82.内乱味 基礎用語集

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アメリカ≧アメリカ合衆国(United States of America)=米国(べいこく)
 北アメリカ大陸にある国。1492コロンブスが漂着し、十六世紀初めにスペインが、1607年からイギリスが入植、1776イギリスから独立宣言し、1783パリ条約で独立を承認、徐々に西へ領土を広げ、十九世紀半ばに太平洋側に到達、二度の世界大戦と冷戦を経て、世界一の工業国・農業国・軍事大国に成長した。首都はワシントン。

イギリス(Inglez)=英国(えいこく)=グレート・ブリテン及び北アイルランド連合王国
 ヨーロッパにある国。紀元前七世紀頃にケルト人が先住民を駆逐し、五世紀頃からアングロサクソン人がイングランドを制圧、グレートブリテン島ほかを領有し、1588スペインの無敵艦隊を撃破、1600東インド会社を設立し、世界へ植民地を拡大、十八世紀にいち早く産業革命を成し、十九世紀には大英帝国として全盛期を誇った。現在の首都はロンドン。

右大臣(うだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣・左大臣欠員時の最高官。左大臣とともに国政を統括した。645大化の改新で蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)が任じられたのが最初。

衛士(えじ)
 古代の宮都警備員。諸国の軍団の兵士から選ばれて上京し、左・右衛士府(さ・うえじふ)や衛門府(えもんふ)に配され、宮中の警備、要人の警護、京内の治安維持を担当した。律令には任期を一年と定めてあるが、実際は多年にわたった。792諸国の軍団が廃された後も公民から徴収された。

蝦夷(えぞ・えみし)
 古代、主に東日本に住んでいた人々。朝廷の征伐を受け、次第に北方に追いやられた。アイヌかどうかについては不明。

江戸幕府(えどばくふ)=徳川(とくがわ)幕府
 (1600?-1867) 江戸時代の武家政権。1600関が原の戦で勝利した徳川家康(とくがわいえやす)が1603に征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に就任して創始。徳川氏が代々将軍に就任、老中(ろうじゅう)が政務を統括し、臨時に大老(たいろう)が置かれた。1867十五代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が朝廷に大政奉還(たいせいほうかん)、1868-1869戊辰(ぼしん)戦争をへて旧幕府勢力は解体した。

恵美押勝(えみのおしかつ)の乱=藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の乱
 藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ。別名恵美押勝)が孝謙(こうけん)上皇に対して起こした反乱。764太師(太政大臣)・藤原仲麻呂は、孝謙上皇のお気に入りの僧・道鏡(どうきょう)を除こうとして反乱を起こすが、吉備真備(きびのまきび)の采配(さいはい)や藤原式家(しきけ)の人々の活躍などにより近江にて敗死。これにより、仲麻呂が擁していた淳仁天皇は淡路に流され、孝謙上皇は称徳天皇として再び即位、道鏡が専横した。
日朝味6

鎌倉時代(かまくらじだい)
 (1185頃〜1333) 鎌倉に幕府が置かれ、武士が支配していた時代。1185源頼朝(みなもとのよりとも)の守護・地頭設置頃に始まり、源氏・藤原氏・皇族が将軍に就任、1219源氏滅亡後は北条(ほうじょう)氏が執権として実権を握り、鎌倉文化が栄えるが、1333後醍醐(ごだいご)天皇によって滅ぼされた。

鎌倉幕府(かまくらばくふ)
 (1185?-1333) 鎌倉時代の武家政権。源頼朝が鎌倉に1180侍所を・1184公文所(政所)・問注所を創設、1185守護・地頭の設置によりほぼ幕府は完成し、1192の征夷大将軍就任によって正式に発足した。1219三代将軍源実朝(さねとも)の暗殺・公暁(くぎょう)殺害によって源氏が滅亡してからは、外戚の北条(ほうじょう)氏が幕政を掌握し、代々執権(しっけん)を選出するが、末期には内管領・長崎氏が勢力を拡大、1333新田義貞(にったよしさだ)に鎌倉を攻略されて滅亡し、幕府は解体した。 

関東軍(かんとうぐん)
 中国の関東州(遼東半島西南端)に駐屯していた日本の陸軍部隊。関東州と南満州鉄道を警備した。1931満州事変勃発後、司令部を旅順から奉天、新京(長春)に移し、実質的に満州を支配した。

桓武天皇(かんむてんのう)=柏原帝(かしわばらてい)←山部(やまべ)親王←山部王
 (737-806) 伝五十代天皇(在位781-806)。光仁(こうにん)天皇の皇子。781父の譲位によって即位し、784長岡京(ながおかきょう)へ遷都するが、785造長岡宮使(ぞうながおかぐうし)・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の暗殺で挫折(ざせつ)、792健児(こんでい)の制を制定し、794和気清麻呂(わけのきよまろ)の勧めで平安京へ遷都、勘解由使(かげゆし)を置き、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍として蝦夷を征伐、藤原継縄(つぐただ)・菅野真道(すがののまみち)らに正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』を編集させた。怨念味 怨霊味 ヤミ味

吉備真備(きびのまきび)←下道真備(しもつみちのまきび)
 (693?-775) 学者。公卿。右大臣。下道圀勝(くにかつ)の子。717-735唐に留学、玄ム(げんぼう)とともに橘諸兄(たちばなのもろえ)の政治顧問となり、皇太子・阿倍内親王(孝謙・称徳天皇)の侍講を担当するが、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の圧力で一時左遷、怡土城を築城するが、764恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で軍師に抜擢されて活躍し、右大臣に昇進、称徳(孝謙)天皇没後、文室智努(ふんやのちぬ。浄三)・大市(おおいち)兄弟の擁立を図るが、失敗して引退した。

京職(きょうしき)=左京職(さきょうしき)+右京職(うきょうしき)
 律令制における都庁・司法警察官庁。長官は左京大夫(さきょうのだいぶ)と右京大夫(うきょうのだいぶ)。左京を左京職が、右京を右京職が統治した。

公卿(くぎょう)
 公(太政大臣・左右大臣)と卿(大中納言・参議・その他三位以上の者)のこと。現在でいう閣僚に相当。

薬子の変(くすこのへん)=平城上皇の変(へいぜいじょうこうのへん)=平城太上天皇(へいぜいだじょうてんのう)の変=薬子の乱
 式家の藤原仲成(ふじわらのなかなり)・藤原薬子(ふじわらのくすこ)らにあおられた平城上皇(へいぜいじょうこう)が嵯峨(さが)天皇に対して起こした反乱未遂事件。809平城天皇は病気のため弟・嵯峨天皇に譲位、旧都・平城京へ移るが、仲成・薬子らにそそのかされて重祚(ちょうそ。再即位)と平城京還都を計画、810嵯峨天皇は巨勢野足(こせののたり)・藤原冬嗣(ふゆつぐ)を蔵人頭(くろうどのとう)に任じ、反乱計画を察知、平安京で仲成を逮捕・射殺した。一方、平城上皇は東国へ行こうとするが失敗して出家、薬子は自殺し、皇太子・高岳親王(たかおかしんのう。高丘親王とも。平城天皇皇子)は廃された。これにより式家は衰退し、北家が台頭した。
内乱味

蔵人所(くろうどどころ)
 令外官(りょうげのかん)の一。天皇に近侍し、極秘文書や訴訟をつかさどった役所。810嵯峨(さが)天皇が設置。長官は蔵人頭(くろうどのとう)。後にその上に別当(べっとう)が置かれた。事務所は内裏(だいり)校書殿(きょうしょ)にあった。詐欺味1

蔵人頭(くろうどのとう)
 蔵人所(くろうどところ)長官。定員二人。天皇に近侍し、極秘文書や訴訟をつかさどった。810嵯峨(さが)天皇が薬子の変に備え、藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)と巨勢野足(こせののたり)を任命したのに始まり、以後、公卿昇進への登竜門となった。詐欺味1

軍部(ぐんぶ)
 陸海空軍などの総称。特に陸軍省(長は陸相)・海軍省(長は海相)・参謀本部(長は参謀総長)・軍令部(長は軍令部総長)など政治に関わる上層部のこと。

建武の新政(けんむのしんせい)=建武の中興(ちゅうこう)=建武政権
 (1333-1336) 鎌倉幕府を倒した後醍醐(ごだいご)天皇の政治(政権)。1333鎌倉幕府を滅ぼした後醍醐天皇は、中央に記録所(政務)・雑訴決断所(訴訟)・恩賞方(論功行賞)・武者所(軍事・警察。頭人新田義貞)など、地方に鎌倉将軍府(関東統治)・陸奥将軍府(東北統治)・国司・守護などを設置して親政を行ったが、1336足利尊氏(あしかがたかうじ)の反乱によって崩壊した。

皇后(こうごう)←大后(たいごう)
 天皇の正妻。天武天皇の頃(皇后は後の持統天皇)の頃に称号が定着。一条天皇から二后並立制(皇后・中宮)がとられた。

皇太子(こうたいし)=東宮(とうぐう)=春宮(とうぐう)←太子
 皇位を継ぐ予定の唯一の皇子(または王子・皇女・王女)。次期天皇。七世紀頃に成立?

光仁天皇(こうにんてんのう)←白壁王(しらかべおう)
 (709-781) 伝四十九代天皇(在位749-758,764-770)。施基(しき)親王王子。天智(てんじ・てんち)天皇の孫。聖武(しょうむ)天皇皇女・井上(いのうえ・いのえ)内親王と結婚し、大納言に昇進、770称徳(しょうとく)天皇没後に藤原永手(ふじわらのながて)・藤原百川(ももかわ)らに推されて即位し、道鏡(どうきょう)を追放、行政改革を行った。
ヤミ味

興福寺(こうふくじ)
 奈良県奈良市所在。法相宗(ほっそうしゅう)大本山。藤原氏の氏寺。藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が建立した山階(やましな)寺をその子・不比等(ふひと)が奈良に移したもの。平安時代以降は北嶺(延暦寺)と並んで日本の仏教教学の中心となり、中世には大和国守護を兼ねた。

五衛府(ごえふ)=衛門府(えもんふ)+左衛士府(さえじふ)+右衛士府(うえじふ)+左兵衛府(さひょうえふ)+右兵衛府(うひょうえふ)
 古代の宮都警備隊の総称。それぞれ長官(かみ)は督、次官(すけ)は佐、判官(じょう)は大尉・少尉、主典(さかん)は大志・少志。宮中の警備、要人の警護、京内の治安維持などを担当した。811に左右近衛府・左右兵衛府・左右衛門府の六衛府となる。

国司(こくし)
 古代に諸国の政務をつかさどった地方官。現在でいう都道府県庁高官に相当。長官(守・かみ)・次官(介・すけ)・判官(掾・じょう)・主典(目・さかん)という四等官(しとうかん。幹部のこと)が朝廷から派遣され、国衙(こくが。国庁とも。役所のこと)に勤務し、郡司(ぐんじ)・里長(りちょう・さとおさ)らを支配した。天武天皇の頃に成立し、鎌倉時代に守護・地頭勢力に押されて衰退した。

嵯峨上皇(さがじょうこう)←嵯峨天皇←神野親王・賀美能親王(かみのしんのう)
 (786-842) 伝五十二代天皇(在位809-823)。三筆(さんぴつ)の一人。桓武(かんむ)天皇の皇子。平城(へいぜい)天皇の弟。兄の譲位で即位し、検非違使(けびいし)や810蔵人所(くろうどのところ)を設置、蔵人頭に北家の藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)らを登用し、式家の藤原仲成(なかなり)・薬子(くすこ)兄妹らを排斥(薬子の変)、820『弘仁格式(こうにんきゃくしき)』を完成、漢詩集814『凌雲集(りょううんしゅう)』・818『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』・814系譜集『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』を編集させた。842その死後、承和(じょうわ)の変が起こった。
内乱味

左大臣(さだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣欠員時の最高官。国政を統括した。645大化の改新で阿倍内麻呂(あべのうちまろ)が任じられたのが最初。 

坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)
 (758-811) 武将・公卿。征夷大将軍。大納言。苅田麻呂(かりたまろ)の子。791大使・大伴乙麻呂(おおとものおとまろ)の下で征夷副使となり、796陸奥出羽按察使(あぜち)・陸奥守・鎮守(ちんじゅ)将軍を兼任、797・804征夷大将軍に就いて蝦夷(えぞ・えみし)を征討、798東山に清水寺(きよみずでら)を建て、802陸奥に胆沢(いさわ)城を造営、蝦夷の首長・阿弖流為(アテルイ)を降し、810大納言に昇進、薬子(くすこ)の変でも活躍した。

参議(さんぎ)
 朝廷の閣僚。令下官(りょうげのかん)の一つ。太政官で大臣・納言(なごん)に次き、公卿会議に参加。現代でいう国相。702大伴安麻呂(おおとものやすまろ)・粟田真人(あわたのまひと)・高向麻呂(たかむこのまろ)・下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)・小野毛野(おののけの)の五人に「朝政を参議」させたのが初め。731正式設置。

三筆(さんぴつ)
 平安時代初期の唐風の書道の名人。嵯峨天皇(さがてんのう)と空海(くうかい)と橘逸勢(たちばなのはやなり)のこと。

自衛隊(じえいたい)
 (1954-) MSA協定(日米相互防衛援助協定)により、保安隊と警備隊を改組して発足した日本の防衛組織。防衛庁に所属する陸上・海上・航空自衛隊の三隊。内閣総理大臣の統率のもと防衛相(2007まで防衛庁長官)が隊を総括。
内乱味

四等官(しとうかん)=長官(かみ)+次官(すけ)+判官(じょう)+主典(さかん)
 律令制における役所幹部の総称。代表者である長官(かみ)、補佐役の次官(すけ)、事務職の判官(じょう)、書記の主典(さかん)の四階級ある。読み方は同じだが、漢字は官庁によって異なる。例えば八省は卿(かみ)・輔(すけ)・丞(じょう)・録(さかん)、国司は守(かみ)・介(すけ)・掾(じょう)・目(さかん)。

称徳天皇(しょうとくてんのう)←孝謙(こうけん)天皇←阿倍内親王(あべないしんのう)
 (718-770) 第四十六・四十八代天皇(在位749-758,764-770)。聖武天皇皇女。738日本初の女性皇太子になり、749即位し752東大寺大仏開眼法要を開催、758淳仁天皇に譲位するが、まもなく不和となって実権を奪還、764恵美押勝(えみのおしかつ)の乱を鎮圧し、再び天皇に即位、百万塔(ひゃくまんとう)を作らせ、寵愛する道鏡(どうきょう)を大臣禅師に765太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)に766法王(ほうおう)にし、769皇位まで譲ろうとしたが、和気清麻呂(わけのきよまろ)に阻まれた。
女帝味

壬申(じんしん)の乱
 皇位継承をめぐる飛鳥時代最大の内乱。671天智(てんち・てんじ)天皇の死後、子の大友(おおとも)皇子(弘文天皇)と弟の大海人(おおあま)皇子(天武天皇)が対立、672大海人皇子は吉野(よしの)で挙兵し、伊勢へ下向、村国男依(むらくにのおより)に美濃・尾張国司を懐柔させ、不破(ふわ)・鈴鹿関(すずかのせき)を封鎖、大伴吹負(おおとものふけい)に飛鳥古京を占拠させた。大友皇子は大和・伊賀で攻勢に出るが反撃され、近江の瀬田(せた)で完敗、大津宮(おおつのみや)で自殺した。乱後、大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)へ遷都、673天武天皇として即位した。

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)≦将軍
 もとは蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための軍事長官。後に武家政権の最高指導者の称号。奈良時代の征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。1192源頼朝(みなもとのよりとも)就任以後は幕府の統率者の称号。将軍味

摂関政治(せっかんせいじ)
 10〜11世紀に藤原氏が天皇の外戚となり、摂政・関白職を独占して主導権を握った時代。安和の変後に摂関は常置となるが、院政が始まると衰退した。

内裏(だいり)
 天皇の居所。皇居。御所。大内裏(だいだいり。皇居+主要官庁)の中にあり、紫晨殿(ししんでん・ししいでん。書斎ほか)・清涼殿(せいりょうでん。居間ほか)・仁寿殿(じじゅうでん・じじゅでん。客間ほか)などがある。

大納言(だいなごん)
 太政官(だいじょうかん・だじょうかん)で左右大臣に次ぐ官職。大臣とともに政務を執った。定員は四人。天武(てんむ)天皇が設置した御史大夫(ぎょしたいふ)が起源で、705その下に中納言が置かれた。758〜764御史大夫(ぎょしたいふ)と改称。最初の大納言は蘇我果安(そがのはたやす)ら。

内裏(だいり)
 天皇の居所。皇居。御所。大内裏(だいだいり。皇居+主要官庁)の中にあり、紫晨殿(ししんでん・ししいでん。書斎ほか)・清涼殿(せいりょうでん。居間ほか)・仁寿殿(じじゅうでん・じじゅでん。客間ほか)などがある。

橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)
 (721?-757?) 公卿。諸兄(もろえ)の嫡男として優遇され、参議に昇るが、藤原仲麻呂(なかまろ)の台頭に押され、757父の死後に大伴(おおとも)・佐伯(さえき)・多治比(たじひ)氏らと反乱を画策するも、未然に鎮圧されて逮捕された(橘奈良麻呂の変・乱)。

弾正台(だんじょうだい)
 律令制における特別検察機関。長官は弾正尹(だんじょういん)。二官八省から独立し、京内を中心とした各役所の非違を糾弾した役所だが、九世紀初めの検非違使の設置で職務を奪われた。

天智天皇(てんちてんのう・てんじてんのう)←中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
 (626-671)伝三十八代天皇(在位668-671)。舒明(じょめい)天皇の第一皇子。母は皇極(こうぎょく)・斉明(さいめい)天皇。中臣(藤原)鎌足とともに645蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼし、大化の改新を断行、663白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦で唐・新羅に大敗した後、667近江大津宮(おうみのおおつのみや)に遷都し、668近江令(おうみりょう)を編集、670庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成した。ウソ味 日朝味5

天皇(てんのう)
 古代〜現代に至る日本の国王。推古天皇のときに成立? 初代天皇は神武(じんむ)天皇? 今上天皇は伝百二十五代。大日本帝国憲法では大日本帝国の元首、日本国憲法では国民統合の象徴。
女帝味

天武天皇(てんむてんのう)←大海人皇子(おおあまのおうじ)
 (631?-686)第四十代天皇(在位673〜686)。舒明天皇の皇子。天智天皇の弟。672壬申(じんしん)の乱で大友皇子(おおとものおうじ)を破り、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位、684八色(やくさ)の姓(かばね)を制定し、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を編集させた。

長岡京(ながおかきょう)
 (784-794) 奈良時代末期の首都。784桓武(かんむ)天皇が遷都して造営開始。京域は京都盆地西部。785造長岡宮使(ぞうながおかきゅうし)・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺されてから工事が進まなかった。現在、発掘が進められている。

奈良時代(ならじだい)
 (710-784) 平城京に都が置かれ、天皇や貴族が支配していた時代。710元明(げんめい)天皇の平城京遷都に始まり、律令国家の最盛期にあたり、天平文化が栄えた。784桓武天皇の長岡京(ながおかきょう)遷都で終焉。784-794長岡京時代も含む場合もある。

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。現在の首都は東京。

省 名 主な職掌
中務(なかつかさ)省 天皇の重要事務
式部(しきぶ)省 学校管理・文官人事
治部(じぶ)省 冠婚葬祭・外交
民部(みんぶ)省 民政
兵部(ひょうぶ)省 軍事・武官人事
刑部(ぎょうぶ)省 刑罰・訴訟
大蔵(おおくら)省 出納・宝物管理
宮内(くない)省 宮中庶務

八省(はっしょう)
 律令制において太政官に直属する八つの官庁の総称。八省の名称および担当業務は右のとおり。

藤原氏(ふじわらし・ふじわらうじ)
 特に古代に繁栄した氏族。氏祖は中臣鎌足(なかとみのかまたり)。奈良時代に南家(なんけ)・北家(ほっけ)・式家(しきけ)・京家(きょうけ)の四家に分かれ、南家、次いで式家が繁栄したが、平安時代になると北家が台頭、摂政・関白を独占し、いわゆる摂関政治を現出した。鎌倉時代に北家の嫡流である摂関家は五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)に分裂し、摂家将軍も輩出した。⇒藤原氏系図

藤原兼家(ふじわらのかねいえ)
 (929-990)公卿。摂政・関白・太政大臣。藤原師輔(もろすけ)の子。972長兄・伊尹(これただ・これまさ)没後、次兄・兼通(かねみち)と関白を争って敗れるが、977兼通没後に986花山(かざん)天皇を退位させ(寛和の変)、一条天皇の外祖父として摂政に就任、989太政大臣に、990関白となった。『蜻蛉(かけろう)日記』の作者・藤原道綱母(みちつなのはは)は妻の一人。安倍味5

藤原薬子(ふじわらのくすこ)
 (?-810) 女官。尚侍(しょうじ・ないしのかみ)。藤原種継(たねつぐ)の娘。藤原縄主(ただぬし)に嫁いで三男二女をもうけ、娘と共に皇太子時代の平城(へいぜい)天皇に近侍、一時桓武(かんむ)天皇に退けられるが、平城天皇即位後に再び接近、尚侍として後宮で権勢を誇るが、809平城天皇の譲位によって失墜、810兄・仲成(なかなり)とともに平城上皇をそそのかして反乱を企てるが、嵯峨(さが)天皇に察知されて失敗、平城京で自殺した(薬子の変)。
内乱味

藤原種継(ふじわらのたねつぐ)
 (737-785) 公卿。中納言。式家・宇合(うまかい)の孫。清成(きよなり)の子。桓武天皇の側近として活躍し、784造長岡宮使として長岡京造営を主導、785造営工事を指揮中に射殺された(藤原種継暗殺事件)。この事件で早良親王らが皇太子(皇太弟)を廃され、大伴家持(おおとものやかもち。当時すでに死亡)らが処罰された。怨念味

藤原仲成(ふじわらのなかなり)
 (764-810) 公卿。参議。式家・種継(たねつぐ)の子。薬子の兄。平城(へいぜい)天皇に信任されたが、809平城天皇譲位後に薬子らとその復位を謀って嵯峨(さが)天皇と対立、捕らえられ射殺された。平城味内乱味

藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)→恵美押勝(えみのおしかつ)
 (706-764) 公卿。大師(たいし。太政大臣)。南家の祖・武智麻呂(むちまろ)の子。聖武(しょうむ)天皇の大仏造立に協力し、光明皇后(こうみょうこうごう)に取り入って749紫微令(しびれい)・紫微内相(しびないしょう。内臣に相当)に就任、757橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の反乱を未然に防ぎ(橘奈良麻呂の変・乱)、758舎人親王(とねりしんのう)の王子・淳仁(じゅんにん)天皇を擁立、大師に昇って栄華を極めるが、764孝謙(こうけん)上皇のお気に入り・道鏡(どうきょう)の排除を図って近江で兵を挙げ、敗れて殺された(恵美押勝の乱)。
日朝味6

藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)
 (775-826) 公卿。左大臣。内麻呂(うちまろ)の子。母は百済永継(くだらのながつぐ・えいけい)。桓武天皇の皇子・良岑安世(よしみねのやすよ)は同母兄。嵯峨(さが)天皇に信頼され、810巨勢野足(こせののたり)とともに初代蔵人頭(くろうどのとう)に就任、娘・順子(じゅんし)を正良親王(まさよししんのう。後の仁明天皇)に嫁がせ、821大学別曹(だいがくべっそう)・勧学院(かんがくいん)を設立して子弟を教育、820法令集『弘仁格式(こうにんきゃくしき)』・勅撰儀式書『内裏式(だいりしき)』を編纂し、北家興隆の基礎を築いた。 

藤原道長(ふじわらのみちなが)
 (966-1027)公卿。摂政・太政大臣。藤原兼家(かねいえ)の子。995兄の道隆(みちたか)・道兼(みちかね)の死によって内覧となり、996長徳の変で政敵の藤原伊周(これちか)・隆家(たかいえ)兄弟を追放、左大臣に昇り、四人の娘(彰子・妍子・威子・嬉子)を四人の天皇(一条・三条・後一条・後朱雀)に嫁がせ、天皇の外戚として権力を掌握、1016摂政に、1017太政大臣に就任して摂関政治の最盛期を現出、1020法成寺(ほうじょうじ)を建て、日記『御堂関白記(みどうかんぱくき)』を残した。
満月味 テロ味2
安倍味5

藤原基経(ふじわらのもとつね)
 (836-891) 公卿。摂政・関白・太政大臣。藤原長良(ながら)の子。藤原良房(よしふさ)の養子。879正史『日本文徳天皇実録(にほんもんとくてんのうじつろく)』を完成、884陽成(ようぜい)天皇を廃して光孝(こうこう)天皇を擁立、887宇多(うだ)天皇によって臣下で初めて関白(かんぱく)に任じられたが、887-888阿衡(あこう)の紛議を起こして困らせた。スト味

藤原百川(ふじわらのももかわ)←藤原雄田麻呂(おだまろ)
 (732-779) 公卿。参議。式家・宇合(うまかい)の子。広嗣(ひろつぐ)・良継(よしつぐ)らの弟。種継(たねつぐ)の叔父。称徳(しょうとく)天皇の死後、藤原永手(ながて)らとともに光仁(こうにん)天皇を擁立、山部親王(やまべしんのう。後の桓武天皇)の立太子にも尽力した。ヤミ味 

藤原良房(ふじわらのよしふさ)
 (804-872) 公卿。摂政・太政大臣。藤原冬嗣(ふゆつぐ)の子。妻は嵯峨天皇皇女・源潔姫(みなもとのきよひめ)。842嵯峨天皇没後、承和(じょうわ)の変で恒貞親王を廃し、通康(みちやす)親王(文徳天皇)を擁立、伴健岑(とものこわみね)・橘逸勢(たちばなのはやなり)らを追放し、857臣下で初めて太政大臣に就任、866応天門(おうてんもん)の変で伴善男(とものよしお)・紀豊城(きのとよき)・紀夏井(なつい)を追放し、臣下初めて清和(せいわ)天皇の摂政(せっしょう)に就任、869正史『続日本後紀(しょくにほんこうき)』を完成させた。告発味

藤原頼通(ふじわらのよりみち)
 (992-1074)公卿。摂政・関白・太政大臣。藤原道長の子。1017父から摂政を譲られ、1019関白に就任、1053宇治に平等院鳳凰堂を建立し、1068政界から引退した。
総理味

文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)
 (765-823) 武将・公卿。征夷将軍。中納言。文室(三諸)大原の子。810薬子の変で初め平城(へいぜい)上皇につくが、嵯峨(さが)天皇に投降し、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の進言で参議になり、追討軍を率いて上皇の東国入りを阻止、811征夷将軍になって蝦夷平定を完了させた。

平安京(へいあんきょう)
 (794-1868) 平安〜江戸時代の日本の首都。平安時代の政治の中心地。京域は京都盆地北部(京都市)。東西約四・五キロ、南北約五・二キロ794桓武(かんむ)天皇が和気清麻呂(わけのきよまろ)の勧めで遷都。

平安時代(へいあんじだい)
 (794-1185頃) 平安京に都が置かれ、天皇や貴族が支配していた時代。794桓武(かんむ)天皇の平安遷都に始まり、初期は天皇家が、前中期は藤原氏が、後期は院政の主が、末期は平家が政権を担った。1185源頼朝(みなもとのよりとも)の守護・地頭設置(事実上の鎌倉幕府の創立)頃までをいう。

平城宮(へいじょうきゅう)
 奈良時代の宮城(大内裏・皇居+官庁街)。平城京の北端中央にあった都城の中心区画。内裏(皇居)・朝堂(議事堂)・諸官庁からなる。

平城京(へいじょうきょう)
 奈良時代の首都。京域は奈良盆地北部(奈良市・奈良県大和郡山市)。東西約四・三キロ。南北約四・八キロ。710元明(げんめい)天皇が遷都し、784桓武天皇の長岡京(ながおかきょう)遷都まで存続。

平城上皇(へいぜいじょうこう)←平城天皇←安殿親王(あてしんのう)
 (774-824) 伝五十一代天皇(在位806-809)。桓武(かんむ)天皇の皇子。嵯峨(さが)天皇・淳和(じゅん)天皇の兄。785父の皇太子になり、806父の死によって即位、観察使(かんさつし)を設置し、参議を廃して地方政治改革を行ったが、809病気のため神野親王(かみのしんのう。嵯峨天皇)に譲位、801藤原仲成(ふじわらのなかなり)・藤原薬子(くすこ)兄妹らの勧めで復位と平城京還都を画策して失敗し、仲成は射殺され、薬子は自殺、自身は出家した(薬子の変)。怨念味怨霊味
平城味内乱味

防衛省(ぼうえいしょう)←防衛庁(ぼうえいちょう)←保安庁(ほあんちょう)
 現代日本の省庁の一。国防・災害救助等を担当。1952警察予備隊と海上警備隊を統合して保安庁が発足、1954自衛隊発足により防衛庁に改組され、2007防衛省に昇格した。詐欺味1

北家(ほっけ)=藤原北家(ふじわらほっけ)
 藤原四家のうち、藤原不比等(ふひと)の次男・房前(ふささき)の子孫のこと。南家(長男・武智麻呂の子孫)・式家(三男・宇合の子孫)・京家(四男・麻呂の子孫)に対していう。良房(よしふさ)・基経(もとつね)・道長(みちなが)・頼通(よりみち)らを輩出し、四家中最も繁栄した。

室町幕府(むろまちばくふ)=足利(あしかが)幕府
 (1336?-1573) 室町時代の武家政権。1336足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐(ごだいご)天皇の建武(けんむ)政権を倒し、1338征夷大将軍に就任して創始。足利氏が代々将軍に就任し、管領(かんれい)がこれを補佐した。幕府名は三代将軍・足利義満の京都室町邸(花の御所)にちなむ。1467-1477応仁の乱後に弱体化し、1573十五代将軍・足利義昭(よしあき)が織田信長に追放されて滅びた。

明治維新(めいじいしん)
 江戸幕府による封建体制から、明治新政府による近代国家形成の契機になった一連の政治的・社会的改革。ペリー来航による開国から、大政奉還・王政復古の大号令・戊辰(ぼしん)戦争・五箇条の御誓文・東京遷都・版籍奉還・廃藩置県・徴兵令・四民平等・秩禄(ちつろく)処分・地租改正・郵便制度創設・鉄道開通・殖産興業・文明開化・新貨条例などを経て、西南戦争までをいうことが多い。

六国史(りっこくし)
 奈良〜平安時代にかけて編修された正史のこと。以下六つ。

書名
(よみかた)
成立年 巻数 (編修命令者)
編集者
編集範囲
日本書紀
(にほんしょき)
養老四年
720
30+1 (天武天皇・元明天皇ら)
舎人親王・紀清人・三宅藤麻呂ら
神代〜持統
(-697)
続日本紀
(しょくにほんぎ)
延暦十六年
797
40 (桓武天皇)
菅野真道・藤原継縄
・秋篠安人・中科巨都雄ら
文武〜桓武
(697-791)
日本後紀
(にほんこうき)
承和七年
840
40 (嵯峨天皇・淳和天皇・仁明天皇)
藤原緒嗣・藤原冬嗣・藤原貞嗣
・良岑安世・清原夏野・藤原良房ら
桓武〜淳和
(792-833)
続日本後紀
(しょくにほんこうき)
貞観十一年
869
20 (文徳天皇)
藤原良房・春澄善縄
・伴善男・安野豊道ら
仁 明
(833-850)
日本文徳天皇実録
(にほんもんとくてんのうじつろく)
元慶三年
879
10 (清和天皇・陽成天皇)
藤原基経・南淵年名・菅原是善
・大江音人・善淵愛成・都良香
・島田良臣ら
文 徳
(850-858)
日本三代実録
(にほんさんだいじつろく)
延喜元年
901
50 (宇多天皇・醍醐天皇)
源能有・菅原道真・藤原時平
・大蔵善行・三統理平ら
清和〜光孝
(858-887)

律令(りつりょう)
 古代の法律。律は刑法、令は行政法・民法のこと。
 律は刑罰を規定し、天武(てんむ)天皇の飛鳥浄御原律(あすかきよみはらのりつ)に始まり、701大宝(たいほう)律、718養老(ようろう)律で整備された(ただし、飛鳥浄御原律の存在には疑問がある)。
 令はその他の重要事を規定し、天智(てんじ・てんち)天皇の668近江令(おうみりょう)に始まり、701大宝令、718養老令で整備された(ただし、近江令の完成・施行には疑問がある)。

令外官(りょうげのかん)
 奈良〜平安時代に新設された律令に規定されていない役所や役職。摂政・関白・内大臣・中納言・参議・蔵人・中衛府・検非違使など。

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