235.貨幣味 基礎用語集

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阿衡の紛議(あこうのふんぎ)=阿衡事件
 (887-888)宇多天皇(うだてんのう)と藤原基経(ふじわらのもとつね)との間に起こった政争。887宇多天皇即位時の基経を関白に任じた勅書に「阿衡」とあるのをみて、基経が阿衡に職掌なしとして政務を放棄した。勅書を作成した橘広相(たちばなのひろみ)は困惑し、888宇多天皇が譲歩して勅書を撤回、基経は娘の温子(おんし)を入内させた。スト味

宇多法皇(うだほうおう)←宇多上皇(じょうこう)←宇多天皇←源定省(みなもとのさだみ)
 (867-931) 伝五十九代天皇(在位887-897)。光孝(こうこう)天皇皇子。884臣籍降下されるが、887父の死後に即位、887-888阿衡(あこう)の紛議で関白・藤原基経(ふじわらのもとつね)と対立するが、891基経死後に寛平(かんぴょう)の治を断行、菅原道真(すがわらのみちざね)を登用し、摂関家を抑制、長子・醍醐(だいご)天皇に譲位し、『寛平御遺誡(かんぴょうのごゆいかい)』を残した。スト味 受験味朦朧味

延暦寺(えんりゃくじ)
 滋賀県大津市比叡山所在。天台宗(てんだいしゅう)総本山。山号比叡山(ひえいざん)。785最澄(さいちょう)が比叡山に入り、788一乗止観院(いちじょうしかんいん比叡山寺)を立てたのが起源。最澄は唐から帰国後、この地で天台宗を開き、その死後「延暦寺」の勅願を賜り、平安時代以後は奈良の南都(興福寺)と並んで北嶺(ほくれい)と呼ばれ、日本の仏教教学の中心となった。

●関白(かんぱく)
 天皇が国政を執り行うのを補佐する者。初めての関白は光孝朝の藤原基経(ふじわらのもとつね)。

教王護国寺(きょうおうごこくじ)=東寺(とうじ)
 京都市南区所在。真言宗東寺派総本山。794平安京遷都の際に西寺(さいじ)とともに創建され、823嵯峨(さが)天皇が空海(くうかい)に下げ渡して真言宗の中心となった。五重塔・金堂・大師堂・蓮華門・僧形八幡神像・西院不動明王像・真言七祖像・両界曼荼羅・「風信帖」などは国宝。三密味
貨幣味

空海(くうかい)=弘法大師(こうぼうだいし)
 (774-835?) 僧。真言宗・書道大師流の祖。書道三聖・三筆の一。佐伯田公(さえきのたきみ)の子。上京して大学へ学んだ後に出家し、804遣唐使に従って入唐、青竜寺の恵果(けいか)に密教を学んで806帰国し、高雄山寺に居住、816嵯峨天皇に高野山を賜り金剛峰寺を、823東寺を賜り教王護国寺(きょうおうごこくじ)を創建して真言宗を布教、824少僧都・827大僧都となり、828綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を創設、『三教指帰(さんごうしいき)』『十住心論(じゅうじゅうしんろん)』などを著し、最澄(さいちょう)宛の書簡「風信帖(ふうしんじょう)」を残した。三密味 引籠味

高野山(こうやさん)
 和歌山県高野町にある標高千メートル内外の山地。真言宗(しんごんしゅう)総本山・金剛峰寺(こんごうぶじ)がある。三密味
引籠味

金剛峰寺(こんごうぶじ)
 和歌山県高野町所在。真言宗総本山。山号高野山(ひえいざん)。唐から帰国した空海が816建立し、古義真言宗の中心となり、多くの荘園や僧兵を抱えた。三密味
引籠味

今昔物語集(こんじゃくものがたりしゅう)
 平安時代の説話集。三十一巻(三巻散在)。現存千四十話。編集者は不明だが、源隆国(みなもとのたかくに)とも伝えられている。大正時代の文豪・芥川竜之介(あくたがわりゅうのすけ)が考証し、『鼻』『芋粥(いもがゆ)』などを著した。
熊野味 アユ味 泥棒味 役人味 増税味 取違味 揉消味 三密味 貨幣味

●嵯峨太上天皇(さがだいじょうてんのう)=嵯峨上皇(さがじょうこう)←嵯峨天皇←神野親王=賀美能親王(かみのしんのう)
 (786-842) 伝五十二代天皇(在位809-823)。三筆(さんぴつ)の一人。桓武(かんむ)天皇の皇子。平城(へいぜい)天皇の弟。兄の譲位で即位し、検非違使(けびいし)や810蔵人所(くろうどのところ)を設置、蔵人頭に北家の藤原冬嗣(ふじわらのふゆつぐ)らを登用し、式家の藤原仲成(なかなり)・薬子(くすこ)兄妹らを排斥(薬子の変)、820『弘仁格式(こうにんきゃくしき)』を完成、漢詩集814『凌雲集(りょううんしゅう)』・818『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』・814系譜集『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』を編集させた。842死後、承和(じょうわ)の変が起こった。
内乱味 告発味 安保味 不戦味 三密味

左大臣(さだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣欠員時の最高官。国政を統括した。645大化の改新で阿倍内麻呂(あべのうちまろ。倉梯麻呂)が任じられたのが最初。 

参議(さんぎ)
 朝廷の閣僚。令下官(りょうげのかん)の一つ。太政官で大臣・納言(なごん)に次き、公卿会議に参加。現代でいう国相。702大伴安麻呂(おおとものやすまろ)・粟田真人(あわたのまひと)・高向麻呂(たかむこのまろ)・下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)・小野毛野(おののけの)の五人に「朝政を参議」させたのが初め。731正式設置。

承和の変(じょうわのへん)
 842嵯峨天皇(さがてんのう)没後、政権確立を企んだ藤原良房(ふじわらのよしふさ)が外孫・道康(みちやす)親王を擁立、皇太子・恒貞親王(つねさだしんのう)を廃し、橘逸勢(たちばなのはやなり)・伴健岑(とものこわみね)・文室秋津(ふんやのあきつ)らを失脚させた事件。逸勢は伊豆へ、健岑は隠岐へ島流しにされ、橘氏・伴氏は衰退、良房一家・藤原北家の勢力が拡大した。告発味2
安保味 祇園味

真言宗(しんごんしゅう)
 仏教の流派。空海(くうかい)が唐から将来して開宗。天台宗(てんだいしゅう)の台密(たいみつ)に対して東密(とうみつ)と呼ばれる。京都の東寺(とうじ)や高野山(こうやさん)の金剛峰寺(こんごうぶじ)を中心に発展し、三十六流に分かれた。

菅原道真(すがわらのみちざね)
 (845-903) 学者。公卿。右大臣。是善(これよし)の子。母は伴氏。877文章(もんじょう)博士になり、894遣唐使(けんとうし)廃止を進言、887〜888阿衡(あこう)の紛議に意見して宇多(うだ)天皇の信頼を得、892史書『類聚国史(るいじゅうこくし)』を編集、893参議になり、899右大臣に昇って正史『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』・詩集『菅家文集(かんけぶんそう)』を編集するが、901左大臣・藤原時平(ときひら)の讒言(ざんげん)によって大宰府(だざいふ)に左遷され(昌泰の変)、任地で没して怨霊となり、天神として祭られた。スト味
受験味 入試味 教育味 悪党味 教育味 猛威味

太政大臣(だじょうだいじん・だいじょうだいじん)
 律令制における最高責任者。太政官の最高官。常置ではなく、適任者がいなければ欠員。671大友(おおとも)皇子が任じられたのが最初。臣下初の太政大臣は857藤原良房(ふじわらのよしふさ)。

橘 諸兄(たちばなのもろえ)←葛城王(かつらぎおう・かずらきおう)
 (684-757) 公卿。左大臣。橘氏の祖。美努王(みぬおう)の子。母は県犬養橘三千代(あがたのいぬかいたちばなのみちよ)。藤原光明子(こうみょうし)の異父兄として藤原四兄弟没後に政権を握り、参議から大納言、右大臣、左大臣と昇進、国分寺建立・大仏造立など聖武(しょうむ)天皇の鎮護国家(ちんごこっか)政策に協力し、740恭仁京(くにきょう)遷都を主導したと思われるが、756左大臣を辞任した。テロ味
辞任味

天台宗(てんだいしゅう)
 仏教の宗派。隋(ずい)の智(ちぎ)を祖とし、法華経を基とする。日本には805最澄(さいちょう)が将来し、桓武(かんむ)天皇によって国家公認の宗派となった。十世紀末に山門派(さんもんは。延暦寺)と寺門派(じもんは。園城寺)に分裂した。

日本(にほん・にっぽん・やまと)≧日本国(にっぽんこく・にほんこく)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。1869から事実上の首都は東京。

比叡山(ひえいざん)=叡山(えいざん)
 京都府京都市と滋賀県大津市の境を成す山。標高八四八メートル。山頂に延暦寺(えんりゃくじ)が、山麓に園城寺(おんじょうじ)がある。

藤原忠平(ふじわらのただひら)
 (880-949) 公卿。摂政・関白・太政大臣。藤原基経(もとつね)の子。母は人康親王(さねやすしんのう)の女。時平(ときひら)らの弟。900参議になるが辞退し、908還任、914右大臣となり、927『延喜式』を完成、930朱雀(すざく)天皇の摂政に就き、935-941承平・天慶の乱を平定、941関白に転じ、日記『貞信公記(ていしんこうき)』を残した。
受験味 入試味 教育味 悪党味

藤原時平(ふじわらのときひら)
 (871-909) 公卿。左大臣。藤原基経(もとつね)の子。忠平(ただひら)・温子(おんし。宇多天皇女御)・穏子(おんし。醍醐天皇皇后)らの兄。891参議となり、中納言・大納言を経て899左大臣に昇進、901右大臣・菅原道真(すがわらのみちざね)を讒言(ざんげん)して大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷させ、醍醐(だいご)天皇による延喜の治(えんぎのち)を主導、『日本三代実録』『延喜格式』編修をするが、子孫は栄えなかった。
受験味 入試味2

北家(ほっけ)=藤原北家(ふじわらほっけ)
 藤原四家のうち、藤原不比等(ふひと)の次男・房前(ふささき)の子孫のこと。南家(長男・武智麻呂の子孫)・式家(三男・宇合の子孫)・京家(四男・麻呂の子孫)に対していう平安中期以降、宗家は摂関家として繁栄、良房(よしふさ)・基経(もとつね)・道長(みちなが)・頼通(よりみち)らを輩出した。

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