7.日韓味 基礎用語集

足利義教(あしかがよしのり)←足利義宣(あしかがよしのぶ)←義円(ぎえん)
 (1394-1441) 室町幕府六代将軍(在職1429-1441)。義満(よしみつ)の子。義持(よしもち)の弟。初め青蓮院(しょうれんいん)で出家し、大僧正・准后(じゅごう)・天台座主になるが、1428クジで選ばれて1429将軍となり、専制政治を志向、1438-1439永享の乱(えいきょうのらん)で鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)を、1440結城合戦(ゆうきかっせん)で結城氏朝(うじとも)・足利安王丸(やすおうまる)・春王丸(はるおうまるともに持氏の子)を滅ぼしたが、1441播磨等守護・赤松満祐(あかまつみつすけ)に謀殺された(嘉吉の変・嘉吉の乱)。
クジ味

足利義政(あしかがよしまさ)←足利義成(よししげ)
 (1435or1436-1490) 室町幕府八代将軍(在職1449-1473)。義教(よしのり)の子。義勝(よしかつ)の弟。母は日野重子(ひのしげこ)。管領・畠山持国(はたけやまもちくに)、側室・今参局(いままいりのつぼね)、政所執事・伊勢貞親(いせさだちか)、正室・日野富子(ひのとみこ)・義兄・日野勝光(かつみつ)らに実権を握られ、趣味風流生活に逃避、弟・義視(よしみ)を後継とするが、富子(ひのとみこ)が実子・義尚(よしひさ)を立てて譲らず、1467-1477応仁の乱(応仁・文明の乱)に発展、東山に隠居し、銀閣を建立、侘び茶の村田珠光(むらたじゅこう)、花道(華道)の池坊専慶(いけのぼうせんけい)、画家の土佐光信(とさみつのぶ)・狩野正信(かのうまさのぶ)、作庭師の善阿弥(ぜんあみ)、芸術家の能阿弥(のうあみ)らを庇護するなど、東山文化の担い手となった。

(いち)
 物品を持ち寄って売買する場所。平城京・平安京には左京に東市(ひがしのいち)、右京に西市(にしのいち)という官営市場があり、市司(いちのつかさ)が管理し、正午に開かれ、日没に閉じられた。

今川義元(いまがわよしもと)
 (1519-1560) 武将。駿河等守護。今川氏親(うじちか)の子。長兄氏輝(うじてる)死後、1536花倉の乱で次兄の玄光恵探(げんこうえたん)を破って家督を継ぎ、三河の松平氏を併合して尾張東部まで領国を拡張、いち早く検地を行い、商工業振興や富国強兵に努め、1553分国法「今川仮名目録追加(いまがわかなもくろくついか)」を制定、1554善徳寺(ぜんとくじ)の会盟で、甲斐の武田信玄(たけだしんげん)・相模の北条氏康(ほうじょううじやす)と三国同盟を締結、後方の憂いを無くして京都に向かうが、1560桶狭間(おけはざま)の戦いで尾張の織田信長(おだのぶなが)に敗死した。
  最強味

蝦夷(えぞ・えみし)
 古代、主に東日本に住んでいた人々。大和朝廷の征伐を受け、次第に北方に追いやられた。アイヌかどうかについては諸説ある。

江戸時代(えどじだい)=徳川(とくがわ)時代
 (1600or1603-1867) 江戸幕府が支配していた時代。1600関ヶ原の戦(せきがはらのたたかい)で徳川家康(とくがわいえやす)が政権を握ったこと、または1603家康が江戸幕府を開いたことに始まり、徳川氏が代々将軍に就任した。1867十五代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が大政奉還して終わった。

江戸幕府(えどばくふ)=徳川(とくがわ)幕府
 (1603-1867) 江戸時代の武家政権。1603徳川家康(とくがわいえやす)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されたことに始まる。徳川氏が代々将軍に就任、老中(ろうじゅう)が政務を統括し、臨時に大老(たいろう)が置かれた。1867十五代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が朝廷に大政奉還(たいせいほうかん)、1868-1869戊辰(ぼしん)戦争をへて幕府は解体した。

恵美押勝(えみのおしかつ)の乱
 藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ。別名恵美押勝)が孝謙(こうけん)上皇に対して起こした反乱。764太師(太政大臣)・藤原仲麻呂は、孝謙上皇のお気に入りの僧・道鏡(どうきょう)を除こうとして反乱を起こすが、吉備真備(きびのまきび)の采配(さいはい)や藤原式家(しきけ)の人々の活躍などにより近江にて敗死。これにより、仲麻呂が擁していた淳仁天皇は淡路に流され、孝謙上皇は称徳天皇として再び皇位に就いた。
 日朝味6

鎌倉(かまくら)
 現在の神奈川県鎌倉市。源頼朝がここを本拠に幕府を開き、政治の中心となる。1333幕府は滅亡するが、室町時代には鎌倉公方(かまくらくぼう)が住み、東国支配の中心となった。

鎌倉幕府(かまくらばくふ)
 (1192-1333) 鎌倉時代の武家政権。1192源頼朝(みなもとのよりとも)が征夷大将軍に任命されたことに始まるとされるが、創設の時期については異説が多くある。1219三代将軍源実朝(さねとも)の暗殺・公暁(くぎょう)殺害によって源氏が滅亡してからは、外戚の北条(ほうじょう)氏が幕政を掌握し、代々執権(しっけん)を選出するが、1333新田義貞(にったよしさだ)に鎌倉を攻略され、北条氏は滅亡、幕府は解体した。 

狩衣(かりぎぬ)
 公家の略装。武家の正装。本来は狩猟の衣装。烏帽子(えぼし)をかぶり、指貫(さしぬき)か狩袴(かりばかま)を履いた。

韓国(かんこく)・大韓民国(だいかんみんこく)←大韓帝国(だいかんていこく)
 (1897-1910,1948-) アジアの朝鮮半島南部にある国。李氏朝鮮王朝二十六代・高宗(こうそう)が国号を大韓帝国と改めるが、1910韓国併合条約によって日本の植民地になり(日韓併合)、1945-1948アメリカの占領を経て、1948大韓民国として独立した。首都はソウル。

漢字(かんじ)
 中国語を表すために発生し、発達した文字。日本には応神(おうじん)天皇の時代に百済の学者・王仁(わに)によってもたらされ、以後、日本語を表す文字にもなった。平安時代、漢字から「ひらがな」と「カタカナ」が発生した。 

●関白(かんぱく)
 天皇が国政を執り行うのを補佐する者。初めての関白は光孝朝の藤原基経(ふじわらのもとつね)。

桓武天皇(かんむてんのう)・山部(やまべ)親王・山部王
 (737-806) 伝五十代天皇(在位781-806)。光仁(こうにん)天皇の皇子。781父の譲位によって即位し、784長岡京(ながおかきょう)へ遷都するが、785造長岡宮使(ぞうながおかぐうし)・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の暗殺で挫折(ざせつ)、792健児(こんでい)の制を制定し、794和気清麻呂(わけのきよまろ)の勧めで平安京へ遷都、勘解由使(かげゆし)を置き、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍として蝦夷を征伐、藤原継縄(つぐただ)・菅野真道(すがののまみち)らに正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』を編集させた。 怨念味 怨霊味 ヤミ味

九条兼実(くじょうかねざね)=藤原兼実(ふじわらのかねざね)
 (1149-1207) 九条家の祖。公卿。摂政・関白・太政大臣・従一位。藤原忠通(ただみち)の子。史論『愚管抄(ぐかんしょう)』を著した慈円(じえん)の兄。源頼朝(みなもとのよりとも)に接近して権勢を誇るが、後に不和になり、源通親(みちちか)らと対立して失脚した。日記『玉葉(ぎょくよう)』。

百済(くだら・ひゃくさい)
 (前18?-660) 古代朝鮮三国の一つ。四世紀の初めに馬韓(ばかん)五十五国を統一、北の高句麗(こうくり)、東の新羅(しらぎ・しんら)と勢力を三分するが、660唐(とう)・新羅連合軍に攻められて滅亡した。まもなく旧臣たちによって復興運動が起こり、日本も援助するが、663白村江(はくそんこう・はくすきのえ)の戦いで唐・新羅連合軍に敗れて壊滅した。

後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)←後鳥羽天皇←尊成親王(たかなり・たかひらしんのう)
 (1180-1239) 伝八十二代天皇(在位1183-1198。院政1198-1221)。高倉(たかくら)天皇の皇子。 1183平氏の都落ち後に即位し、1198土御門(つちみかど)天皇に譲位して院政を開始、1201和歌所(わかどころ)を設置して藤原定家(ふじわらのていか・さだいえ)・藤原家隆(かりゅう・いえたか)らに『新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)』を編集させ、自身でも有職故実(ゆうそくこじつ)書『世俗浅深秘抄(せぞくせんしんひしょう)』などを著述、実力者・源通親(みなもとのみちちか)没後は朝廷の実権を掌握し、西面(さいめん)の武士を設置して幕府と対立、1221三代執権・北条義時(ほうじょうよしとき)追討の命令を発して幕府打倒を目指したが、返り討ちにあって隠岐へ島流しにされた(承久の乱)。
将軍味4 栄光味

後水尾上皇(ごみずのおじょうこう)後水尾法皇←後水尾天皇←政仁親王(ことひとしんのう)
 (1596-1680) 伝百八代天皇(在位1611-1629。院政1629-1648or1649,1663-1669)。後陽成(ごようぜい)天皇の皇子。中宮は徳川和子(とくがわかずこ・まさこ。東福門院)。1615禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)・1627-1629紫衣(しえ)事件で幕府に反発し、1629皇女・明正(めいしょう)天皇に譲位、以後事実上四代に渡って院政を行い、1655-1663洛北に修学院離宮(しゅがくいんりきゅう)を造営した。

今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)
 平安時代の説話集。三十一巻(三巻散在)。現存千四十話。編集者は不明だが、源隆国(みなもとのたかくに)とも伝えられている。大正時代の文豪・芥川竜之介(あくたがわりゅうのすけ)が考証し、『鼻』『芋粥(いもがゆ)』などを著した。

執権(しっけん)
 鎌倉幕府の最高執政官。侍所別当と政所別当を合わせた官。北条氏が世襲した。もとは院政における院司の長官のこと。

修学院離宮(しゅがくいんりきゅう)
 京都市左京区所在。後水尾(ごみずのお)上皇(天皇)が比叡山麓に造営した山荘。1655着工開始。

儒教(じゅきょう)・儒学
 孔子(こうし)を開祖とする思想。日本には応神(おうじん)天皇の時代に百済の学者・王仁(わに)によってもたらされた。鎌倉時代に朱子学が伝来し、江戸時代に藤原惺窩(ふじわらせいか)・林羅山(はやしらざん)らが大成、陽明学・考証学も伝来し、古学・折衷学も興った。

承久の乱(じょうきゅうのらん)
 1221に後鳥羽(ごとば)上皇が鎌倉幕府に対して起こした反乱。三代将軍源実朝(みなもとのさねとも)暗殺後、後鳥羽上皇は西面の武士を設置するなど武力を強化、北条義時(ほうじょうよしとき)追討の命令を発して挙兵した。義時から兵を託された北条泰時(やすとき)・時房(ときふさ)は各地で朝廷軍を破って京都を制圧、仲恭(ちゅうきょう)天皇を廃して後堀河(ごほりかわ)天皇を即位させ、後鳥羽上皇を隠岐へ、順徳(じゅんとく)上皇を佐渡へ島流しにした(土御門(つちみかど)上皇は自ら土佐へ赴いた)。泰時と時房は警護のため京都にとどまり、初代六波羅探題(ろくはらたんだい)となった。

新羅(しらぎ・しんら)
 (前57?-935) 古代朝鮮三国の一つ。四世紀前半に辰韓(しんかん)十二国を統一、唐と連合して西の百済(くだら)と北の高句麗(こうくり)を滅ぼし、684朝鮮半島を統一するが、935高麗(こうらい)によって滅亡した。

崇徳天皇(すとくてんのう)
 (1119-1164) 譲位後は崇徳上皇。名は顕仁(あきひと)。第七十五代天皇(在位1123-1141)。鳥羽(とば)天皇の第一皇子。後白河(ごしらかわ)天皇の実兄。1123曽祖父・白河法皇(しらかわほうおう)の後押しで即位したが、1141父によって譲位させられたことを根に持ち、1156後白河上皇に対して保元(ほうげん)の乱を起こすが敗れ、讃岐へ島流しにされた。

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)・将軍
 蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための軍事長官。奈良時代にあった征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。もとは東国で兵乱が起こったときの臨時職であったが、1192源頼朝(みなもとのよりとも)が任命されて以後、武家の最高指導者の称号となった。 将軍味

清少納言(せいしょうなごん)
 (?-?) 歌人・作家。女房。中古三十六歌仙の一人。父は清原元輔(きよはらのもとすけ)。橘則光(たちばなののりみつ)・藤原棟世(むねよ)夫人。一条天皇中宮藤原定子(ていし)に仕えた。著『枕草子』。

戦国大名(せんごくだいみょう)
 戦国時代に各地に割拠した大領主。守護(しゅご)大名から移行したもののほか、守護代や国人(こくじん)から台頭したものもある。

武田信玄(たけだしんげん)←武田晴信(はるのぶ)
 (1521-1573) 武将。甲斐等守護。信虎(のぶとら)の子。1541父を追放して家督を継ぎ、1547分国法「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい。「信玄家法」とも)」を制定、1542信濃へ侵攻して諏訪頼重(すわよりしげ)を討ち、小笠原長時(おがさわらながとき)・村上義清(むらかみよしきよ)らを撃破、越後の上杉謙信(うえすぎけんしん)と数度交戦し(川中島の戦)、1554駿河の今川義元(いまがわよしもと)・相模の北条氏康(ほうじょううじやす)と同盟を結ぶが(善徳寺の会盟)、1560桶狭間の戦で義元が敗死するや1568駿河に侵攻して今川氏を滅ぼし、1572三方原(みかたがはら)の戦で徳川・織田連合軍を破るが、まもなく病没した(鉄砲で狙撃されたという説もある)。
撤退味 大雪味3 惨敗味 ニセ味

天智天皇(てんちてんのう・てんじてんのう)・中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
 (626-671)伝三十八代天皇(在位668-671)。舒明(じょめい)天皇の第一皇子。母は皇極(こうぎょく)・斉明(さいめい)天皇。中臣(藤原)鎌足とともに645蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼし、大化の改新を断行、663白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦で唐・新羅に大敗した後、667近江大津宮(おうみのおおつのみや)に遷都し、668近江令(おうみりょう)を編集、670庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成した。 ウソ味 日朝味5

(とう)
 (618-907) 古代中国の王朝。李淵(りえん)が創始。首都は長安(ちょうあん)。律令制・均田制を確立し、高句麗を滅ぼして繁栄を極めるが、八世紀半ば以後衰退、907朱全忠(しゅぜんちゅう)に滅ぼされた。

徳川家康(とくがわいえやす)←松平元康(まつだいらもとやす)←松平元信(もとのぶ)
 (1542-1616) 武将。江戸幕府初代将軍(在職1603-1605)・大御所。三河岡崎(みかわおかざき)城主・松平広忠(まつだいらひろただ)の子。1560桶狭間(おけはざま)の戦後に岡崎城主となり、織田信長と同盟を締結、今川氏を滅ぼして遠江浜松(とおとうみはままつ)城主となるが1572三方原(みかたがはら)の戦で武田信玄(たけだしんげん)に惨敗、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(かつより)を撃退し、1582本能寺(ほんのうじ)の変後、1584小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦後に豊臣秀吉と講和、1590小田原(おだわら)攻めに従って武蔵江戸(えど)城主となり、関東を統治、五大老に列し、秀吉の死後の1600関ヶ原の戦で石田三成らを撃破、1603征夷大将軍となって江戸幕府を開き、1605将軍職を秀忠(ひでたた)に譲渡、駿河府中(するがふちゅう)に退くが、大御所として実権を掌握、1614〜1615大坂の役で豊臣秀頼(ひでより)を滅ぼし、1615武家諸法度(ぶけしょはっと)・禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)・一国一城令(いっこくいちじょうれい)などを定めた。惨敗味 変節味
裏金味4 籠城味

徳川秀忠(とくがわひでただ)
 (1579-1632) 江戸幕府二代将軍(在職1605-1623)。家康の子。父より将軍職を譲られ、1615大坂の豊臣秀頼(とよとみひでより)を滅ぼして元和偃武(げんなえんぶ)を実現、武家諸法度・禁中並公家諸法度などを制定、1623子の家光に将軍職を譲ってからも大御所として実権を握りつづけた。

渡来人(とらいじん)
 帰化人とも。古代に朝鮮・中国から日本に移住したきた人々。大陸の先端技術を有するものが多く、大和政権の政治や文化に大きな影響を与えた。

長岡京(ながおかきょう)
 (784-794) 奈良時代末期の首都。784桓武(かんむ)天皇が遷都して造営開始。京域は京都盆地西部。785造長岡宮使(ぞうながおかきゅうし)・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺されてから工事が進まなかった。現在、発掘が進められている。
怨念味

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。

直衣(のうし)
 
平安中期以降の公家の普段着。「ただの衣』という意味。烏帽子(えぼし)をかぶり、指貫(さしぬき)を履いた。

武士(ぶし)・侍(さむらい)・武者(むしゃ)
 武芸をおさめて軍事にたずさわった者。

藤原鎌足(ふじわらのかまたり)←中臣鎌足(なかとみのかまたり)←中臣鎌子(かまこ)
 (614-669)公卿。内臣(うちつおみ・ないしん)。藤原氏の祖。中臣御食子(みけこ)の子。舒明(じょめい)天皇の代に神祗伯(じんぎはく)を辞退して隠棲、初め軽皇子(かるのみこ。孝徳天皇)に、次いで中大兄皇子(天智天皇)に近づき、645中大兄皇子らと飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で蘇我入鹿(そがのいるか)を暗殺、蘇我蝦夷(えみし)を滅ぼし、孝徳(こうとく)天皇を擁立、中大兄皇子を皇太子に立て、大化の改新で内臣(うちつおみ・ないしん)に就任、近江令編集に関わり、死の直前に藤原姓と大織冠(たいしょくかん)を受けた。
工作味

仏教(ぶっきょう)
 釈迦(しゃか)を開祖とする宗教。日本には欽明(きんめい)天皇の時代に百済の国王・聖明王(せいめいおう)によってもたらされた。年代については552説(『日本書紀』による)と538説(『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』『元興寺縁起(がんごうじえんぎ)』による)がある。これを「仏教公伝』というが、これ以前にも渡来人・司馬達等(しばたっと)が自宅で仏像を礼拝していたという(仏教私伝)。以後、従来からあった神道(しんとう)と並んでわが国に浸透し、現在にいたっている。

平安京(へいあんきょう)
 (794-1868) 平安〜江戸時代の首都。京域は京都盆地北部。東西約4.5q。南北約5.2q。794桓武(かんむ)天皇が和気清麻呂(わけのきよまろ)の勧めで遷都。

平安時代(へいあんじだい)
 (794-1185頃) 平安京に都が置かれ、天皇や貴族が支配していた時代。794桓武(かんむ)天皇の平安遷都に始まり、初期は天皇家が、前中期は藤原氏が、後期は院政の主が、末期は平家が政権を担った。1185源頼朝(みなもとのよりとも)の守護・地頭設置(事実上の鎌倉幕府の創立)頃までをいう。

保元(ほうげん)の乱
 1156上皇派(崇徳天皇・藤原頼長・源為義・平忠正ら)と天皇派(後白河天皇・藤原忠通・源義朝・平清盛ら)が京都で戦った内乱。戦いは天皇派の夜襲が成功し、一日で決着。頼長は敗死し、為義・忠正は処刑され、崇徳上皇は讃岐へ流された。

北条時頼(ほうじょうときより)
 (1227-1263) 鎌倉幕府五代執権(在職1246-1256)。時氏(ときうじ)の子。1246兄の経時(つねとき)より執権職を譲られ、1246藤原頼経(よりつね)・名越光時(なごえみつとき)らを退け、1247宝治合戦(ほうじがっせん)で三浦泰村(みうらやすむら)を追討、1249引付衆(ひきつけしゅう)を設置し、1252皇族将軍・宗尊親王(むねたかしんのう)を擁立、執権退任後も実権を握り続けた。

枕草子(まくらのそうし)
 平安時代の随筆。清少納言(せいしょうなごん)作。1001頃成立。三十余りの文章からなる。日本三大随筆の一つ。

源頼家(みなもとのよりいえ)
 (1182-1204) 鎌倉幕府二代将軍(在職1202-1203)。頼朝(よりとも)の子。母は北条政子(ほうじょうまさこ)。父の死後に家督を継いで将軍となったが、北条時政(ときまさ)など有力御家人に実権を奪われ(十三人の合議制)、1203巻き返しをはかるも失敗、妻の父・比企能員(ひきよしかず)と息子・一幡(いちまん)は殺され、自身も失脚して伊豆修禅寺(しゅぜんじ)に幽閉された(比企能員の乱)。

室町時代(むろまちじだい)
 (1336-1573) 室町幕府が支配していた時代。1336足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐(ごだいご)天皇の建武(けんむ)政権を倒して始まり、足利氏が代々将軍に就任、管領(かんれい)がこれを補佐した。時代名は三代将軍・足利義満の京都室町邸(花の御所)にちなむ。1573十五代将軍・足利義昭(よしあき)が織田信長に追放されて終わった。1392南北朝合体(南北朝合一)までを南北朝時代、1467-1477応仁の乱以後を戦国時代ともいう。

室町幕府(むろまちばくふ)=足利(あしかが)幕府
 (1336-1573) 室町時代の武家政権。1336足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐(ごだいご)天皇の建武(けんむ)政権を倒して創始。足利氏が代々将軍に就任し、管領(かんれい)がこれを補佐した。幕府名は三代将軍・足利義満の京都室町邸(花の御所)にちなむ。1573十五代将軍・足利義昭(よしあき)が織田信長に追放されて滅びた。

明治維新(めいじいしん)
 江戸幕府による封建体制から、明治新政府による近代国家形成の契機になった一連の政治的・社会的改革。ペリー来航による開国から、大政奉還・王政復古の大号令・戊辰(ぼしん)戦争・五箇条の御誓文・東京遷都・版籍奉還・廃藩置県・徴兵令・四民平等・秩禄(ちつろく)処分・地租改正・郵便制度創設・鉄道開通・殖産興業・文明開化・新貨条例などを経て、西南戦争までをいうことが多い。

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