16.大雪味 基礎用語集

明智光秀(あけちみつひで)
 (1528?-1582) 武将。足利義昭(あしかがよしあき)の紹介を機に織田信長に仕え、諸戦で活躍して近江坂本(さかもと)城主になるが、1582本能寺(ほんのうじ)の変で信長を殺害、京都・近江・美濃を制圧するも、中国攻めから取って返してきた羽柴(豊臣)秀吉に山崎(やまざき)の戦で敗れ、坂本へ落ち延びる途中に土民の襲撃を受けて自殺した。

足利義昭(あしかがよしあき)
 (1537-1597) 武将。室町幕府十五代将軍(在職1568-1573)。義晴(よしはる)の子。兄・義輝(よしてる)が松永久秀(まつながひさひで)らに殺されたため近江に逃れ、朝倉義景(あさくらよしかげ)、次いで織田信長を頼り、1568信長とともに上京して将軍に就任するが、信長と不和になり、1572武田信玄(たけだしんげん)・顕如(けんにょ)・義景らと信長包囲網を形成してこれを追い詰めるが、信玄の死や朝倉・浅井氏の滅亡によって瓦解(がかい)、1573山城槙島(まきしま)城で挙兵するも敗れ、追放された。

姉川の戦(あねがわのたたかい)
 1570織田信長・徳川家康連合軍が近江の姉川(滋賀県長浜市)で浅井・朝倉氏を破った戦い。信長は上洛命令を無視した朝倉義景(よしかげ)を討伐するが、浅井長政(あさいながまさ)の裏切りにあって失敗、一転して窮地に陥ったが、この戦いで形勢は逆転、その後の志賀の陣では苦戦するが、1573両氏滅亡にこぎつけた。

石山合戦(いしやまかっせん)=石山戦争=石山本願寺(いしやまほんがんじ)攻め
 (1570-1580) 足利義昭を擁して京都に上った織田信長と、本願寺法主・顕如(けんにょ)との戦争。信長は本願寺に矢銭(やせん。軍費)徴収と石山立ち退きを命じたが、顕如はこれを拒否、諸国の一向一揆を扇動し、朝倉・浅井・武田・毛利氏ら結んで抗戦したが、1580ついに屈し、石山を退去した。

石山本願寺(いしやまほんがんじ)
 現在の大阪市中央区にあった浄土真宗の寺。1496大坂に蓮如(れんにょ)が隠居所を築いたのが起源で、1532山科本願寺焼失後、証如(しょうにょ)が本山を移転、今日の大阪の原型となる広大な寺内町(じないちょう)を形成したが、顕如(けんにょ)の代に織田信長と争い、1570-1580石山合戦の果てに焼失した。

一向一揆(いっこういっき)
 室町〜戦国時代に近畿・中部地方で起こった浄土真宗(じょうどしんしゅう。一向宗)信仰者の武装集団。本拠は大坂の石山本願寺(いしやまほんがんじ)。最大のものは加賀(かが)の一向一揆。各地の守護大名や戦国大名らと交戦したが、1580織田信長と石山本願寺と講和、加賀の一向一揆の滅亡によって解体した。

今川義元(いまがわよしもと)
 (1519-1560) 武将。駿河等守護。今川氏親(うじちか)の子。長兄氏輝(うじてる)死後、1536花倉の乱で次兄の玄光恵探(げんこうえたん)を破って家督を継ぎ、三河の松平氏を併合して尾張東部まで領国を拡張、いち早く検地を行い、商工業振興や富国強兵に努め、1553分国法「今川仮名目録追加(いまがわかなもくろくついか)」を制定、1554善徳寺(ぜんとくじ)の会盟で、甲斐の武田信玄(たけだしんげん)・相模の北条氏康(ほうじょううじやす)と三国同盟を締結、後方の憂いを無くして京都に向かうが、1560桶狭間(おけはざま)の戦いで尾張の織田信長(おだのぶなが)に敗死した。
 最強味

上杉謙信(うえすぎけんしん)←上杉輝虎(てるとら)←上杉政虎(まさとら)長尾景虎(ながおかげとら)
 (1530-1578) 武将。越後守護代。関東管領。長尾為景(ためかげ)の子。1548家督を継ぎ、1550越後国主となり、信濃北部に進出した甲斐の戦国大名・武田信玄(たけだしんげん)と数度交戦(川中島の戦)、関東管領・上杉憲政(うえすぎのりまさ)の頼みで関東の戦国大名・北条氏康(ほうじょううじやす)を攻め、1561関東管領を継承、1573越中を平定して織田信長(おだのぶなが)を攻めるが、1578急死した。
撤退味 地震味2 政権味

栄西(えいさい・ようさい)=明庵栄西(みょうあんえいさい)
 (1141-1215) 僧。日本臨済宗(りんざいしゅう)の開祖。初め比叡山(ひえいざん)で天台教学を学び、入宋して臨在禅(りんざいぜん)を将来、『興禅護国論(こうぜんごこくろん)』を著して禅宗を広め、鎌倉に寿福寺(じゅふくじ)を、京都に建仁寺(けんにんじ)を創建、『喫茶養生記(きっさようじょうき)』を著して茶の飲み方を広めた。

江戸幕府(えどばくふ)・徳川(とくがわ)幕府
 (1603-1867) 江戸時代の武家政権。1603徳川家康(とくがわいえやす)が征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)に任命されたことに始まる。徳川氏が代々将軍に就任、老中(ろうじゅう)が政務を統括し、臨時に大老(たいろう)が置かれた。1867十五代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)が朝廷に大政奉還(たいせいほうかん)、1868-1869戊辰(ぼしん)戦争をへて幕府は解体した。

延暦寺(えんりゃくじ)
 滋賀県大津市比叡山所在。天台宗(てんだいしゅう)総本山。山号比叡山(ひえいざん)。785最澄(さいちょう)が比叡山に入り、788一乗止観院(比叡山寺)を立てたのが起源。最澄は唐から帰国後、この地で天台宗を開き、その死後「延暦寺」の勅願を賜り、平安時代以後は奈良の南都(興福寺)と並んで北嶺(ほくれい)と呼ばれ、日本の仏教教学の中心となった。

延暦寺の焼打(えんりゃくじのやきうち=比叡山焼き討ち
 1571織田信長が浅井・朝倉氏と結んで敵対した延暦寺(えんりゃくじ)を全山焼き払った事件。根本中堂(こんぽんちゅうどう)ほか三百の堂宇が焼かれ、僧俗男女三、四千人が虐殺された。

織田信長(おだのぶなが)
 (1534-1582) 武将。織田信秀(のぶひで)の子。父の死後、尾張を統一、1560桶狭間(おけはざま)の戦いで今川義元(いまがわよしもと)を討ち、1567美濃の斎藤氏を追って岐阜城に入城、1568足利義昭(あしかがよしあき)を擁して上洛し、1570姉川(あねがわ)の戦いで浅井(あさい)・朝倉(あさくら)氏を倒し、1571比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を焼き打ち、1573義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、1574伊勢長島一向一揆(いせながしまいっこういっき)を、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(たけだかつより)を撃破、1576近江に安土(あづち)城を築いて移り、楽市(らくいち)・楽座(らくざ)を実施、1580石山本願寺(いしやまほんがんじ)を大坂から立ち退かせ、1582天目山(てんもくざん)の戦いで勝頼を滅ぼすが、本能寺(ほんのうじ)の変で家臣の明智光秀(あけちみつひで)に討たれた。
   大雪味

加賀の一向一揆(かがのいっこういっき)
 (1474-1580) 加賀を支配した一向宗門徒の自治組織。1474加賀の一向宗門徒は加賀守護富樫幸千代(とがしこうちよ)を滅ぼし、1488ともに戦った新守護富樫政親(まさちか)も殺害、越前の朝倉(あさくら)氏などと抗争を続けたが、1580織田信長によって滅ぼされた。

鎌倉新仏教(かまくらしんぶっきょう)
 平安末期〜鎌倉中期に興った仏教宗派。浄土教系(浄土宗・浄土真宗)・禅宗系(臨済宗・曹洞宗)・新宗教系(時宗・法華宗)がある。

宗派
(別名)
開祖(異称)
(生没年)
本山・本拠
(所在地)
著作・教典 思想・教義
浄土宗 法然(源空)
(1133-1212)
知恩院
(京都市東山区)
『選択本願念仏集』 専修念仏
「南無阿弥陀仏」
浄土真宗
(一向宗)
親 鸞
(1173-1262)
本願寺
(京都市下京区)
『教行信証』
『歎異抄』(唯円編)
悪人正機説
臨済宗 明庵栄西
(1141-1215)
建仁寺
(京都市東山区)
『興禅護国論』
『喫茶養生記』
臨済禅・公案
曹洞宗 道 元
(1200-1253)
永平寺
(福井県永平寺町)
『正法眼蔵』
『正法眼蔵随聞記』
只管打坐
時宗 一遍(智真)
(1239-1289)
清浄光寺
(神奈川県藤沢市)
『一遍上人語録』 踊念仏・遊行
法華宗
(日蓮宗)
日 蓮
(1222-1282)
久遠寺
(山梨県身延町)
『立正安国論』
『観心本尊鈔』
題目
「南無妙法蓮華経」

●関白(かんぱく)
 天皇が国政を執り行うのを補佐する者。初めての関白は光孝(こうこう)朝の藤原基経(ふじわらのもとつね)。

桓武平氏(かんむへいし)
 平氏のうち、桓武天皇から出た一族。桓武天皇第五皇子・葛原(かずらわら)親王の子の子孫が最も栄えた。 葛原親王の王子・高望(たかもち)王の流れからは、平将門(たいらのまさかど)・平清盛(きよもり)・北条時政(ほうじょうときまさ)ら多くの武人を輩出した。

管領(かんれい)
 
室町幕府の将軍補佐役・政務長官。三管領(細川・斯波・畠山氏)から交替で選ばれた。

五・一五(ごいちご)事件
 1932.5/15に起きた海軍青年将校らによる反乱事件。古賀清志(こがきよし)・三上卓(みかみたく)ら海軍青年将校や、陸軍士官候補生、橘孝三郎(たちばなこうさぶろう)ら愛郷塾(あいごうじゅく)のメンバーが陸相・荒木貞夫(あらきさだお)を首班とする軍事政権樹立を画策し、首相官邸・警視庁・日本銀行を襲撃、首相・犬養毅(いぬかいつよし)を射殺したが、即日全員自首した。処罰は軽く、最高刑は橘の無期懲役。政党内閣を終焉(しゅうえん)させた事件として知られる。

興福寺(こうふくじ)
 奈良県奈良市所在。法相宗(ほっそうしゅう)大本山。藤原氏の氏寺。藤原鎌足(ふじわらのかまたり)が建立した山階(やましな)寺をその子・不比等(ふひと)が奈良に移したもの。平安時代以降は北嶺(延暦寺)と並んで日本の仏教教学の中心となり、中世には大和国守護を兼ねた。

最澄(さいちょう)=伝教大師(でんぎょうだいし)
 (767-822) 僧。日本天台宗の開祖。785比叡山(ひえいざん)に入り、788一乗止観院(ひえいざんじ・後の延暦寺)を建立、804入唐して天台教学を学び、805帰国して日本天台宗を開宗、大乗戒壇(だいじょうかいだん)創設を目指し、『顕戒論(けいかいろん)』『山家学生式(さんげがくしょうしき)』などを著した。

桜田門外(さくらだもんがい)の変
 1858日米修好通商条約調印に反対し、1858-1859安政(あんせい)の大獄(たいごく)に激怒した尊皇攘夷(そんのうじょうい)派の志士十八名(水戸浪士17+薩摩浪士1)が、江戸城桜田門外で登城中の大老・井伊直弼(いいなおすけ)を襲撃した事件。直弼が薩摩浪士・有村次左衛門(ありむらじざえもん)らに討ち取られたほか、双方八名ずつの死者を出した。

柴田勝家(しばたかついえ)
 (?-1583) 武将。織田信長に仕え、畿内・近江・越前平定戦に活躍、1575越前一向一揆を平定し、越前北庄(きたのしょう)城主として越前の大半を支配、検地や刀狩(かたながり)を行い、1580加賀一向一揆を鎮圧、越後の上杉景勝(うえすぎかげかつ)と対決するが、1582本能寺(ほんのうじ)の変後、信長の三男・信孝(のぶたか)と結んで羽柴(はしば。豊臣)秀吉と争い、1583賤ヶ岳((しずがたけ))の戦いで敗れ、北庄で自殺した。 

霜月騒動(しもつきそうどう)
 1285九代執権・北条貞時(ほうじょうさだとき)の外舅(または外祖父)で、評定衆(ひょうじょうしゅう)も務めた実力者・安達泰盛(あだちやすもり)が、内管領(ないかんれい・うちのかんれい)・平頼綱(たいらのよりつな)に討伐され、滅ぼされた事件。この事件は執権政治から得宗(とくそう)専制政治への転換点とされ、以後、内管領の権力はより強化された。 
揉事味

守護(しゅご)
 室町・鎌倉時代の地方官。国ごとに置かれた軍事・行政長官。源頼朝(みなもとのよりとも)が設置したのが始まり。戦国時代に下克上により衰退するが、なかには戦国大名化するものもあった。

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)≦将軍
 もとは蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための軍事長官。後に武家政権の最高指導者の称号。奈良時代の征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。1192源頼朝(みなもとのよりとも)就任以後は幕府の統率者の称号。将軍味

親鸞(しんらん)
 (1173-1262) 僧。浄土真宗(じょうどしんしゅう)の開祖。法然の弟子として専修念仏(せんじゅねんぶつ)を広めるが、承元(じょうげん)の法難により越後に流刑、赦免後は関東に移住し、教典『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』を著述、悪人正機説(あくにんしょうきせつ)を主張し、武士や農民たちに布教した。

崇峻天皇(すしゅんてんのう)
 (?-592) 第三十二代天皇(在位587-592)。欽明(きんめい)天皇皇子。用明(ようめい)天皇没後、蘇我馬子に擁されて即位したが、後に対立し、馬子の部下・東漢駒(やまとのあやのこま)に殺された。

戦国大名(せんごくだいみょう)
 戦国時代に各地に割拠した大領主。守護(しゅご)大名から移行したもののほか、守護代や国人(こくじん)から台頭したものもある。

僧兵(そうへい)=悪僧(あくそう)
 武装した僧、またはその集団。興福寺(南都)と延暦寺(北嶺)のものが特に知られ、よく朝廷に対して強訴(ごうそ)を行った。

蘇我入鹿(そがのいるか)
 (?-645) 鞍作・林太郎とも。大臣(おおおみ)。蝦夷の子。643蝦夷より大臣を譲られ、斑鳩宮(いかるがのみや)に山背大兄王(やましろのおおえのおう)を攻め滅ぼして権勢を誇ったが、645中大兄皇子(天智天皇)・中臣(藤原)鎌足らによって飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)にて殺害された(乙巳の変)。

武田信玄(たけだしんげん)・晴信(はるのぶ)
 (1521-1573) 武将。甲斐等守護。信虎(のぶとら)の子。1541父を追放して家督を継ぎ、1547分国法「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい。「信玄家法」とも)」を制定、1542信濃へ侵攻して諏訪頼重(すわよりしげ)を討ち、小笠原長時(おがさわらながとき)・村上義清(むらかみよしきよ)らを撃破、越後の上杉謙信(うえすぎけんしん)と数度交戦し(川中島の戦い)、1554駿河の今川義元(いまがわよしもと)・相模の北条氏康(ほうじょううじやす)と同盟を結ぶが(善徳寺の会盟)、1560桶狭間の戦いで義元が敗死するや1568駿河に侵攻して今川氏を滅ぼし、1572三方原(みかたがはら)の戦いで徳川・織田連合軍を破るが、まもなく病没した(鉄砲で狙撃されたという説もある)。
  大雪味3 撤退味

茶の湯(ちゃのゆ)・茶道(さどう・ちゃどう)
 喫茶の作法。平安時代の最澄(さいちょう)が唐(とう)から茶の実を持ち帰り、鎌倉時代に明庵栄西(みょうあんえいさい)が飲み方を広めた。室町時代に村田珠光(むらたじゅこう)や武野紹鴎(たけのじょうおう)が飲み方に工夫を凝らし、千利休(せんのりきゅう)が大成した。

天台宗(てんだいしゅう)
 隋(ずい)の僧・智(ちぎ)が開いた法華経を基とする仏教宗派。日本には805最澄(さいちょう)が将来し、桓武(かんむ)天皇によって国家公認の宗派となった。十世紀末に山門派(さんもんは。延暦寺)と寺門派(じもんは。園城寺)に分裂した。

道元(どうげん)
 (1200-1253) 僧。日本曹洞宗(そうとうしゅう)の開祖。初め天台・臨済宗を学び、入宋して曹洞禅を将来、只管打坐(しかんたざ)を唱え、『正法眼蔵(しょうほうげんぞう)』を執筆、越前に永平寺(えいへいじ)を創建した。

徳川家光(とくがわいえみつ)
 (1604-1651) 江戸幕府三代将軍(在職1623-1651)。秀忠(ひでただ)の子。乳母・春日局(かすがのつぼね)に育てられ、1623父から将軍職を継承、1632父の没後は幕政を主導し、135武家諸法度(ぶけしょはっと)を改正して参勤交代(さんきんこうたい。参勤交替)を制度するなど幕藩体制を確立させ、踏絵(ふみえ)を実施してキリスト教を禁圧し、鎖国(さこく)を断行、1637-1638天草四郎(あまくさしろう)らが起こした島原(しまばら)の乱を鎮圧した。

徳川家康(とくがわいえやす)←松平元康(まつだいらもとやす)←松平元信(もとのぶ)
 (1542-1616) 武将。江戸幕府初代将軍(在職1603-1605)・大御所。三河岡崎(みかわおかざき)城主・松平広忠(まつだいらひろただ)の子。1560桶狭間(おけはざま)の戦後に岡崎城主となり、織田信長と同盟を締結、今川氏を滅ぼして遠江浜松(とおとうみはままつ)城主となるが1572三方原(みかたがはら)の戦で武田信玄(たけだしんげん)に惨敗、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(かつより)を撃退し、1582本能寺(ほんのうじ)の変後、1584小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦後に豊臣秀吉と講和、1590小田原(おだわら)攻めに従って武蔵江戸(えど)城主となり、関東を統治、五大老に列し、秀吉の死後の1600関ヶ原の戦で石田三成らを撃破、1603征夷大将軍となって江戸幕府を開き、1605将軍職を秀忠(ひでたた)に譲渡、駿河府中(するがふちゅう)に退くが、大御所として実権を掌握、1614〜1615大坂の役で豊臣秀頼(ひでより)を滅ぼし、1615武家諸法度(ぶけしょはっと)・禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)・一国一城令(いっこくいちじょうれい)などを定めた。惨敗味 変節味
裏金味4 籠城味

徳川秀忠(とくがわひでただ)
 (1579-1632) 江戸幕府二代将軍(在職1605-1623)。家康の子。父より将軍職を譲られ、1615大坂の豊臣秀頼(とよとみひでより)を滅ぼして元和偃武(げんなえんぶ)を実現、武家諸法度・禁中並公家諸法度などを制定、1623子の家光に将軍職を譲ってからも大御所として実権を握り続けた。

豊臣秀吉(とよとみひでよし)←羽柴(はしば)秀吉←木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)
 (1537-1598) 武将。関白・太政大臣。織田信長に仕えて出世し、1573近江長浜(おうみながはま)城主となり、1577中国攻めを開始、1582備中高松(びっちゅうたかまつ)城攻撃中に信長横死の知らせを受け、山崎(やまざき)の戦で明智光秀(あけちみつひで)を、1583賤ヶ岳(しずがたけ)の戦で柴田勝家(しばたかついえ)を滅ぼし、石山本願寺(いしやまほんがんじ)跡に大坂(おおさか)城を築城、1584小牧・長久手の戦を経て徳川家康と講和、1585関白となって紀伊の根来(ねごろ)・雑賀(さいが)一揆を、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を降し、1586太政大臣に就任、1587九州の島津義久を、1590東北の伊達政宗(だてまさむね)・最上義光(もがみよしあき)らを、関東の北条氏政(ほうじょううじまさ)・氏直(うじなお)を降して天下を統一、太閤検地(たいこうけんち)や刀狩(かたながり)を行い、バテレン追放令や身分統制令などを発令、聚楽第(じゅらくだい)や伏見城を築いたが、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は失敗した。 怪談味2 地震味4 日朝味7 芸人味変化味 花見味 変節味

長島一向一揆(ながしまいっこういっき)=長島一揆
 伊勢長島の願証寺(がんしょうじ)を本拠とした一向宗門徒の自治組織。1570織田信長討伐を目指す本願寺法主・顕如(けんにょ)の命令で蜂起し、尾張小木江(こきえ・おぎえ)城の織田信興(のぶおき)を討ち、柴田勝家(しばたかついえ)を撃退するなど何度も信長軍を退けたが、1574ついに敗れて虐殺された。
騒乱味暴力味泥沼味

南都・北嶺(なんと・ほくれい)
 比叡山(ひえいざん。滋賀県大津市)の延暦寺(えんりゃくじ)と奈良(奈良県奈良市)の仏教勢力、特に興福寺(こうふくじ)のこと。延暦寺と興福寺は平安時代以降、強力な僧兵(そうへい)を抱え、朝廷に対してしばしば強訴(ごうそ)を行った。

日蓮(にちれん)
 (1222-1282) 僧。法華(ほっけ。日蓮)宗の開祖。鎌倉・比叡山(ひえいざん)などで修行し、1253法華宗を開宗、1260北条時頼(ほうじようときより)に『立正安国論(りっしょうあんこくろん)』を提出して元寇(げんこう)を警告し、他宗を徹底的に批判、幾多の法難を乗り越え、『観心本尊鈔(かんしんほんぞんしょう)』『開目鈔(かいもくしょう)』などを執筆、1274身延山(みのぶさん。久遠寺)に入山した。
 揉事味3

二・二六(に・にろく)事件
 1936.2/26に起きた陸軍皇道(こうどう)派の青年将校らによる反乱事件。安藤輝三(あんどうてるぞう)・香田清貞(こうだきよさだ)・野中四郎(のなかしろう)ら陸軍将校に率いられた歩兵千数百名が首相官邸・警視庁・政府高官私邸等を襲撃、高橋是清(たかはしこれきよ。蔵相)・斎藤実(さいとうまこと。内大臣)・渡辺錠太郎(わたなべじょうたろう。教育総監)らを殺害し、鈴木貫太郎(すずきかんたろう。侍従長)らを負傷させ、永田町など日本の政治・軍事中枢部を占拠するが、昭和天皇の命令や石原莞爾(いしはらかんじ)ら陸軍首脳の説得によって三日後に鎮圧された。野中は自殺し、安藤ら十七名が死刑になったほか、彼らに影響を与えた思想家の北一輝(きたいっき)や西田祝(にしだみつぎ)も処刑された。事件後、皇道派は衰退した。

日本(にほん・にっぽん・やまと)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。

(のう)=能楽(のうがく)
 奈良時代に伝わった散楽(さんがく)や、平安時代に起こった猿楽(さるがく)、鎌倉・南北朝時代の発展した田楽(でんがく)などの流れをくむ芸能。室町時代に観阿弥清次(かんあみきよつぐ)・世阿弥元清(ぜあみもときよ)父子が庶民的な舞台芸能に改良した。 

原敬(はらたかし・はらけい)←原健次郎(けんじろう)
 (1856-1921) 政治家。首相(在職1918-1921)。外務次官・駐朝鮮公使・大阪毎日新聞社長等を経て逓信相になり、立憲政友会(りっけんせいゆうかい)総裁として1918初の本格的政党内閣を組織、教育改革・交通整備・産業振興・国防充実という四大政綱を掲げ、積極政策を展開、1919ベルサイユ(ヴェルサイユ)条約に調印し、朝鮮の三・一独立運動、中国の五・四運動を鎮圧、選挙法を改正し、小選挙区制を導入、1920国際連盟に加盟して常任理事国となり、平民宰相として人気だったが、1921東京駅で国鉄駅員・中岡艮一(なかおかこんいち)に殺された。『原敬日記』は明治〜大正期における重要史料。
暗殺味

比叡山(ひえいざん)
 京都府京都市と滋賀県大津市の境を成す山。標高八四八メートル。山頂に延暦寺(えんりゃくじ)が、山麓に園城寺(おんじょうじ)がある。

仏教(ぶっきょう)
 釈迦(しゃか)を開祖とする宗教。日本には欽明(きんめい)天皇の時代に百済の国王・聖明王(せいめいおう)によってもたらされた。年代については552説(『日本書紀』による)と538説(『上宮聖徳法王帝説(じょうぐうしょうとくほうおうていせつ)』『元興寺縁起(がんごうじえんぎ)』による)がある。これを「仏教公伝」とするが、これ以前にも渡来人・司馬達等(しばたっと)が自宅で仏像を礼拝していたという(仏教私伝)。以後、従来からあった神道(しんとう)と並んでわが国に浸透し、現在にいたっている。

分国法(ぶんこくほう)
 戦国大名が領国支配のために制定した法令。以下が主要なもの。

制定年代

分国法名(別名)

条数

制定者(本拠)

15〜16C

大内氏掟書(大内家壁書)

大内政弘・義興(周防山口)

15〜16C

相良氏法度(相良家法度)

41

相良為続・晴広(肥後人吉)

15C後半

朝倉孝景条々
(朝倉敏景十七箇条)

17

朝倉孝景(越前一乗谷)

?

早雲寺殿二十一箇条

21

北条早雲(相模小田原)

1526

今川仮名目録

33

今川氏親(駿河府中)

1533

今川仮名目録追加

21

今川義元(駿河府中)

1536

塵芥集

171

伊達稙宗(出羽米沢)

1547

甲州法度之次第(信玄家法)

26

武田信玄(甲斐府中)

1556

結城氏新法度(結城家法度)

104

結城政勝(下総結城)

156?

新加制式

22

三好長治(阿波勝端)

1567

六角氏式目(義治式目)

67

六角義治(近江観音寺)

1596

長宗我部元親百箇条
 (長宗我部氏掟書)

100

長宗我部元親(土佐大高)

※ 「甲州法度之次第」「結城氏新法度」の条数は、初制定時のもの。

法然(ほうねん)・源空(げんくう)
 (1133-1212) 僧。浄土宗(じょうどしゅう)の開祖。初め天台宗(てんだいしゅう)を学んだが、1175京都東山の吉水(よしみず)で専修念仏(せんじゅねんぶつ)の教えを広め、『選択本願念仏集(せんじゃくほんがんねんぶつしゅう)』を執筆、親鸞(しんらん)・九条兼実(くじょうかねざね)ら多くの弟子を得たが、1207承元(じょうげん)の法難で四国へ流刑された(同年末赦免)。

本願寺(ほんがんじ)
 京都市下京区所在。浄土真宗の本山。1272親鸞(しんらん)の娘・覚信尼(かくしんに)が父の遺骨を改装し、木像を安置したのが起源。十一世法主・顕如(けんにょ)の代に現在地に移り、その長男・教如(きょうにょ)と三男・准如(じゅんにょ)の代に後継争いが起こり、東・西本願寺に分裂した。

本能寺(ほんのうじ)の変
 1582天下統一を目指す織田信長が中国攻めの応援に赴く途中、京都の本能寺にて家臣・明智光秀(あけちみつひで)に暗殺された事件。光秀は信長の長子・信忠(のぶただ)も二条御所に襲って殺害した。

源実朝(みなもとのさねとも)
 (1192-1219) 鎌倉幕府三代将軍(在職1203-1219)。源頼朝(よりとも)の次男。母は北条政子(ほうじょうまさこ)。将軍を廃された兄・頼家(よりいえ)の後を継いで執権・北条義時(よしとき)らと政治を執り、和歌や蹴鞠に励んで歌集『金塊(きんかい)和歌集』を編集したが、右大臣就任祝いの時、鶴岡八幡宮で兄の子・公暁(くぎょう)に殺害された。
 将軍味

室町幕府(むろまちばくふ)・足利(あしかが)幕府
 (1336-1573) 室町時代の武家政権。1336足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐(ごだいご)天皇の建武(けんむ)政権を倒して創始。足利氏が代々将軍に就任し、管領(かんれい)がこれを補佐した。幕府名は三代将軍・足利義満の京都室町邸(花の御所)にちなむ。1573十五代将軍・足利義昭(よしあき)が織田信長に追放されて滅びた。

臨済宗(りんざいしゅう)
 禅宗(ぜんしゅう)の一派。開祖は唐の臨済義玄(りんざいぎげん)。日本には1191明庵栄西(みょうあんえいさい)が初めて伝えた。

連歌(れんが)
 上の句と下の句を交互に詠み合う文芸。室町時代が最盛期。代表的な連歌集は、二条良基(にじょうよしもと)の『菟玖波集(つくばしゅう)』・宗祗(そうぎ)の『新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)』、山崎宗鑑(やまざきそうかん)の『犬筑波集(いぬつくばしゅう)』。

蓮如(れんにょ)
 (1415-1499) 僧。浄土真宗(じょうどしんしゅう)僧。本願寺(ほんがんじ)八世法主。存如(ぞんにょ)の子。1457法主となって近江に布教を拡大、1465対立する延暦寺(えんりゃくじ)に本願寺を焼かれるが、三河布教の後、1471越前に吉崎道場(よしざきどうじょう。吉崎御坊)を創建、北陸布教に力を入れ、1478山科(やましな)本願寺を、1496石山(いしやま)本願寺を建立して畿内でも勢力を拡大、合間に五人の妻から二十七人の子を成した。
北陸味

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