17.暴発味 基礎用語集 | ||||||||||||||
●天草四郎(あまくさしろう)=益田時貞(ますだときさだ)
(1623?-1638) キリシタンの少年。小西幸長(こにしゆきなが)の遺臣・益田好次(よしつぐ。甚兵衛)の子。1637キリストの生まれ変わりとして島原(しまばら)の乱の総大将に担がれ、肥後天草の富岡城を攻撃、肥前有馬(ありま)の原城跡にこもって抗戦するが、1638幕府軍の総攻撃によって二万八千(三万八千とも)の同士とともに討死した。
●伊勢神宮(いせじんぐう)=神宮=大神宮=皇大神宮(こうだいじんぐう。内宮)+豊受大神宮(とようけだいじんぐう・とゆけだいじんぐう。外宮)
三重県伊勢市所在。皇室の祖神。祭神は内宮は太陽神・天照大神(あまてらすおおみかみ)、外宮は穀物神・豊受大神(とようけのおおかみ・とゆけのおおかみ。豊受姫神・豊宇気毘売神)。建築様式は神明造。創立は内宮は垂仁(すいにん)天皇代、外宮は雄略(ゆうりゃく)天皇代とされ、室町時代以降に庶民の参詣も流行、明治時代には国家神道の中心になった。
●江藤新平(えとうしんぺい)
(1834-1874) 政治家。司法卿(しほうきょう)。参議。肥前佐賀藩士。尊攘(そんじょう)運動に奔走し、東京遷都を提唱、1872司法卿として司法制度を整備し、1873参議になるが、征韓論争に敗れて下野(明治六年の政変)、1874板垣退助らとともに民選議院設立を建白するが、佐賀の乱を起こして敗死した。
●韓国(かんこく)=大韓民国(だいかんみんこく)←大韓帝国(だいかんていこく)
(1897-1910,1948-) アジアの朝鮮半島南部にある国。李氏朝鮮王朝二十六代・高宗(こうそう)が国号を大韓帝国と改めるが、1910韓国併合条約によって日本の植民地になり(日韓併合)、1945-1948アメリカの占領を経て、1948大韓民国として独立した。首都はソウル
●畿内(五畿)・七道(きない(ごき)・しちどう)
古代の行政区分。首都を起点にした(西海道は大宰府が起点)主要幹線道路が通っていた。以下の七つ。所属国・国数・郡数は平安中期のもの。
区分(よびかた) | 所属国(島) | 国・郡数 |
畿内(きない) | 山城・大和・河内・摂津・和泉 | 5・53 |
東海道 (とうかいどう) |
伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・甲斐 ・伊豆・相模・武蔵・安房・上総・下総・常陸 |
15・128 |
東山道 (とうさんどう) |
近江・美濃・飛騨・信濃・上野・下野・陸奥・出羽 | 8・112 |
北陸道 (ほくりくどう) |
若狭・越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡 | 7・31 |
山陽道 (さんようどう) |
播磨・備前・美作・備中・備後・安芸・周防・長門 | 8・69 |
山陰道 (さんいんどう) |
丹波・丹後・但馬・因幡・伯耆・出雲・石見・隠岐 | 8・52 |
南海道 (なんかいどう) |
紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐 | 6・50 |
西海道 (さいかいどう) |
筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向 ・大隅・薩摩・壱岐・対馬・(多褹・掖玖) |
11・96 |
●吉備真備(きびのまきび)←下道真備(しもつみちのまきび)
(693?-775) 学者。公卿。右大臣。下道圀勝(くにかつ)の子。717-735唐に留学、玄ム(げんぼう)とともに橘諸兄(たちばなのもろえ)の政治顧問となり、皇太子・阿倍内親王(孝謙・称徳天皇)の侍講を担当するが、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)の圧力で一時左遷、怡土城を築城するが、764恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で軍師に抜擢されて活躍し、右大臣に昇進、称徳(孝謙)天皇没後、文室智努(ふんやのちぬ。浄三)・大市(おおいち)兄弟の擁立を図るが、失敗して引退した。
●公卿(くぎょう)
公(太政大臣・左右大臣)と卿(大中納言・参議・その他三位以上の者)のこと。現在でいう閣僚に相当。
●恭仁京(くにきょう)≧恭仁宮(くにのみや)
奈良時代の一時期の首都。京域は京都盆地南部(京都府加茂町ほか)。740聖武(しょうむ)天皇が平城京から遷都するか、743紫香楽宮(しがらきのみや)造営によって工事は中断、744難波宮(なにわのみや)に遷都された。
●源平盛衰記(げんぺいじょうすいき・せいすいき)
鎌倉〜南北朝時代の軍記物語。四十八巻。編者は不明だが、葉室時長(はむろときなが)説・玄慧(げんえ)説等がある。『平家(へいけ)物語』の異本とされているが、独自の逸話も少なくない。
●玄ム(げんぼう)
(?-746) 法相宗の僧。僧正。717-735唐に留学、737僧正に就き、皇太夫人・藤原宮子(ふじわらのみやこ)の病気を治癒、橘諸兄(たちばなのもろえ)の政治顧問となって国分寺建立・大仏造営に深く関与するが、藤原仲麻呂(なかまろ)に圧迫されて大宰府の観世音寺(かんぜおんじ)に左遷、配所にて怪死した。
●興福寺(こうふくじ)
奈良県奈良市所在。法相宗(ほっそうしゅう)大本山。藤原氏の氏寺。藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が建立した山階(やましな)寺をその子・不比等(ふひと)が奈良に移したもの。平安時代以降は北嶺(延暦寺)と並んで日本の仏教教学の中心となり、中世には大和国守護を兼ねた。
●光明皇后(こうみょうこうごう)=藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)→光明皇太后(こうみょうこうたいごう)
(701-760)聖武(しょうむ)天皇皇后。皇太后。藤原不比等(ふひと)の三女。母は県犬養橘三千代(あがたのいぬかいのたちばなのみちよ)。729長屋王(ながやおう)の変後に臣下で初めて皇后となり、悲田院(ひでんいん)・施薬院(せやくいん)を設置、聖武天皇の仏教政策に協力し、749夫の没後、遺品を正倉院(しょうそういん。正倉院宝物の始まり)に納め、娘の孝謙(こうけん)天皇を後見して実権を掌握、皇后宮職(こうごうぐうしき)を紫微中台(しびちゅうだい)に改組し、藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)をその長官とした。
●五刑(ごけい)=五罪(ござい)
律で定められた五つの刑。以下の五種。
刑名 |
内容 | 詳細 |
笞(ち) | 細い棒での尻たたき | 10・20・30・40・50回の五種 |
杖(じょう) | 太い棒での尻たたき | 60・70・80・90・100回の五種 |
徒(ず) | 懲役 | 1・1.5・2・2.5・3年の五種 |
流(る) | 島流し | 近国・中国・遠国への三種 |
死(し) | 死刑 | 絞首・斬首の二種 |
●今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)
平安時代の説話集。三十一巻(三巻散在)。現存千四十話。編集者は不明だが、源隆国(みなもとのたかくに)とも伝えられている。大正時代の文豪・芥川竜之介(あくたがわりゅうのすけ)が考証し、『鼻』『芋粥(いもがゆ)』などを著した。
●西郷隆盛(さいごうたかもり)
(1827-1877) 軍人・政治家。参議。薩摩鹿児島藩士。島津斉彬(しまづなりあきら)に仕え、将軍継嗣問題で暗躍するが、1858安政の大獄が起こると奄美大島(あまみおおしま)に潜伏、島津久光(ひさみつ)によって徳之島(とくのしま)等に流刑にされたが召還され、1864禁門の変では薩摩藩参謀として長州藩を破り、第一次長州征討(征伐・戦争)を収拾、1866坂本竜馬(さかもとりょうま)の調停で桂小五郎(かつらこごろう。後の木戸孝允)と薩長連合(さっちょうれんごう。薩長同盟)を締結、1867岩倉具視(いわくらともみ)・大久保利通(おおくぼとしみち)と結んで倒幕の密勅降下を画策し、王政復古の実現に協力、1868-1869戊辰(ぼしん)戦争で参謀を務め、江戸開城を実現、1869版籍奉還(はんせきほうかん)に備え、山県有朋(やまがたありとも)と御親兵(ごしんぺい。後の近衛師団)を組織、1870参議になり、1871廃藩置県に尽力したが、1873征韓論争で敗れて下野(明治六年の政変)、1877西南戦争を起こして敗死した。
●佐賀(さが)の乱
佐賀の士族に担がれた江藤新平(えとうしんぺい)・島義勇(しまよしたけ)らと明治政府の戦争。最初の不平士族の反乱。1874佐賀の不平士族は征韓党(せいかんとう)の長に江藤を、憂国(ゆうこく)党の長に島を担ぎ、約一万二千人で佐賀県庁を襲撃、佐賀城を攻略したが、政府軍に奪還され、鎮圧された。江藤・島らは逃れたが逮捕、十一名が処刑された。
●参議(さんぎ)
朝廷の閣僚。令下官(りょうげのかん)の一つ。太政官で大臣・納言(なごん)に次き、公卿会議に参加。現代でいう国相。702大伴安麻呂(おおとものやすまろ)・粟田真人(あわたのまひと)・高向麻呂(たかむこのまろ)・下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)・小野毛野(おののけの)の五人に「朝政を参議」させたのが初め。731正式設置。
●紫香楽宮(しがらきのみや)=信楽宮(しがらきのみや)=甲賀宮(こうがのみや)≦紫香楽京(しがらききょう)=信楽京=甲賀京
奈良時代の一時期の首都。現在の滋賀県甲賀市。742聖武(しょうむ)天皇が離宮を造営してちょくちょく訪れ、743この地で大仏造立を発願、744難波から元正(げんしょう)上皇を迎えて実質的な首都になるが、745平城京へ還都した。
●島原(しまばら)の乱
(1637-1638) 九州で起こった史上最大の農民一揆。1637肥前島原藩主・松倉勝家(まつくらかついえ)と肥前唐津(からつ)藩主(肥後天草領主)・寺沢広高(てらさわひろたか)の圧政に耐えかねたキリシタン農民二万八千人(三万八千とも)が決起、牢人の子・天草四郎(あまくさしろう)を担いで原城(はらじょう)跡に籠城(ろうじょう)し、1638幕府軍の板倉重昌(いたくらしげまさ)を戦死させるが、次いで攻め寄せた老中(ろうじゅう)・松平信綱(まつだいらのぶつな)に敗れ、絵師一人を除いて皆殺しにされた。乱後、信綱は増転封されて幕閣で力を持ち、勝家は改易(後に死刑)、広高は天草領を没収された。
●聖武天皇(しょうむてんのう)→聖武上皇
(701-756)伝四十五代天皇(在位724-749)。文武(もんむ)天皇の皇子。母は藤原不比等(ふひと)の娘・宮子(みやこ)。伯母・元正(げんしょう)天皇から皇位を譲られ、727基王を立太子させるが翌年没したため、738阿倍内親王(後の孝謙・称徳天皇)を皇太子に立て、741国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)建立の詔を、743大仏造立(だいぶつぞうりゅう)の詔を発布、総国分寺・東大寺(とうだいじ)を完成させるなど鎮護国家(ちんごこっか)政策を推進、740藤原広嗣(ひろつぐ)の乱を避けるように、恭仁京(くにきょう)・744紫香楽宮(しがらきのみや)・難波宮(なにわのみや)と都を遷し、754譲位、754鑑真(がんじん)から菩薩戒を受けた。
●新羅(しらぎ・しんら)
(前57?-935) 古代朝鮮三国の一つ。四世紀前半に辰韓(しんかん)十二国を統一、唐と連合して西の百済(くだら)と北の高句麗(こうくり)を滅ぼし、684朝鮮半島を統一するが、935高麗(こうらい)によって滅亡した。
●壬申(じんしん)の乱
皇位継承をめぐる飛鳥時代最大の内乱。671天智(てんち・てんじ)天皇の死後、子の大友(おおとも)皇子(弘文天皇)と弟の大海人(おおあま)皇子(天武天皇)が対立し、672大海人皇子は吉野(よしの)で挙兵、伊勢・美濃・尾張国司を懐柔し、不破(ふわ)・鈴鹿関(すずかのせき)を封鎖、飛鳥古京を占拠した。大友皇子は待ち返しを図るが瀬田(せた)で敗れ、大津宮(おおつのみや)で自殺した。
●西南戦争(せいなんせんそう)
九州の士族に担がれた西郷隆盛(さいごうたかもり)と明治政府の戦争。最後の士族反乱。1877西郷隆盛(さいごうたかもり)は私学校党ほか九州の不平士族に担がれて決起、熊本城を攻囲したが、南下する政府軍に田原坂(たばるざか)の戦いで敗れて撤退、宮崎の拠点を次々と落とされ、全軍を解散、鹿児島に戻って再挙を図るもかなわず、隆盛ら約百六十人が城山(しろやま)で敗死した。
●第二次世界大戦(だいにじせかいたいせん)
(1939-1945) 枢軸国(日本・ドイツ・イタリアなど)と連合国(イギリス・アメリカ・フランス・中国・ソ連など)との世界戦争。1939ドイツのポーランド侵攻に始まり、1941日本の真珠湾攻撃(対アメリカ参戦)によってアジア・太平洋に戦渦が拡大、当初、ドイツがフランスを降伏させ、日本がマレー半島に上陸するなど枢軸国優勢だったが、次第に連合国に巻き返され、1943にイタリアが、1945ドイツ・日本がそれぞれ無条件降伏して終結した。
●大宰府(だざいふ)
九州に置かれた古代の官庁。福岡県太宰府市所在。西海道(九州)を統括し、外交使節との交渉にも当たった。朝廷の出張所で、「遠の朝廷(みかど)」と呼ばれた。長官は大宰師(だざいのそち)。1293博多に鎮西探題(ちんぜんたんだい)が置かれて以降、無力化した。
●橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)
(721?-757?) 公卿。諸兄の子。母は藤原不比等(ふひと)の娘の多比能(たひの)。摂津大夫・民部大輔・左大弁などを経て749参議に昇るが、藤原仲麻呂(なかまろ)の政策に反感を抱き、757父の死後に大伴(おおとも)・佐伯(さえき)・多治比(たじひ)氏らと反乱を画策するも、未然に鎮圧されて逮捕された(橘奈良麻呂の変・乱)。
●橘 諸兄(たちばなのもろえ)←葛城王(かつらぎおう)
(684-757) 公卿。左大臣。橘氏の祖。美努王(みぬおう)の子。母は県犬養橘三千代(あがたのいぬかいたちばなのみちよ)。藤原光明子(こうみょうし)の異父兄として藤原四兄弟没後に政権を握り、右大臣から左大臣に昇進、国分寺建立・大仏造立など聖武(しょうむ)天皇の鎮護国家(ちんごこっか)政策に協力し、740恭仁京(くにきょう)遷都を主導したと思われる。
●中国(ちゅうごく)=中華人民共和国(ちゅうかじんみんきょうわこく)←中華民国(ちゅうかみんこく)
(1912-) 東アジアにある国。1912孫文(そんぶん)が臨時大統領になって中華民国が成立、袁世凱(えんせいがい)が専制支配を確立し、1928蒋介石(しょうかいせき)が国内を統一するが、1937-1945日中戦争で衰退、1949中華人民共和国が成立した。首都は北京。
●朝鮮民主主義人民共和国(ちょうせんみんしゅしゅぎじんみんきょうわこく)=北朝鮮(きたちょうせん)
(1948-) 東アジアの朝鮮半島北部にある社会主義国。1945日本降伏後ソ連が占領、金日成(キムイルソン・きんにっせい)らが臨時人民委員会を組織し、1948韓国に対抗して独立した。首都は平壌(ピョンヤン・へいじょう)。
●唐(とう)
(618-907) 古代中国の王朝。李淵(りえん)が創始。首都は長安(ちょうあん)。律令制・均田制を確立し、高句麗(こうくり)を滅ぼして繁栄を極めるが、八世紀半ば以後衰退、907朱全忠(しゅぜんちゅう)に滅ぼされた。
●長屋王(ながやおう)
(676?-729)皇族・公卿。左大臣。高市皇子の子。藤原不比等死後、政界首班として722良田百万町歩の開墾を計画、723三世一身法を施行したが、729藤原四兄弟によって自殺に追い込まれた。
●難波宮(なにわのみや)
奈良時代の一時期の首都。京域は現在の大阪市内。726聖武(しょうむ)天皇は藤原宇合(ふじわらのうまかい)に命じて孝徳(こうとく)天皇の難波長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)を再建、744元正上皇が恭仁京(くにきょう)から遷都した。その後も副都的役割を果たしたが、793桓武(かんむ)天皇によって廃止された。
●日本(にほん・にっぽん・やまと)
東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。
●藤原氏(ふじわらし)
特に古代に繁栄した氏族。氏祖は中臣鎌足(なかとみのかまたり)。奈良時代に南家(なんけ)・北家(ほっけ)・式家(しきけ)・京家(きょうけ)の四家に分かれ、南家、次いで式家が繁栄したが、平安時代になると北家が台頭、摂政・関白を独占し、いわゆる摂関政治を現出した。
●藤原広嗣(ふじわらのひろつぐ)
(?-740)官人。藤原宇合(うまかい)の子。藤原不比等(ふひと)の孫。式部少輔(しきぶのしょう・しきぶしょうゆう)・大養徳守(おおやまとのかみ)を務めた後、大宰少弐(だざいしょうに)に左遷、橘諸兄(たちばなのもろえ)の政治顧問・玄ム(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)の排除を要求して大宰府で挙兵するが、大野東人(おおののあずまひと)率いる征討軍に敗死した。
●藤原広嗣の乱(ふじわらのひろつぐのらん)
740大宰少弐・藤原広嗣が大宰府で起こした古代九州最大の反乱。広嗣は橘諸兄(たちばなのもろえ)の政治顧問・玄ム(げんぼう)と吉備真備(きびのまきび)の排除を要求して大宰府で挙兵、軍を三つに分けて北九州へ向かうが、大野東人(おおののあずまひと)率いる征討軍に関門海峡を破られて九州上陸を許し、板櫃川(いたびつがわ)の戦いで大敗、新羅(しらぎ)亡命を目指したが失敗し、捕らえられて斬殺(ざんさつ)された。
●藤原四兄弟(ふじわらよんきょうだい)=藤原四子(よんし)+藤原武智麻呂(むちまろ)+藤原房前(ふささき)+藤原宇合(うまかい)+藤原麻呂(まろ)
藤原不比等の四人の男子のこと。長男・武智麻呂(むちまろ)は南家(なんけ)を、次男・房前(ふささき)は北家(ほっけ)を、三男・宇合(うまかい)は式家(しきけ)を、四男・麻呂(まろ)は京家(きょうけ)を興し、729政敵・長屋王(ながやおう)を滅ぼして四人そろって権勢を誇るが、737天然痘で全員死亡し、一時期藤原氏は衰退した。死んだ。
●平城京(へいじょうきょう・へいぜいきょう)
奈良時代の首都。京域は奈良盆地北部(奈良市・奈良県大和郡山市)。東西約四・三キロ。南北約四・八キロ。710元明(げんめい)天皇が遷都し、784桓武天皇の長岡京(ながおかきょう)遷都まで存続。
●文武天皇(もんむてんのう)
(683-707) 第四十二代天皇(在位697-707)。草壁皇子(くさかべのみこ・おうじ)の皇子。天武(てんむ)天皇・持統(じとう)天皇の孫。祖母から皇位を譲られ、701刑部親王(おさかべしんのう。忍壁皇子とも)・藤原不比等(ふじわらのふひと)らが完成させた大宝律令(たいほうりつりょう)のうち、令を701に、律を702に施行した。