎・中徳次郎・上徳次郎・大沢・今市・鉢石
奥州道中 宇都宮・白沢・氏家・喜連川・佐久山・大田原・鍋掛・越堀・芦野・白坂・白河

金春座(こんぱるざ)
 もと円満井座(えまいざ)。観世(かんぜ)座・宝生(ほうしょう)座・金剛(こんごう)座とともに大和四座(やまとしざ)の一つ。金春禅竹により確立された。

佐藤信淵(さとうのぶひろ)
 (1769-1850) 思想家・経世家(経済学者)。江戸に出て宇田川玄随(うだがわげんずい)に蘭学を、木村泰蔵に天文・地理学を、平田篤胤(ひらたあつたね)に国学を学び、諸国を回遊して『農政本論』『経済要録』『宇内混同秘策』『鎔造化育論』などを著した。

佐渡金山(さどきんざん)・相川(あいかわ)金山・佐渡金銀山
 新潟県佐渡市にあった金銀鉱山。平安時代から砂金を生産、安土桃山時代には上杉景勝(うえすぎかげかつ)が領し、豊臣秀吉が管轄、徳川家康も天領として大久保長安(おおくぼながやす)を佐渡代官(後の佐渡奉行)に任じてから生産が増し、銀坑も開かれて世界屈指の銀山になるが、1869明治政府が接収、1896三菱に払い下げられ、1989閉山した。

猿楽(さるがく)
 奈良時代に中国から伝来した散楽(さんがく)の流れをくむ芸能。平安時代に興り、鎌倉時代に興隆、民間で発展した田楽(でんがく)と融合し、室町時代に能(のう。能楽)に発展した。猿楽座(猿楽師の集団)は特定の寺社から許可を得て祭礼を興行したもの。

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)・将軍
 蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための軍事長官。奈良時代にあった征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。もとは東国で兵乱が起こったときの臨時職であったが、1192源頼朝(みなもとのよりとも)が任命されて以後、武家の最高指導者の称号となった。将軍味

関ヶ原の戦(せきがはらのたたかい)
 豊臣秀吉没後、主導権を握ろうとする徳川家康と、豊臣政権を守ろうする石田三成(いしだみつなり)が美濃の関ヶ原(岐阜県関ヶ原町)で対決した戦い。1598秀吉が没し、1599前田利家(まえだとしいえ)が死ぬと、家康の勢力は拡大、1600反抗的な態度を取った上杉景勝(うえすぎかげかつ)攻め(会津攻め)に向かった。一方、三成は家康の留守を突いて挙兵、毛利輝元(もうりてるもと)・宇喜多秀家(うきたひでいえ)・小早川秀秋(こばやかわひであき)・小西行長(こにしゆきなが)らを味方につけ、京都の伏見城(京都市伏見区)等を攻略、美濃の大垣城(岐阜県大垣市)に入った。一方、家康は三成を討つため小山(おやま。栃木県小山市)で引き返し、福島正則(ふくしままさのり)・池田輝政(いけだてるまさ)を西上させ、織田秀信(おだひでのぶ)の守る岐阜城等を陥落させた。両軍は関ヶ原で激突するが、小早川秀秋(こばやかわひであき)らの裏切りや、吉川広家(きっかわひろいえ)の内応静観などで三成方は壊滅、三成は行長らとともに京都で処刑された。変節味4
友愛味6

戦国大名(せんごくだいみょう)
 戦国時代に各地に割拠した大領主。守護(しゅご)大名から移行したもののほか、守護代や国人(こくじん)から台頭したものもある。

大老(たいろう)
 江戸幕府における最高職。臨時職で、酒井(さかい)・土井(どい)・井伊(いい)・堀田(ほった)という十万石以上の譜代大名から選ばれた。1638三代将軍・徳川家光(とくがわいえみつ)が土井利勝(としかつ)・酒井忠勝(ただかつ)を任じたのが最初。
   

武田勝頼(たけだかつより)・諏訪(すわ)勝頼
 (1546-1582) 武将。甲斐等領主。信玄(しんげん)の子。父の死後も勢力を拡大したが、1575長篠(ながしの)の戦いで織田信長・徳川家康連合軍に大敗して衰退、1582天目山(てんもくざん)の戦いで敗れて自殺した。惨敗味2
人質味

武田信玄(たけだしんげん)・晴信(はるのぶ)
 (1521-1573) 武将。甲斐等守護。信虎(のぶとら)の子。1541父を追放して家督を継ぎ、1547分国法「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい。「信玄家法」とも)」を制定、1542信濃へ侵攻して諏訪頼重(すわよりしげ)を討ち、小笠原長時(おがさわらながとき)・村上義清(むらかみよしきよ)らを撃破、越後の上杉謙信(うえすぎけんしん)と数度交戦し(川中島の戦い)、1554駿河の今川義元(いまがわよしもと)・相模の北条氏康(ほうじょううじやす)と同盟を結ぶが(善徳寺の会盟)、1560桶狭間の戦いで義元が敗死するや1568駿河に侵攻して今川氏を滅ぼし、1572三方原(みかたがはら)の戦いで徳川・織田連合軍を破るが、まもなく病没した(鉄砲で狙撃されたという説もある)。
撤退味 大雪味3

伊達政宗(だてまさむね)
(1567-1636) 武将・大名。初代陸奥仙台藩主。出羽米沢城主・伊達輝宗の子。1584家督相続し、1585常陸の佐竹義重(さたけよししげ)らを撃破(人取橋の戦)、1586畠山氏を滅ぼし、1589会津の葦名盛氏(あしなもりうじ)を攻略(摺上原の戦)、ほぼ陸奥を平定するが、1590豊臣秀吉に、1600徳川家康に服属、1600関ヶ原の戦いでは会津の上杉景勝(うえすぎかげかつ)を攻め、1603仙台に引越、1613家臣の支倉常長(はせくらつねなが)らを欧州に派遣し(慶長遣欧使節)、1614-1615大坂の役にも参戦した。

鉄砲(てっぽう)・種子島(たねがしま)・火縄銃(ひなわじゅう)
 火薬の爆発力によって弾丸を発射する武器。1543ポルトガル人によって種子島に伝来。和泉(いずみ)の堺(さかい)・紀伊(きい)の根来(ねごろ)・近江(おうみ)の国友(くにとも)などの鉄砲鍛治(かじ)が製造し、戦国大名の間で普及した。織田信長が三千丁の鉄砲を使用して長篠(ながしの)の戦いで勝利したことは有名。

天領(てんりょう)・幕領(ばくりょう)・御料(ごりょう)
 江戸幕府直轄の領地。奉行(ぶぎょう)・郡代(ぐんだい)・代官(だいかん)が支配した。

徳川家光(とくがわいえみつ)
 (1604-1651) 江戸幕府三代将軍(在職1623-1651)。秀忠(ひでただ)の子。乳母・春日局(かすがのつぼね)に育てられ、1623父から将軍職を継承、1632父の没後は幕政を主導し、武家諸法度(ぶけしょはっと)を改正して参勤交代(さんきんこうたい。参勤交替)を制度するなど幕藩体制を確立させ、踏絵(ふみえ)を実施してキリスト教を禁圧し、鎖国(さこく)を断行、1637-1638天草四郎(あまくさしろう)らが起こした島原(しまばら)の乱を鎮圧した。
富豪味

徳川家康(とくがわいえやす)・松平元康(まつだいらもとやす)
 (1542-1616) 武将。江戸幕府初代将軍(在職1603-1605)・大御所。三河岡崎(みかわおかざき)城主・松平広忠(まつだいらひろただ)の子。1560桶狭間(おけはざま)の戦い後に岡崎城主となり、織田信長と同盟を締結、今川氏を滅ぼして遠江浜松(とおとうみはままつ)城主となるが1572三方原(みかたがはら)の戦いで武田信玄(たけだしんげん)に惨敗、1575長篠(ながしの)の戦いで武田勝頼(かつより)を撃退し、1582本能寺(ほんのうじ)の変後、1584小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦い後に豊臣秀吉と講和、1590小田原(おだわら)攻めに従って武蔵江戸(えど)城主となり、関東を統治、五大老に列し、秀吉の死後の1600関ヶ原の戦いで石田三成らを撃破、1603征夷大将軍となって江戸幕府を開き、1605将軍職を秀忠(ひでたた)に譲渡、駿河府中(するがふちゅう)に退くが、大御所として実権を掌握、1614〜1615大坂の役で豊臣秀頼(ひでより)を滅ぼし、1615武家諸法度(ぶけしょはっと)・禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)・一国一城令(いっこくいちじょうれい)などを定めた。惨敗味 変節味

徳川秀忠(とくがわひでただ)
 (1579-1632) 江戸幕府二代将軍(在職1605-1623)。家康の子。父より将軍職を譲られ、1614-1615大坂の役で豊臣秀頼(とよとみひでより)を滅ぼして元和偃武(げんなえんぶ)を実現、武家諸法度・禁中並公家諸法度などを制定、1623子の家光に将軍職を譲ってからも大御所として実権を握り続けた。
基督味

豊臣秀吉(とよとみひでよし)・羽柴(はしば)秀吉・木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)
 (1537-1598) 武将。関白・太政大臣。織田信長に仕えて出世し、1573近江長浜(おうみながはま)城主となり、1577中国攻めを開始、1582備中高松(びっちゅうたかまつ)城攻撃中に信長横死の知らせを受け、山崎(やまざき)の戦で明智光秀(あけちみつひで)を、1583賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで柴田勝家(しばたかついえ)を滅ぼし、石山本願寺(いしやまほんがんじ)跡に大坂(おおさか)城を築城、1584小牧・長久手の戦いを経て徳川家康と講和、1585関白となって紀伊の根来(ねごろ)・雑賀(さいが)一揆を、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を降し、1586太政大臣に就任、1587九州の島津義久を、1590東北の伊達政宗(だてまさむね)・最上義光(もがみよしあき)らを、関東の北条氏政(ほうじょううじまさ)・氏直(うじなお)を降して天下を統一、太閤検地(たいこうけんち)や刀狩(かたながり)を行い、バテレン追放令や身分統制令などを発令、聚楽第(じゅらくだい)や伏見城を築いたが、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は失敗した。 怪談味2 日朝味7 花見味変節味1

長篠(ながしの)の戦・長篠合戦
 織田信長・徳川家康が武田勝頼(たけだかつより)の侵攻を食い止めた戦い。1574勝頼は徳川領に侵攻、遠江の高天神城(たかてんじんじょう。静岡県大東町)を落とし、1575三河の長篠城(愛知県鳳来町)を攻囲、城将・奥平信昌(おくだいらのぶまさ)は家康に助けを求め、家康は信長に救援を依頼、織田・徳川連合軍は設楽原に馬防柵(ばぼうさく)を設け、足軽鉄砲隊で迎撃、当時最強といわれていた武田騎馬隊を壊滅させた。以後、武田家は衰退し、1582滅亡する。
 人質味

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。

支倉常長(はせくらつねなが)・六右衛門長経(ろくえもんながつね)
 (1571-1622) 武士。陸奥仙台藩士。1613伊達政宗の命でのフランシスコ会宣教師・ソテロらとともにノビスパン(メキシコ)・スペイン・イタリアに赴き、スペイン国王・フェリペ三世やローマ教皇・パウロ五世に謁見、通商を求めたが、かなわず帰国した(慶長遣欧使節)。

武士(ぶし)・侍(さむらい)・武者(むしゃ)
 武芸をおさめて軍事にたずさわった者。

ポルトガル(Portugal)
 ヨーロッパにある国。1143イベリア半島南西部で独立し、15〜16世紀には東洋貿易を独占、アフリカ・アジア・ブラジルに植民地を広げ、1543種子島に来航して鉄砲を伝え、1549ザビエルが鹿児島でキリスト教を布教、イエズス会が南蛮貿易を主導し、1682大友宗麟・大村純忠・有馬晴信らに天正遣欧使節を派遣させるが、1609ノッサ・セニューラ・ダ・グラッサ号事件などで日本と不和になり、1639徳川家光の鎖国令などによって来航禁止にされた。現在の首都はリスボン。
南蛮味

毛利輝元(もうりてるもと)
 (1553-1625) 武将。大名。大老。隆元(たかもと)の子。元就(もとなり)の孫。二人の叔父・吉川元春(きっかわもとはる)と小早川隆景(こばやかわたかかげ)に補佐されて中国地方を治め、畿内を平定した織田信長と対立、1582備中高松城水攻めで羽柴(豊臣)秀吉と和し、1585四国攻め・1587九州攻めに従軍、豊臣政権の五大老に列し、1600関ヶ原(せきがはら)の戦いでは西軍の総大将として石田三成(いしだみつなり)に担ぎ出されて大坂城に入るが、戦後徳川家康に追い出され、長門・周防二国に減封された。

大和四座(やまとしざ)
 大和の興福寺・春日社に奉仕した代表的な猿楽座。金春(こんぱる。もと円満井)・金剛(こんごう。もと坂戸)・宝生(ほうしょう。もと外山)・観世(かんぜ。もと結崎)の四座。

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