50.女帝味 基礎用語集

右大臣(うだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣・左大臣欠員時の最高官。左大臣とともに国政を統括した。645大化の改新で蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)が任じられたのが最初。

宇多天皇(うだてんのう)・法皇(ほうおう)←源定省(みなもとのさだみ)
 (867-931) 伝五十九代天皇(在位887-897)。光孝(こうこう)天皇皇子。884臣籍降下されるが、887父の死後に即位、887-888阿衡(あこう)の紛議で関白・藤原基経(ふじわらのもとつね)と対立するが、891基経死後に寛平(かんぴょう)の治を断行、菅原道真(すがわらのみちざね)を登用し、摂関家を抑制、長子・醍醐(だいご)天皇に譲位し、『寛平御遺誡(かんぴうのごゆいかい)』を残した。スト味

右翼(うよく)
 保守的または国粋的な思想を持つ人々。国家社会主義・天皇主義・農本主義など。昭和前期、軍部と結んで力をもった。

大伴家持(おおとものやかもち)
 (718?-785)公卿。歌人。中納言。三十六歌仙の一。大伴旅人(たびと)の子。内舎人(うどねり)として聖武(しょうむ)天皇に仕え、越中守(えっちゅうのかみ)・薩摩守(さつまのかみ)・衛門督(えもんのかみ)等を経て、780参議に就任、782氷上川継(ひかみのかわつぐ)の変に関係して解任されるが、783中納言(ちゅうなごん)に昇り、『万葉集』を編集したと思われるが、785藤原種継(たねつぐ)暗殺事件に関わった罪で死後に処罰された。怨念味1

鑑真(がんじん)
 (688?-763) 唐(とう)出身の僧。日本律宗(りっしゅう)の祖。唐で菩薩戒(ぼさつかい)と具足戒(ぐそくかい)を極め、江淮(こうわい)の化主と仰がれるが、栄叡(ようえい・えいえい)・普照(ふしょう)に請われて日本渡航を決意、五度の失敗と失明にもめげず、753六度目に来日、754東大寺に戒壇を設置し、聖武上皇・光明皇太后・孝謙(こうけん)天皇らに授戒、755戒壇院を建立し、756大僧都(だいそうず)に就任、759唐招提寺(とうしょうだいじ)を創建した。
呪い味 女帝味

桓武天皇(かんむてんのう)←山部(やまべ)親王←山部王
 (737-806) 伝五十代天皇(在位781-806)。光仁(こうにん)天皇の皇子。781父の譲位によって即位し、784長岡京(ながおかきょう)へ遷都するが、785造長岡宮使(ぞうながおかぐうし)・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の暗殺で挫折(ざせつ)、792健児(こんでい)の制を制定し、794和気清麻呂(わけのきよまろ)の勧めで平安京へ遷都、勘解由使(かげゆし)を置き、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍として蝦夷を征伐、藤原継縄(つぐただ)・菅野真道(すがののまみち)らに正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』を編集させた。怨念味 怨霊味 ヤミ味

吉備真備(きびのまきび)←下道(しもつみち)真備
 (693?-775) 学者。公卿。右大臣。717-735唐に留学し、皇太子・阿倍内親王(孝謙・称徳天皇)の侍講を務めたが、藤原仲麻呂の圧力で一時左遷、764恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で軍師として活躍し、右大臣に昇進、称徳(孝謙)天皇没後、文室浄三(ふんやのきよみ)・大市(おおいち)兄弟の擁立を図るが、失敗して引退した。

公卿(くぎょう)
 公(太政大臣・左右大臣)と卿(大中納言・参議・その他三位以上の者)のこと。現在でいう閣僚に相当。

恭仁京(くにきょう)≧恭仁宮(くにのみや)
 奈良時代の一時期の首都。京域は京都盆地南部(京都府木津川市)。740聖武(しょうむ)天皇が平城京から遷都するか、743紫香楽宮(しがらきのみや)造営によって工事は中断、744難波宮(なにわのみや)に遷都された。

玄ム(げんぼう)
 (?-746) 法相宗の僧。僧正。717-735唐に留学、737僧正に就き、皇太夫人・藤原宮子(ふじわらのみやこ)の病気を治癒、橘諸兄(たちばなのもろえ)の政治顧問となって国分寺建立・大仏造営に深く関与するが、藤原仲麻呂(なかまろ)に圧迫されて大宰府の観世音寺(かんぜおんじ)に左遷、配所にて怪死した。
 暴発味2

小泉純一郎(こいずみじゅんいちろう)
 (1942-) 政治家。首相(在職2001-)。福田赳夫(ふくだたけお)の秘書を経て1972衆院議員に当選、厚相・郵政相などを経て、2001自民党総裁として首相に就任、「聖域なき構造改革」を掲げ、派閥解消に尽力、2002北朝鮮の金正日(キムジョンイル)総書記と日朝平壌宣言(にっちょうピョンヤンせんげん)を発表し、2005道路公団を民営化、2007の郵政民営化を決定した。不況味

称徳天皇(しょうとくてんのう)←孝謙(こうけん)上皇←孝謙天皇←阿倍内親王(あべないしんのう)
 (718-770) 第四十六・四十八代天皇(在位749-758,764-770)。聖武天皇皇女。母は藤原光明子(こうみょうし。光明皇后)。738日本初の女性皇太子になり、749即位し752東大寺大仏開眼法要を開催、758淳仁天皇に譲位するが、不和になって実権を奪還、764恵美押勝(えみのおしかつ。藤原仲麻呂)の乱を鎮圧し、天皇に重祚(ちょうそ)、西大寺を建立し、百万塔(ひゃくまんとう)を製作、寵愛(ちょうあい)する道鏡(どうきょう)を大臣禅師、765太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)、766法王(ほうおう)とし、769皇位まで譲ろうとしたが、和気清麻呂(わけのきよまろ)に阻まれ、皇嗣を定めずに没した。印度味 日朝味 意地味 奈良味
女帝味

皇后(こうごう)←大后(たいごう)
 天皇の正妻。天武天皇の頃(皇后は後の持統天皇)の頃に称号が定着。一条天皇から二后並立制(皇后・中宮)がとられた。

皇太子(こうたいし)=東宮(とうぐう)=春宮(とうぐう)←太子
 皇位を継ぐ予定の唯一の皇子(または王子・皇女・王女)。次期天皇。皇孫の場合は皇太孫、弟が皇太子の場合は皇太弟とも呼んだ。七世紀頃に成立?

後白河天皇(ごしらかわてんのう)・後白河上皇(じょうこう)・後白河法皇(ほうおう)
 (1127-1192) 伝七十七代天皇(在位1155-1158。院政1158-1179,1181-1192)。名は雅仁(まさひと)。鳥羽(とば)天皇の皇子。母は待賢門院(たいけんもんいん)。1155弟・近衛(このえ)天皇没後に父に推されて即位するが、兄・崇徳(すとく)上皇と対立、1156父の死後の保元(ほうげん)の乱で兄を破って配流し、1158皇子・二条(にじょう)天皇に譲位して院政を開始、1159平治(へいじ)の乱を経て平清盛(たいらのきよもり)と対立、1179幽閉されて院政を止めさせられるが、1181清盛没後に院政を再開、源義仲(みなもとのよしなか)、次いで源頼朝(よりとも)と結んで平氏を倒させ、歌謡集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を編集、「年中行事絵巻」を作らせた。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)←尊治親王(たかはるしんのう)
 (1288-1339) 伝九十六代天皇(在位1318-1339) 後宇多(ごうだ)天皇の皇子。鎌倉幕府倒幕を目指して1324正中(しょうちゅう)の変・1331元弘(げんこう)の変を起こすも事前に発覚、山城笠置山(かさぎやま)で挙兵するが逮捕され、隠岐へ流されるが脱出、名和長年(なわながとし)に迎えられて船上山で挙兵し、楠木正成(くすのきまさしげ)・赤松則村(あかまつのりむら)らの奮戦や、足利尊氏(あしかがたかうじ)・新田義貞(にったよしさだ)らの裏切りによって1333倒幕に成功、建武(けんむ)の新政(中興)を行い、記録所(きろくじょ)・雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)・恩賞方(おんしょうがた)・武者所(むしゃどころ)・鎌倉将軍府・陸奥将軍府などを設置、延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の治を目指して天皇親政を行おうとするが、1335中先代(なかせんだい)の乱を機に尊氏らが離反、1336湊川(みなとがわ)の戦いで正成が敗死し、義貞が敗走すると、大和吉野(よしの)へ逃れて南朝を樹立、以後没するまで尊氏の擁立した北朝と対立抗戦した。 窮地味

後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)←後鳥羽天皇←尊成(たかなり・たかひら)
 (1180-1239) 伝八十二代天皇(在位1183-1198。院政1198-1221)。高倉(たかくら)天皇の皇子。 1183平氏の都落ち後に即位し、1198土御門(つちみかど)天皇に譲位して院政を開始、1201和歌所(わかどころ)を設置して藤原定家(ふじわらのていか・さだいえ)・藤原家隆(かりゅう・いえたか)らに『新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)』を編集させ、自身でも有職故実(ゆうそくこじつ)書『世俗浅深秘抄(せぞくせんしんひしょう)』などを著述、実力者・源通親(みなもとのみちちか)没後は朝廷の実権を掌握し、西面(さいめん)の武士を設置して幕府と対立、1221三代執権・北条義時(ほうじょうよしとき)追討の命令を発して幕府打倒を目指したが、返り討ちにあって隠岐へ島流しにされた(承久の乱)。
将軍味4 栄光味

左大臣(さだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣欠員時の最高官。国政を統括した。645大化の改新で阿倍内麻呂(あべのうちまろ)が任じられたのが最初。 

四鏡(しきょう)
 鏡の名を持つ歴史物語の総称。以下四つ。

書名 成立年代 巻数 著 者 収録範囲
 大 鏡  平安後期 平安中期(文徳〜後一条)
 今 鏡  平安末期 10 平安後期(後一条〜高倉)
 水 鏡  鎌倉初期 3 中山忠親? 大和〜平安前期(神武〜仁明)
 増 鏡  南北朝時代 17 二条良基? 鎌倉時代(後鳥羽〜後醍醐)

持統天皇(じとうてんのう)
 (645-702)第四十一代天皇(在位690-697)。天智(てんち・てんじ)天皇の皇女。天武(てんむ)天皇の皇后。686夫の死後、継子・大津(おおつ)皇子を粛清し、689実子・草壁(くさかべ)皇子没後690に即位、庚寅年籍(こういんねんじゃく)を作成し、694藤原京に遷都、薬師寺(やくしじ)を完成させ、697皇孫・文武(もんむ)天皇に譲位、701大宝律令(たいほうりつりょう)完成を見届けた。

聖徳太子(しょうとくたいし)・厩戸皇子(うまやどのおうじ・うまやどのみこ)
 (574-622) 摂政(在任593-622)。587蘇我馬子(そがのうまこ)とともに物部守屋(もののべのもりや)を討ち、594仏教興隆の詔を発表、593推古(すいこ)天皇の摂政となり、難波(なにわ)に四天王寺(してんのうじ)を建立、603冠位十二階を・604憲法十七条を定め、607小野妹子(おののいもこ)ら遣隋使(けんずいし)を派遣、斑鳩(いかるが)に法隆寺(ほうりゅうじ)を建て、611注釈書『勝鬘経義疏(しょうまんきょうぎしょ)』・614『維摩(ゆいま)経義疏』・615『法華(ほっけ)経義疏』・620史書『天皇記』・『国記』を編集した。
日朝味4 憲法味

聖武天皇(しょうむてんのう)←首皇子(おびとおうじ・おびとのみこ)
 (701-756)首(おびと)皇子とも。第四十五代天皇(在位724-749)。文武(もんむ)天皇の第一皇子。母は藤原不比等(ふひと)の娘・宮子(みやこ)。姉・元正(げんしょう)天皇から皇位を譲られ、741国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)建立の詔を、743大仏造立(だいぶつぞうりゅう)の詔を発布、総国分寺・東大寺(とうだいじ)を完成させるなど鎮護国家(ちんごこっか)政策を推進、740藤原広嗣(ひろつぐ)の乱を避けるように、恭仁京(くにきょう)・744紫香楽宮(しがらきのみや)・難波宮(なにわのみや)と都を遷した。
暴発味 

神道(しんとう)
 日本に古来から伝わる民族信仰。古墳時代の氏神(うじがみ)崇拝に始まり、平安時代に神社制度が整備され、鎌倉時代には伊勢(いせ)神道、室町時代には唯一(ゆいいつ)神道、江戸時代には垂加(すいか)神道といった理論も生まれた。

摂政(せっしょう)
 天皇に代わって国政を執政する者。初めての摂政は『日本書紀』によれば、神功皇后とされるが、明らかではない。皇族の摂政は推古朝の聖徳太子(しょうとくたいし)が知られ、斉明朝の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や天武朝の草壁皇子(くさかべのおうじ)も摂政の職を執り行ったという。臣下で初めての摂政は、清和朝の藤原良房(ふじわらのよしふさ)。

大納言(だいなごん)
 太政官(だいじょうかん・だじょうかん)で左右大臣に次ぐ官職。大臣とともに政務を執った。定員は四人。705その下に中納言が置かれた。

太政大臣(だじょうだいじん・だいじょうだいじん)
 律令制における最高責任者。太政官の最高官。常置ではなく、適任者がいなければ欠員。671大友(おおとも)皇子が任じられたのが最初。臣下初の太政大臣は857藤原良房(ふじわらのよしふさ)。

天智天皇(てんちてんのう・てんじてんのう)・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
 (626-671)伝三十八代天皇(在位668-671)。舒明(じょめい)天皇の第一皇子。母は皇極(こうぎょく)・斉明(さいめい)天皇。中臣(藤原)鎌足とともに645蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼし、大化の改新を断行、663白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦で唐・新羅に大敗した後、667近江大津宮(おうみのおおつのみや)に遷都し、668近江令(おうみりょう)を編集、670庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成した。 ウソ味 日朝味5

天皇(てんのう)
 古代〜現代に至る日本の国王。もとはヤマト政権の大王。七世紀から天皇に移行。初代天皇(大王)は神武(じんむ)天皇?今上天皇は伝百二十五代。大日本帝国憲法では大日本帝国の元首、日本国憲法では国民統合の象徴。
女帝味 天皇味 ⇒天皇家系図

天武天皇(てんむてんのう)←大海人皇子(おおあまのおうじ)
 (631?-686)第四十代天皇(在位673〜686)。舒明天皇の皇子。天智天皇の弟。672壬申(じんしん)の乱で大友皇子(おおとものおうじ)を破り、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位、684八色(やくさ)の姓(かばね)を制定し、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を編集させた。

(とう)
 (618-907) 古代中国の王朝。李淵(りえん)が創始。首都は長安(ちょうあん)。律令制・均田制を確立し、高句麗(こうくり)を滅ぼして繁栄を極めるが、八世紀半ば以後衰退、907朱全忠(しゅぜんちゅう)に滅ぼされた。

道鏡(どうきょう)
 (?-772) 法相宗(ほっそうしゅう)僧。俗姓は弓削(ゆげ)氏。義淵(ぎえん)・良弁(ろうべん)の弟子になり、孝謙上皇(こうけんじょうこう。称徳天皇)の病気を治して信任され、763少僧都(しょうそうず)・764大臣禅師・765太政大臣禅師と昇進、西大寺(さいだいじ)を建立し、766法王(ほうおう)に就任、769宇佐八幡宮の神託を利用して皇位をねらったが、和気清麻呂(わけのきよまろ)に阻まれ、称徳(しょうとく)天皇没後に失脚した。女帝味

唐招提寺(とうしょうだいじ)
 奈良市所在。律宗総本山。南都七大寺の一つに加えられることもある。759鑑真(がんじん)が新田部親王(にいたべしんのう)旧邸に律宗の根本道場として創建、鎌倉時代に貞慶(じょうけい)・覚盛(かくじょう)らが復興した。金堂は奈良時代の金堂唯一の遺構で、講堂は平城宮朝集殿(ちょうしゅうでん)を移築したもので、平城宮唯一の遺構。鑑真和上像などを蔵する。

東大寺(とうだいじ)・金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)・総国分寺(そうこくぶんじ)・大華厳寺(だいけごんじ)
 奈良市所在。華厳宗総本山。南都七大寺の一。前身は金鐘寺(こんしゅじ)。745聖武(しょうむ)天皇が盧舎那仏(るしゃななぶつ)造立のため、市原王(いちはらおう)・佐伯今毛人(さえきのいまえみし)らに命じて創建し、752本尊の盧舎那仏の開眼法要を行った。1180平重衡(たいらのしげひら)に焼かれたが、鎌倉時代に重源(ちょうげん)らが復興、1567松永久秀(まつながひさひで)に焼かれたが、江戸時代に再び復興された。

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。

藤原氏(ふじわらし・ふじわらうじ)
 特に古代に繁栄した氏族。氏祖は中臣鎌足(なかとみのかまたり)。奈良時代に南家(なんけ)・北家(ほっけ)・式家(しきけ)・京家(きょうけ)の四家に分かれ、南家、次いで式家が繁栄したが、平安時代になると北家が台頭、摂政・関白を独占し、いわゆる摂関政治を現出した。鎌倉時代には五摂家(近衛・九条・二条・一条・鷹司)に分裂し、摂家将軍も輩出した。

藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)→恵美押勝(えみのおしかつ)
 (706-764) 公卿。大師(たいし。太政大臣)。南家の祖・武智麻呂(むちまろ)の子。聖武(しょうむ)天皇の大仏造立に協力し、光明皇后(こうみょうこうごう)に取り入って749紫微令(しびれい)・紫微内相(しびないしょう。内臣に相当)に就任、757橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の反乱を未然に防ぎ(橘奈良麻呂の変・乱)、758舎人親王(とねりしんのう)の王子・淳仁(じゅんにん)天皇を擁立、大師に昇って栄華を極めるが、764孝謙(こうけん)上皇のお気に入り・道鏡(どうきょう)の排除を図って近江で兵を挙げ、敗れて殺された(恵美押勝の乱)。
日朝味6

仏教(ぶっきょう)
 釈迦(しゃか)を開祖とする宗教。日本には欽明(きんめい)天皇の時代に百済の国王・聖明王(せいめいおう)によってもたらされた。年代については552説(『日本書紀』による)と538説(『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』『元興寺縁起(がんごうじえんぎ)』による)がある。これを「仏教公伝」とするが、これ以前にも渡来人・司馬達等(しばたっと)が自宅で仏像を礼拝していたという(仏教私伝)。以後、従来からあった神道(しんとう)と並んでわが国に浸透し、現在にいたっている。

平城京(へいじょうきょう)
 奈良時代の首都。京域は奈良盆地北部。東西約4.3q。南北約4.8q。710元明(げんめい)天皇が遷都し、784桓武天皇の長岡京(ながおかきょう)遷都まで存続。

法王≦法皇(ほうおう)
 766称徳(しょうとく)天皇が道鏡(どうきょう)に授けた称号(法王)または上皇が出家した際の称(法皇・法王)。前者は770称徳天皇没後、道鏡の失脚により廃絶。後者の最初は899出家した宇多法皇。また、聖徳太子も法王と呼ばれた。

法相宗(ほっそうしゅう)・唯識宗(ゆいしきしゅう)
 万物の諸相を明らかにしようとする仏教の宗派。南都(なんと)六宗の一。玄奘(げんじょう。三蔵法師)の弟子・基(き。慈恩大師)が確立し、日本には七〜八世紀に道昭(どうしょう)・智通(ちつう)・智鳳(ちほう)・玄ム(げんぼう)らが将来、元興寺(がんこうじ)と興福寺に伝えられた。現在の本山は興福寺(こうふくじ)と薬師寺(やくしじ)。 

明治天皇(めいじてんのう)←睦仁親王(むつひとしんのう)
 (1852-1912) 伝百二十二代天皇(在位1867-1912)。孝明(こうめい)天皇の皇子。1867徳川慶喜(とくがわよしのぶ)の大政奉還を受けて王政復古の大号令を行い、1868五箇条の御誓文を発布、1869東京へ遷都し、1870大教宣布(だいきょうせんぷ)の詔(みことのり)・1881国会開設の勅諭(ちょくゆ)・1889大日本帝国憲法・1890教育勅語(きょういくちょくご)などを発布、日清・日露戦争の勝利し、日本の近代化を見届けた。

物部氏(もののべし・もののべうじ)
 古代の大豪族。氏祖は饒速日命(にぎはやひのみこと)という。河内国渋川郡(しぶかわぐん)付近を本拠とした。大和政権で重きをなし、次々と大連(おおむらじ)を輩出、軍事を担当したが、587守屋(もりや)が蘇我馬子(そがのうまこ)に滅ぼされて衰退した。

盧舎那仏(るしゃなぶつ)・毘盧舎那仏(びるしゃなぶつ)・大仏(だいぶつ)
 蓮華蔵(れんげぞう)世界に住み、全宇宙を照らす仏。東大寺の盧舎那仏像は743聖武(しょうむ)天皇が紫香楽宮(しがらきのみや)で造立を発願し、行基(ぎょうき)を勧進に任命するが一時中断、747平城京で再開し、造仏長官・国中公麻呂(くになかのきみまろ)らが造立、752菩提僊那(ぼだいせんな)を開眼師に任じて開眼法要を行った。1180平重衡(たいらのしげひら)に、1567松永久秀(まつながひさひで)に焼かれたが、足や台座などは創建当初のもの。

和気清麻呂(わけのきよまろ)・別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)
 (733-799) 官人・公卿。姉・和気広虫(ひろむし。法均尼)とともに孝謙(こうけん。称徳)天皇に仕え、764恵美押勝(えみのおしかつ)の乱で活躍、769道鏡皇位事件(宇佐八幡宮神託事件)で法王・道鏡(どうきょう)の即位を阻止するが、大隅へ流刑にされ、771赦免、摂津大夫(せっつのだいぶ)・民部大輔(みんぶのたいふ)・中宮大夫(ちゅうぐうのだいぶ)を兼ね、長岡京(ながおかきょう)造営に尽力、桓武(かんむ)天皇に平安京遷都を進言し、その造宮にも携わった。女帝味

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