40.地震味 基礎用語集

明智光秀(あけちみつひで)
 (1528?-1582) 武将。足利義昭(あしかがよしあき)の紹介を機に織田信長に仕え、諸戦で活躍して近江坂本(さかもと)城主になるが、1582本能寺(ほんのうじ)の変で信長を殺害、京都・近江・美濃を制圧するも、中国攻めから取って返してきた羽柴(豊臣)秀吉に山崎(やまざき)の戦で敗れ、坂本へ落ち延びる途中に土民の襲撃を受けて自殺した。
虐殺味

足利義昭(あしかがよしあき)←義秋(よしあき)←覚慶(かくけい)
 (1537-1597) 武将。室町幕府十五代将軍(在職1568-1573)。義晴(よしはる)の子。兄・義輝(よしてる)が松永久秀(まつながひさひで)らに殺されたため近江に逃れ、朝倉義景(あさくらよしかげ)、次いで織田信長を頼り、1568信長とともに上京して将軍に就任するが、信長と不和になり、1572武田信玄(たけだしんげん)・顕如(けんにょ)・義景らと信長包囲網を形成してこれを追い詰めるが、信玄の死や朝倉・浅井氏の滅亡によって瓦解(がかい)、1573山城槙島(まきしま)城で挙兵するも敗れ、追放された。
大雪味

安土城(あづち・あずちじょう)
 滋賀県近江八幡市にあった安土桃山時代の平山城。1576織田信長が家臣・丹羽長秀(にわながひで)に命じて築城、御用絵師・狩野永徳(かのうえいとく)らに襖絵(ふすまえ)を描かせ、1579五層七階の天守閣が完成したが、1582本能寺の変後に焼失した。

石山本願寺(いしやまほんがんじ)
 現在の大阪市中央区所在。浄土真宗の寺。1496大坂に本願寺八世・蓮如(れんにょ)が隠居所を築いたのが起源で、1532山科本願寺焼失後、十世・証如(しょうにょ)が本山を移転、今日の大阪の原型となる広大な寺内町(じないちょう)を形成し、一向一揆の総本山となるが、十一世・顕如(けんにょ。光佐)が織田信長と抗争、1570-1580石山合戦の果てに焼失した。

一向一揆(いっこういっき)
 室町〜戦国時代に近畿・中部地方で起こった浄土真宗(じょうどしんしゅう。一向宗)信仰者の武装集団。本拠は大坂の石山本願寺(いしやまほんがんじ)。最大のものは加賀(かが)の一向一揆。各地の守護大名や戦国大名らと交戦したが、1580織田信長と石山本願寺と講和、加賀の一向一揆の滅亡によって解体した。北陸味
騒乱味 暴力味泥沼味虐殺味

上杉景勝(うえすぎかげかつ)
 (1555-1623) 武将。大名。大老。謙信(けんしん)の養子。1578-1579御館(おたて)の乱で義兄・上杉景虎(かげとら)を破って家督となるが、1584豊臣秀吉に服属、陸奥会津(あいづ)百二十万石を領し、豊臣政権の五大老に列するが、1600関ヶ原の戦いで徳川家康に歯向かったため、戦後出羽米沢(よねざわ)三十万石へ飛ばされた。

上杉謙信(うえすぎけんしん)←上杉輝虎(てるとら)←上杉政虎(まさとら)長尾景虎(ながおかげとら)
 (1530-1578) 武将。越後守護代。関東管領。長尾為景(ためかげ)の子。1548家督を継ぎ、1550越後国主となり、信濃北部に進出した甲斐の戦国大名・武田信玄(たけだしんげん)と数度交戦(川中島の戦)、関東管領・上杉憲政(うえすぎのりまさ)の頼みで関東の戦国大名・北条氏康(ほうじょううじやす)を攻め、1561関東管領を継承、1573越中を平定して織田信長(おだのぶなが)を攻めるが、1578急死した。
撤退味 地震味2 政権味

織田信長(おだのぶなが)
 (1534-1582) 武将。織田信秀(のぶひで)の子。父の死後、尾張を統一、1560桶狭間(おけはざま)の戦で今川義元(いまがわよしもと)を討ち、1567美濃の斎藤氏を追って岐阜城に入城、1568足利義昭(あしかがよしあき)を擁して上洛し、1570姉川(あねがわ)の戦で浅井(あさい)・朝倉(あさくら)氏を倒し、1571比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を焼き打ち、1573義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、1574伊勢長島一向一揆(いせながしまいっこういっき)を、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(たけだかつより)を撃破、1576近江に安土(あづち)城を築いて移り、楽市(らくいち)・楽座(らくざ)を実施、1580石山本願寺(いしやまほんがんじ)を大坂から立ち退かせ、1582天目山(てんもくざん)の戦で勝頼を滅ぼすが、本能寺(ほんのうじ)の変で家臣の明智光秀(あけちみつひで)に討たれた。
最強味大雪味騒乱味暴力味泥沼味虐殺味銃器味   

加賀の一向一揆(かがのいっこういっき)
 (1474-1580) 加賀を支配した一向宗門徒による自治組織。1474加賀の一向宗門徒は加賀守護家富樫(とがし)氏の内紛に介入、富樫政親(まさちか)を擁して幸千代(こうちよ。政親の弟)を滅ぼしたが、1488政親とも対立、今度は泰高(やすたか。政親の大叔父)を擁して政親を高尾城に攻め滅ぼし、以後、越前の朝倉氏などと抗争しながら坊主・国人・農民らの寄合による自治を約百年続けるが、1580織田信長に滅ぼされた。
北陸味

関東管領(かんとうかんれい)
 鎌倉公方の補佐役。1336足利義詮(あしかがよしあきら)鎌倉下向で斯波家長(しばいえなが)に補佐させたのが起源。初代関東管領は高師冬(こうのもろふゆ)と上杉憲顕(うえすぎのりあき)。上杉氏が世襲し、永享(えいきょう)の乱後は鎌倉公方の勢力をしのいだ。

●関白(かんぱく)
 天皇が国政を執り行うのを補佐する者。初めての関白は光孝朝の藤原基経(ふじわらのもとつね)。

楠木正成(くすのきまさしげ)
 (1294?-1336) 武将。1333元弘(げんこう)の乱で後醍醐(ごだいご)天皇につき、河内赤坂(あかさか)城・千早(ちはや)城に籠城(ろうじょう)、鎌倉幕府軍を撃退し、建武(けんむ)の新政(中興)に参与、摂津・河内・和泉守護・河内国司に任じられ、1336謀反を起こした足利尊氏(あしかがたかうじ)を敗走させるが、再挙した尊氏に湊川(みなとがわ)の戦で敗死した。
窮地味

古今伝授(こきんでんじゅ)
 『古今和歌集』の解釈の秘伝を弟子に伝授すること。美濃郡上(みのぐじょう)領主・東常縁(とうつねより・とうのつねより)が正風連歌(しょうふうれんが)の祖・宗祗(そうぎ)に伝えたのが特に有名。三箇大事・三鳥大事・三才大事などの秘事がある。

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)≦将軍
 もとは蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための軍事長官。後に武家政権の最高指導者の称号。奈良時代の征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。1192源頼朝(みなもとのよりとも)就任以後は世襲となり、幕府を開いた。将軍味

戦国大名(せんごくだいみょう)
 戦国時代に各地に割拠した大領主。守護(しゅご)大名から移行したもののほか、守護代や国人(こくじん)から台頭したものもある。

武田勝頼(たけだかつより)=諏訪(すわ)勝頼
 (1546-1582) 武将。甲斐等領主。信玄(しんげん)の子。父の死後も勢力を拡大したが、1575長篠(ながしの)の戦で織田信長・徳川家康連合軍に大敗して衰退、1582天目山(てんもくざん)の戦で敗れて自害した。惨敗味2
人質味銃器味 ニセ味

武田信玄(たけだしんげん)←武田晴信(はるのぶ)
 (1521-1573) 武将。甲斐等守護。信虎(のぶとら)の子。1541父を追放して家督を継ぎ、1547分国法「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい。「信玄家法」とも)」を制定、1542信濃へ侵攻して諏訪頼重(すわよりしげ)を討ち、小笠原長時(おがさわらながとき)・村上義清(むらかみよしきよ)らを撃破、越後の上杉謙信(うえすぎけんしん)と数度交戦し(川中島の戦)、1554駿河の今川義元(いまがわよしもと)・相模の北条氏康(ほうじょううじやす)と同盟を結ぶが(善徳寺の会盟)、1560桶狭間の戦で義元が敗死するや1568駿河に侵攻して今川氏を滅ぼし、1572三方原(みかたがはら)の戦で徳川・織田連合軍を破るが、まもなく病没した(鉄砲で狙撃されたという)。
撤退味 大雪味3 惨敗味 ニセ味

豊臣秀吉(とよとみひでよし)←羽柴(はしば)秀吉←木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)
 (1537-1598) 武将。関白・太政大臣。織田信長に仕えて出世し、1573近江長浜(おうみながはま)城主となり、1577中国攻めを開始、1582備中高松(びっちゅうたかまつ)城攻撃中に信長横死の知らせを受け、山崎(やまざき)の戦で明智光秀(あけちみつひで)を、1583賤ヶ岳(しずがたけ)の戦で柴田勝家(しばたかついえ)を滅ぼし、石山本願寺(いしやまほんがんじ)跡に大坂(おおさか)城を築城、1584小牧・長久手の戦を経て徳川家康と講和、1585関白となって紀伊の根来(ねごろ)・雑賀(さいが)一揆を、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を降し、1586太政大臣に就任、1587九州の島津義久を、1590東北の伊達政宗(だてまさむね)・最上義光(もがみよしあき)らを、関東の北条氏政(ほうじょううじまさ)・氏直(うじなお)を降して天下を統一、太閤検地(たいこうけんち)や刀狩(かたながり)を行い、バテレン追放令や身分統制令などを発令、聚楽第(じゅらくだい)や伏見城を築いたが、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は失敗した。泥沼味怪談味2地震味4日朝味7芸人味変化味花見味変節味

阪神・淡路大震災(はんしんあわじだいしんさい)=阪神大震災=兵庫県南部地震
 1995.1/17神戸市を中心とする兵庫県南部で起こった地震。M7.2。最大震度7(初観測)。死者約6400名。

本願寺(ほんがんじ)
 京都市下京区所在。浄土真宗の本山。1272親鸞(しんらん)の娘・覚信尼(かくしんに)が父の遺骨を改装し、木像を安置したのが起源。十一世法主・顕如(けんにょ)の代に現在地に移り、その長男・教如(きょうにょ)と三男・准如(じゅんにょ)の代に後継争いが起こり、東・西本願寺に分裂した。

本能寺(ほんのうじ)の変
 1582天下統一を目指す織田信長が中国攻めの応援に赴く途中、京都の本能寺にて家臣・明智光秀(あけちみつひで)に暗殺された事件。光秀は信長の長子・信忠(のぶただ)も二条御所に襲って殺害した。

前田利家(まえだとしいえ)
 (1538-1599) 武将。五大老の一。織田信長に仕え、柴田勝家(しばたかついえ)の名代として能登七尾(ななお)城主となり、1583賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いで豊臣秀吉に属して加賀金沢(かなざわ)城主となり、秀吉死後は遺児秀頼の後見役を務めた。

室町幕府(むろまちばくふ)=足利(あしかが)幕府
 (1336-1573) 室町時代の武家政権。1336足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐(ごだいご)天皇の建武(けんむ)政権を倒して創始。足利氏が代々将軍に就任し、管領(かんれい)がこれを補佐した。幕府名は三代将軍・足利義満の京都室町邸(花の御所)にちなむ。1573十五代将軍・足利義昭(よしあき)が織田信長に追放されて滅びた。

山崎(やまざき)の戦
 1582山城山崎(京都府大山崎町)で羽柴(豊臣)秀吉が明智光秀(あけちみつひで)を破った戦い。光秀は京都本能寺(ほんのうじ)で主君・織田信長を討ち(本能寺の変)、畿内を掌握するが、備中高松城攻めを切り上げて取って返してきた秀吉らと山崎で交戦、天王山(てんのうざん)を奪われて大敗し、近江坂本(さかもと)城に逃れる途中で土民に襲われ、自殺した。

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