152.穴雪味 基礎用語集

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明智光秀(あけちみつひで)
 (1528?-1582) 武将。足利義昭(あしかがよしあき)の紹介を機に織田信長に仕え、諸戦で活躍して近江坂本(さかもと)城主になるが、1582本能寺(ほんのうじ)の変で信長を殺害、京都・近江・美濃を制圧するも、中国攻めから取って返してきた羽柴(豊臣)秀吉に山崎(やまざき)の戦で敗れ、坂本へ落ち延びる途中に土民の襲撃を受けて自殺した。
虐殺味

安土城(あづち・あずちじょう)
 滋賀県近江八幡市にあった安土桃山時代の平山城。1576織田信長が家臣・丹羽長秀(にわながひで)に命じて築城、御用絵師・狩野永徳(かのうえいとく)らに襖絵(ふすまえ)を描かせ、1579五層七階の天守閣が完成したが、1582本能寺の変後に焼失した。

今川氏(いまがわし)
 中世に栄えた氏族。駿河等守護家。氏祖は足利義氏の孫・国氏。範国(のりくに)が足利尊氏に従って駿河・遠江守護となり、貞世(さだよ。了俊)は九州探題として活躍、義元(よしもと)の代に三河を併合するが、1560桶狭間の戦で織田信長に敗死して衰退した。
最強味⇒今川氏系図

上杉謙信(うえすぎけんしん)←上杉輝虎(てるとら)←上杉政虎(まさとら)長尾景虎(ながおかげとら)
 (1530-1578) 武将。越後守護代。関東管領。長尾為景(ためかげ)の子。1548家督を継ぎ、1550越後国主となり、信濃北部に進出した甲斐の戦国大名・武田信玄(たけだしんげん)と数度交戦(川中島の戦)、関東管領・上杉憲政(うえすぎのりまさ)の頼みで関東の戦国大名・北条氏康(ほうじょううじやす)を攻め、1561関東管領を継承、1573越中を平定して織田信長(おだのぶなが)を攻めるが、1578急死した。
撤退味 地震味2 政権味

江戸城(えどじょう)→皇居
 東京都千代田区(ちよだく)所在。平安時代に江戸重継(えどしげつぐ)が居館を造営し、1457太田道灌(おおたどうかん)が築城、後北条氏の支城となり、1590徳川家康(とくがわいえやす)が改築、1603以降は将軍在所となり、1868に明治天皇が入城して皇居となった。天守閣(てんしゅかく)は明暦(めいれき)の大火で炎上後は再建されなかった。

織田信長(おだのぶなが)
 (1534-1582) 武将。織田信秀(のぶひで)の子。父の死後、尾張を統一、1560桶狭間(おけはざま)の戦で今川義元(いまがわよしもと)を討ち、1567美濃の斎藤氏を追って岐阜城に入城、1568足利義昭(あしかがよしあき)を擁して上洛し、1570姉川(あねがわ)の戦で浅井(あさい)・朝倉(あさくら)氏を倒し、1571比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を焼き打ち、1573義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、1574長島一向一揆(いせながしまいっこういっき)を、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(たけだかつより)を撃破、1576近江に安土(あづち)城を築いて移り、楽市(らくいち)・楽座(らくざ)を実施、1580石山本願寺(いしやまほんがんじ)を大坂から立ち退かせ、1582天目山(てんもくざん)の戦で勝頼を滅ぼすが、本能寺(ほんのうじ)の変で家臣の明智光秀(あけちみつひで)に討たれた。
最強味大雪味騒乱味暴力味泥沼味虐殺味人質味銃器味俺様味ロス味ロス味   

検地(けんち)
 主に近世に領主が所領の規模の把握や年貢などの確保のために行った土地調査のこと。戦国時代に戦国大名が部分的に自主的に行わせたものを指出(さしだし)検地といい、安土桃山時代に豊臣秀吉が全国的に強制的に行わせたものを太閤検地といった。江戸時代初期も行われたが、十八世紀以降は新田検地以外で大規模なものは行われなくなった。

(さかい)
 現在の大阪府堺市。大阪湾に面した港町で、室町時代から勘合貿易や南蛮貿易で繁栄。三十六人の門閥豪商からなる会合衆(えごうしゅう)が町政を執った。織田信長に多額の矢銭(軍資金)を要求されて抵抗したが、結局屈服した。江戸時代は幕府領。

守護(しゅご)
 鎌倉・室町時代に国ごとに置かれた軍事・行政長官。古代の国司(こくし)、近世の大名(だいみょう)、現代の知事のようなもの。1185源頼朝(みなもとのよりとも)が初めて全国的に設置。戦国時代の下克上(げこくじょう)により衰退するが、なかには戦国大名として生き残るものもあった。

新田開発(しんでんかいはつ)
 新しく耕地を開発すること。江戸時代前期に幕府や藩が勧めたため盛んになった。開発者には数年の免税など特典が与えられた。代官見立新田(代官が見立てて開発を奨励)・土豪開発新田(有力農民が開発を申請)・村請新田(村が申請)・町人請負新田(町人が請負)・百姓寄合新田・藩営新田・藩士知行新田などがある。

清和源氏(せいわげんじ)≦源氏
 清和天皇の皇孫・経基王(つねもとおう)が源(みなもと)姓を賜って臣籍降下されたことに始まる氏族(陽成天皇の子孫とも)。平安時代後期、桓武平氏(かんむへいし)と並んで武家の棟梁(とうりょう)になり、主に関東地方に地盤を作った。足利(あしかが)・新田(にった)・細川(ほそかわ)・斯波(しば)・畠山(はたけやま)・山名(やまな)・一色(いっしき)・今川(いまがわ)・武田(たけだ)・土岐(とき)・小笠原(おがさわら)・佐竹(さたけ)氏・木曽(きそ)氏氏など多くの武家を輩出した。徳川(とくがわ)・明智(あけち)・大友(おおとも)・島津(しまづ)氏なども清和源氏を称している。⇒清和源氏系図
諾威味

武田勝頼(たけだかつより)=諏訪(すわ)勝頼
 (1546-1582) 武将。甲斐等領主。信玄(しんげん)の子。父の死後も勢力を拡大したが、1575長篠(ながしの)の戦で織田信長・徳川家康連合軍に大敗して衰退、1582天目山(てんもくざん)の戦で敗れて自害した。惨敗味2
人質味銃器味 ニセ味

武田信玄(たけだしんげん)←武田晴信(はるのぶ)
 (1521-1573) 武将。甲斐等守護。信虎(のぶとら)の子。1541父を追放して家督を継ぎ、1547分国法「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい。「信玄家法」とも)」を制定、1542信濃へ侵攻して諏訪頼重(すわよりしげ)を討ち、小笠原長時(おがさわらながとき)・村上義清(むらかみよしきよ)らを撃破、越後の上杉謙信(うえすぎけんしん)と数度交戦し(川中島の戦)、1554駿河の今川義元(いまがわよしもと)・相模の北条氏康(ほうじょううじやす)と同盟を結ぶが(善徳寺の会盟)、1560桶狭間の戦で義元が敗死するや1568駿河に侵攻して今川氏を滅ぼし、1572三方原(みかたがはら)の戦で徳川・織田連合軍を破るが、まもなく病没した(鉄砲で狙撃されたという)。
撤退味 大雪味3 惨敗味 ニセ味

鉄砲(てっぽう)=火縄銃(ひなわじゅう)≦種子島(たねがしま)
 火薬の爆発力によって弾丸を発射する武器。1543ポルトガル人が種子島にもたらした鉄砲を島主・種子島時尭(たねがしまときたか)が購入、八板金兵衛(やいたきんべえ)らに模作させた(鉄砲伝来)。後に和泉堺(さかい)・紀伊根来(ねごろ)・近江国友(くにとも)などの鉄砲鍛治(かじ)が製造し、戦国大名の間で普及した。1575織田信長が三千丁(千丁とも)の鉄砲を駆使して長篠の戦(ながしののたたかい)で勝利したことは有名。南蛮味
銃器味

徳川家康(とくがわいえやす)←松平元康(まつだいらもとやす)←松平元信(もとのぶ)
 (1542-1616) 武将。江戸幕府初代将軍(在職1603-1605)・大御所。三河岡崎(みかわおかざき)城主・松平広忠(まつだいらひろただ)の子。1560桶狭間(おけはざま)の戦後に岡崎城主となり、織田信長と同盟を締結、今川氏を滅ぼして遠江浜松(とおとうみはままつ)城主となるが1572三方原(みかたがはら)の戦で武田信玄(たけだしんげん)に惨敗、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(かつより)を撃退し、1582本能寺(ほんのうじ)の変後、1584小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦後に豊臣秀吉と講和、1590小田原(おだわら)攻めに従って武蔵江戸(えど)城主となり、関東を統治、五大老に列し、秀吉の死後の1600関ヶ原の戦で石田三成らを撃破、1603征夷大将軍となって江戸幕府を開き、1605将軍職を秀忠(ひでたた)に譲渡、駿河府中(するがふちゅう)に退くが、大御所として実権を掌握、1614〜1615大坂の役で豊臣秀頼(ひでより)を滅ぼし、1615武家諸法度(ぶけしょはっと)・禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)・一国一城令(いっこくいちじょうれい)などを定めた。最強味惨敗味人質味銃器味ニセ味穴雪味芸人味変化味変節味
官僚味裏金味籠城味

徳川秀忠(とくがわひでただ)
 (1579-1632) 江戸幕府二代将軍(在職1605-1623)。家康の子。父より将軍職を譲られ、1614-1615大坂の役で豊臣秀頼(とよとみひでより)を滅ぼして元和偃武(げんなえんぶ)を実現、武家諸法度・禁中並公家諸法度などを制定、1623子の家光に将軍職を譲ってからも大御所として実権を握り続けた。

長篠(ながしの)の戦=長篠合戦
 織田信長・徳川家康が三河長篠(愛知県新城市)で武田勝頼(たけだかつより)の侵攻を食い止めた戦い。1574勝頼は徳川領に侵攻、遠江高天神城(たかてんじんじょう。静岡県掛川市)を落とし、1575三河長篠城を攻囲、城将・奥平信昌(おくだいらのぶまさ)は家康に助けを求め、家康は信長に救援を依頼、織田・徳川連合軍は設楽原(したらがはら)に馬防柵(ばぼうさく)・土塁・空掘を設け、足軽鉄砲隊で迎撃、当時最強といわれていた武田軍を壊滅させた。以後、武田氏は衰退し、1582滅亡する。
 人質味 銃器味

南北朝の合体(なんぼくちょうのがったい)南北朝合一(なんぼくちょうごういつ)
 1392南朝が北朝に吸収される形で合体し、南北朝時代が終わったこと。足利義満(あしかがよしみつ)の仲介で南朝の後亀山(ごかめやま)天皇が京都に帰り、北朝の後小松(ごこまつ)天皇に神器を渡して譲位した。当初は南北両朝交互に皇位に就くはずであったが室町幕府によって反故にされ、以後は現在まで代々北朝が皇位を継承している。
南北味

日本(にほん・にっぽん・やまと)≧日本国(にっぽんこく・にほんこく)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「

保科正之(ほしなまさゆき)
 (1611-1672) 大名。陸奥会津藩主。徳川秀忠の四男。1617年に信濃高遠藩主・保科正光(まさみつ)の養子になり、1631養父の死で高遠藩主に就任、1636出羽山形に1643陸奥会津藩主に転封、1651兄で三代将軍の徳川家光(いえみつ)没後は甥で四代将軍の徳川家綱(いえつな)を補佐し、1663殉死の禁止を提言するなど文治政治を行った。

本能寺の変(ほんのうじのへん)
 1582天下統一を目指していた織田信長が家臣の明智光秀に殺害された事件。信長は備中高松城を攻囲中の羽柴(豊臣)秀吉からの報告を受けて自らの出陣を決意し、明智光秀に救援を命令するが、丹波亀山城を出た光秀は老の坂で取って返し、京都本能寺に宿泊していた信長を討ち取り、その子・信忠も二条御所にて討ち取った。ロス味

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