262.生首味 基礎用語集

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足利持氏(あしかがもちうじ)
 (1398-1439) 武将。四代鎌倉公方(在職1409-1439)。満兼(みつかね)の子。1409父の死で鎌倉公方を継ぎ、幕府の助力で1416-1417上杉禅秀(うえすぎぜんしゅう。氏憲)の乱を平定、足利義持(よしもち)に反発と謝罪を繰り返し、1429クジで将軍となった足利義教(よしのり)と対立、1438離反した関東管領・上杉憲実(うえすぎのりざね)を攻めて幕府軍に敗れ、1439憲実に攻められて自殺した。(永享の乱)
クジ味

足利義教(あしかがよしのり)←足利義宣(あしかがよしのぶ)←義円(ぎえん)
 (1394-1441) 武将。室町幕府六代将軍(在職1429-1441)。義満(よしみつ)の子。義持(よしもち)の弟。初め青蓮院(しょうれんいん)で出家し、大僧正・准后(じゅごう)・天台座主になるが、1428クジで選ばれて1429将軍となり、専制政治を志向、諸将の相続に介入し、公家や宗教などの反対勢力を弾圧、1438-1439永享の乱(えいきょうのらん)で鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)を、1440結城合戦(ゆうきかっせん)で結城氏朝(うじとも)・足利安王丸(やすおうまる)・春王丸(はるおうまる。ともに持氏の子)を滅ぼし、丹後等守護・一色義貫(いっしきよしつら)らを殺害したが、1441播磨等守護・赤松満祐(あかまつみつすけ)に謀殺された(嘉吉の変・嘉吉の乱)。
クジ味 暴君味

今川義元(いまがわよしもと)
 (1519-1560) 武将。駿河等守護。今川氏親(うじちか)の子。長兄氏輝(うじてる)死後、1536花倉の乱で次兄の玄光恵探(げんこうえたん)を破って家督を継ぎ、三河の松平氏を併合して尾張東部まで領国を拡張、いち早く検地を行い、商工業振興や富国強兵に努め、1553分国法「今川仮名目録追加(いまがわかなもくろくついか)」を制定、1554善徳寺(ぜんとくじ)の会盟で、甲斐の武田信玄(たけだしんげん)・相模の北条氏康(ほうじょううじやす)と三国同盟を締結、後方の憂いを無くして京都に向かうが、1560桶狭間(おけはざま)の戦で尾張の織田信長(おだのぶなが)に敗死した。
最強味 裏切味

江戸(えど)
 現在の東京都都心。江戸時代の政治の中心地(首都)。1457太田道灌(おおたどうかん)が江戸城を築いて栄え、1590徳川家康(とくがわいえやす)が入城により発展、江戸時代中期に人口百万人を超え、1868明治天皇が行幸して東京と改められ、日本の首都になった。

延暦寺(えんりゃくじ)
 滋賀県大津市比叡山(ひえいざん)所在。天台宗(てんだいしゅう)総本山。山号比叡山。785最澄(さいちょう)が入山し、788一乗止観院(いちじょうしかんいん比叡山寺)を建立、唐から帰国後に天台宗を開き、823最澄死後に「延暦寺」の勅願を賜与、仏教の中心地として栄え、南都(興福寺)と並んで北嶺(ほくれい)と呼ばれた。

織田信長(おだのぶなが)
 (1534-1582) 武将。織田信秀(のぶひで)の子。父の死後、尾張を統一、1560桶狭間(おけはざま)の戦で今川義元(いまがわよしもと)を討ち、1567美濃の斎藤氏を追って岐阜城に入城、1568足利義昭(あしかがよしあき)を擁して上洛し、1570姉川(あねがわ)の戦で浅井(あさい)・朝倉(あさくら)氏を倒し、1571比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を焼き打ち、1573義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、1574長島一向一揆(いせながしまいっこういっき)を、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(たけだかつより)を撃破、1576近江に安土(あづち)城を築いて移り、楽市(らくいち)・楽座(らくざ)を実施、1580石山本願寺(いしやまほんがんじ)を大坂から立ち退かせ、1582天目山(てんもくざん)の戦で勝頼を滅ぼすが、本能寺(ほんのうじ)の変で家臣の明智光秀(あけちみつひで)に討たれた。
最強味 鼓舞味 大雪味 騒乱味 暴力味 虐殺味 人質味 銃器味 俺様味 ロス味 ロス味   

鎌倉時代(かまくらじだい)
 (1185頃〜1333) 鎌倉に幕府が置かれ、武士が支配していた時代。1185源頼朝(みなもとのよりとも)の守護・地頭設置や1192頼朝の将軍就任などによって始まり、源氏・藤原氏・皇族が将軍に就任、1219源氏滅亡後は北条(ほうじょう)氏が執権や得宗(とくそう)として実権を握り、鎌倉文化が栄えるが、1333後醍醐(ごだいご)天皇によって滅ぼされた。

軍記物(ぐんきもの)=軍記物語
 中世に発達した戦乱を題材とした物語。後世には語り物として庶民の間にも流行した。940『将門記』が最初で、『陸奥話記』『保元物語』『平治物語』『平家物語』『源平盛衰記』『太平記』などが有名。

将門記(しょうもんき)
 940成立(平安時代後期成立説もアリ)した最初の軍記物語。平将門の乱の様子を漢文で記した。作者は不明だが、僧が関わったとみられる。

真言宗(しんごんしゅう)
 仏教の流派。空海(くうかい)が唐から将来して開宗。天台宗(てんだいしゅう)の台密(たいみつ)に対して東密(とうみつ)と呼ばれる。京都の東寺(とうじ)や高野山(こうやさん)の金剛峰寺(こんごうぶじ)を中心に発展し、三十六流に分かれた。

新皇(しんのう)
 939平将門が名乗った君主号。坂東諸国を占領した将門は武蔵権守・興世王の勧めで中国の皇帝にならって即位したという。

摂政(せっしょう)
 天皇に代わって国政を執政する者。初めての摂政は『日本書紀』によれば神功皇后とされるが、明らかではない。皇族の摂政は推古朝の聖徳太子(しょうとくたいし)が知られ、斉明朝の中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や天武朝の草壁皇子(くさかべのおうじ)も摂政の職を執り行ったという。臣下で初めての摂政は、清和朝の藤原良房(ふじわらのよしふさ)。

平 貞盛(たいらのさだもり)
 (?-?) 武将。国香(くにか。良望)の子。上洛して左馬允(さまのさかん)に就くが、935父が平将門(まさかど)に殺されたため常陸に帰国、叔父・平良兼(よしかね)らとともに将門と戦うが敗れ、一時京に戻った後、下野の武将・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らと結んで将門を討ち、右馬助(うまのすけ)に就任、鎮守将軍(ちんじゅしょうぐん)・丹波守(たんばのかみ)・陸奥守(むつのかみ)等を歴任した。生首味
揉消味

平 忠常(たいらのただつね)
 (967-1031) 武将。千葉氏・上総氏などの祖。忠頼の子。下総を本拠に勢力を振るい、武蔵国押領使・上総介に就任、1028安房守・平維忠(たいらのこれただ。または源惟忠)を殺害、次の安房守・藤原光業(ふじわらのみつなり)を追って房総地方を制圧したが、1030甲斐守・源頼信(みなもとのよりのぶ)に降伏(平忠常の乱)、1031京都に護送される途中に美濃で没した。
降伏味

平 将門(たいらのまさかど)
 (?-940) 武将。良将(よしまさ)または良持(よしもち)の子。初め京都で関白・藤原忠平(ふじわらのただひら)に仕え、下総に帰国後、931伯父・平良兼(よしかね)と対立、931伯父・平国香(くにか)を殺し、その子・平貞盛や良兼らを撃破、常陸(ひたち)・下野(しもつけ)・上野(こうずけ)・武蔵(むさし)・相模(さがみ)国府を攻略し、ほぼ関東一円を支配、新皇(しんのう)を称し、下総猿島(さしま)を内裏としたが、940貞盛・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らに討たれた(平将門の乱)。
悪党味 生首味

平将門の乱(たいらのまさかどのらん)
 (939or931-940) ^平将門が関東で起こした反乱。931平将門は叔父・平良兼と抗争し、935源護(みなもとのまもる)と平真樹(まさき)に介入、伯父・平国香とも対立して殺害して936入獄し、大赦で帰国後も一族と抗争、武蔵や常陸の紛争に介入し、939藤原玄明(はるあき)を支援して常陸国司に反旗を翻し、関東諸国を次々と制圧、新皇を自称し、兄弟らを関東諸国司に任じたが、940藤原秀郷(ひでさと)・平貞盛(さだもり)に敗死した。
悪党味

富樫政親(とがしまさちか)
 (1455-1488) 武将。加賀守護。父は加賀北半国守護の成春(しげはる)。父の跡をついで加賀北半国守護となり、大叔父で南半国守護の富樫泰高(やすたか)と対立、応仁の乱では政親が東軍、泰高が西軍として戦い、弟・富樫幸千代(こうちよ)とも抗争、一向一揆の支援を得て幸千代を駆逐して加賀守護に返り咲くが、一向宗弾圧に転じたため1488一揆数万〜二十万人に高尾城を攻囲され、隣国からの援軍も撃退されて自害した。
北陸味

日本(にほん・にっぽん・やまと)≧日本国(にっぽんこく・にほんこく)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。1869から事実上の首都は東京。

藤原忠平(ふじわらのただひら)
 (880-949) 公卿。摂政・関白・太政大臣。藤原基経(もとつね)の子。母は人康親王(さねやすしんのう)の女。時平(ときひら)らの弟。900参議になるが辞退し、908還任、914右大臣となり、927『延喜式』を完成、930朱雀(すざく)天皇の摂政に就き、935-941承平・天慶の乱を平定、941関白に転じ、日記『貞信公記(ていしんこうき)』を残した。
受験味 入試味 教育味 悪党味 悪党味

藤原秀郷(ふじわらのひでさと)
 (?-?)武将。魚名(うおな)の子孫。村雄(むらお)の子。小山氏などの祖。下野国を本拠に勢力を拡大するが、916下野国司に訴えられて流刑にされ、940平貞盛(たいらのさだもり)とともに平将門(たいらのまさかど)の乱を平定、下野守に任ぜられた。
生首味

平安時代(へいあんじだい)
 (794-1185頃) 平安京に都が置かれ、天皇や貴族が支配していた時代。794桓武(かんむ)天皇の平安遷都に始まり、初期は天皇家が、前中期は藤原氏が、後期は院政の主が、末期は平家が政権を担った。1185源頼朝(みなもとのよりとも)の守護・地頭設置(事実上の鎌倉幕府の創立)頃までをいう。⇒平安時代年表

山名氏清(やまなうじきよ)
 (1344-1391) 武将。丹波・和泉等守護。時氏の子。南朝との戦いに活躍し、山名一族で十一か国を領し、「六分一殿(ろくぶんのいちどの)」と呼ばれたが、足利義満に挑発され、1391おいの山名満幸(みつゆき)らと明徳の乱を起こして敗死した。戦争味平和味無念味

郎党=郎等(ろうとう・ろうどう)
 有力者の側近や子分。中世武家社会では、惣領に仕える従者。

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