43.怨念味 基礎用語集

右大臣(うだいじん)
 律令制における執政官。太政大臣・左大臣欠員時の最高官。左大臣とともに国政を統括した。645大化の改新で蘇我石川麻呂(そがのいしかわまろ)が任じられたのが最初。

蝦夷(えぞ・えみし)
 古代、主に東日本に住んでいた人々。大和朝廷の征伐を受け、次第に北方に追いやられた。アイヌかどうかについては諸説ある。

応天門(おうてんもん)の変
 866大納言(だいなごん)・伴善男(とものよしお)が応天門(おうてんもん)に放火したとして失脚した事件。善男は放火は左大臣・源信(みなもとのまこと)の仕業と主張したが、藤原良房(ふじわらのよしふさ)がこれを擁護、逆に善男・中庸(なかつね)父子が犯人とされ、善男は伊豆へ、中庸は隠岐へ流刑、同時に紀豊城(きのとよき)・紀夏井(なつい)らも処罰された。この事件によって伴・紀氏は衰退、藤原北家の権力はより強化された。告発味

大伴氏(おおともしおおともうじ)
 古代の大豪族。氏祖は天孫降臨に従った天忍日命(あめのおしひのみこと)という。摂津(せっつ)・和泉(いずみ)、後に大和の城上(しきのかみ)・十市(とおち)郡を本拠とした。大和政権で重きをなし、次々と大連(おおむらじ)を輩出、軍事を担当するが、540金村失脚後に衰退した。

大友皇子(おおとものおうじ・おおとものみこ)→弘文天皇(こうぶんてんのう)
 (648-672)伊賀(いが)皇子とも。伝三十九代天皇(在位671-672)。天智天皇の第一皇子。671太政大臣になるが、672壬申の乱で大海人皇子(天武天皇)に敗死。

大伴金村(おおとものかなむら)
 (?-?)大連(おおむらじ)。武烈(ぶれつ)天皇・継体(けいたい)天皇を擁立して執政、新羅征討を行い、大連・物部麁鹿火(もののべのあらかひ)に527-528磐井(いわい)の乱を鎮圧させるが、512任那(みまな。加羅)四県を百済に割譲したことを大連・物部尾輿(おこし)らに責められ、540失脚した(任那四県割譲問題)。国境味
日朝味2

大伴家持(おおとものやかもち)
 (718?-785)公卿。歌人。中納言。三十六歌仙の一。大伴旅人の子。内舎人として聖武天皇に仕え、宮内少輔
・越中守となり、帰京後少納言・兵部大輔・右大弁を歴任するが、757橘奈良麻呂の変に連座して因幡守に左遷、帰京して信部(中務)大輔に就任するが、藤原宿奈麻呂(良継)の変に連座して再び薩摩守に左遷、764藤原仲麻呂の乱後に左京大夫等を経て衛門督となり、780参議に就任、782氷上川継の変に関わったとされて一時解任されるが、疑いが晴れて春宮大夫等に復任し、陸奥按察使兼鎮守将軍を経て783中納言に昇り、『万葉集』を編集したとされるが、785藤原種継暗殺事件に関わったとされて死後に処罰された。女傑味 意地味 菅降味 怨念味1

桓武天皇(かんむてんのう)=柏原帝(かしわばらてい)←山部(やまべ)親王←山部王
 (737-806) 伝五十代天皇(在位781-806)。光仁(こうにん)天皇の皇子。781父の譲位によって即位し、784長岡京(ながおかきょう)へ遷都するが、785造長岡宮使(ぞうながおかぐうし)・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の暗殺で挫折(ざせつ)、792健児(こんでい)の制を制定し、794和気清麻呂(わけのきよまろ)の勧めで平安京へ遷都、勘解由使(かげゆし)を置き、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍として蝦夷を征伐、藤原継縄(つぐただ)・菅野真道(すがののまみち)らに正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』を編集させた。 ヤミ味 菅降味怨念味 怨霊味

吉備真備(きびのまきび)←下道(しもつみち)真備
 (693?-775) 学者。公卿。右大臣。717-735唐に留学し、皇太子・阿倍内親王(孝謙・称徳天皇)の侍講を務めたが、藤原仲麻呂の圧力で一時左遷、764恵美押勝(藤原仲麻呂)の乱で軍師として活躍し、右大臣に昇進、称徳(孝謙)天皇没後、文室浄三(ふんやのきよみ)・大市(おおいち)兄弟の擁立を図るが、失敗して引退した。

皇太子(こうたいし)=東宮・春宮(とうぐう)
 皇位を継ぐ予定の唯一の皇子(または王子・皇女・王女)。次期天皇。七世紀頃に成立?

光仁天皇(こうにんてんのう)←白壁王(しらかべおう)
 (709-781) 伝四十九代天皇(在位749-758,764-770)。施基(しき)親王王子。天智(てんじ・てんち)天皇の孫。聖武(しょうむ)天皇皇女・井上(いのうえ・いのえ)内親王と結婚し、大納言に昇進、770称徳(しょうとく)天皇没後に藤原永手(ふじわらのながて)・藤原百川(ももかわ)らに推されて即位し、道鏡(どうきょう)を追放、行政改革を行った。ヤミ味

後白河法皇(ごしらかわほうおう)←後白河上皇(じょうこう)←後白河天皇←雅仁親王(まさひとしんのう)
 (1127-1192) 伝七十七代天皇(在位1155-1158。院政1158-1179,1181-1192)。鳥羽(とば)天皇の皇子。母は待賢門院(たいけんもんいん)。1155弟・近衛(このえ)天皇没後に父に推されて即位するが、兄・崇徳(すとく)上皇と対立、1156父の死後の保元(ほうげん)の乱で兄を破って配流し、1158皇子・二条(にじょう)天皇に譲位して院政を開始、1159平治(へいじ)の乱を経て平清盛(たいらのきよもり)と対立、1179幽閉されて院政を止めさせられるが、1181清盛没後に院政を再開、源義仲(みなもとのよしなか)、次いで源頼朝(よりとも)と結んで平氏を倒させ、歌謡集『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』を編集、「年中行事絵巻」を作らせた。

嵯峨上皇(さがじょうこう)←嵯峨天皇←神野親王(かみのしんのう)=賀美野親王
 (786-842) 伝五十二代天皇(在位809-823)。三筆(さんぴつ)の一人。桓武(かんむ)天皇の皇子。平城(へいぜい)天皇の弟。兄の譲位で即位し、検非違使(けびいし)や810蔵人所(くろうどのところ)を設置、反対派の藤原仲成(なかなり)・薬子(くすこ)兄妹らを退け(薬子の変)、820『弘仁格式(こうにんきゃくしき)』を完成、漢詩集814『凌雲集(りょううんしゅう)』・818『文華秀麗集(ぶんかしゅうれいしゅう)』・814系譜集『新撰姓氏録(しんせんしょうじろく)』を編集させた。842その死後、承和(じょうわ)の変が起こった。

参議(さんぎ)
 太政官で大臣・納言(なごん)に次き、公卿会議に参加した。令下官(りょうげのかん)の一つ。702大伴安麻呂(おおとものやすまろ)・粟田真人(あわたのまひと)・高向麻呂(たかむこのまろ)・下毛野古麻呂(しもつけののこまろ)・小野毛野(おののけの)の五人に「朝政を参議」させたのが初め。731正式設置。

自衛隊(じえいたい)
 (1954-) MSA協定(日米相互防衛援助協定)により、保安隊と警備隊を改組して発足した日本の防衛組織。防衛庁に所属する陸上・海上・航空自衛隊の三隊。内閣総理大臣の統率のもと防衛庁長官が隊を総括。

荘園(しょうえん)
 貴族や寺社の私有地。自力で開墾したもの(自墾地系)と、寄進されたもの(寄進地系)に分けられる。鎌倉時代以後、武士に奪われ、太閤検地(たいこうけんち)の実施によって消滅した。

称徳天皇(しょうとくてんのう)←孝謙(こうけん)天皇←阿倍内親王(あべないしんのう)
 (718-770) 伝四十六・四十八代天皇(在位749-758,764-770)。聖武天皇皇女。738日本初の女性皇太子になり、749即位し752東大寺大仏開眼法要を開催、758淳仁天皇に譲位するが、まもなく不和となって実権を奪還、764恵美押勝(えみのおしかつ)の乱を鎮圧し、再び天皇に即位、百万塔(ひゃくまんとう)を作らせ、寵愛する道鏡(どうきょう)を大臣禅師に765太政大臣禅師(だじょうだいじんぜんじ)に766法王(ほうおう)にし、769皇位まで譲ろうとしたが、和気清麻呂(わけのきよまろ)らに阻まれた(宇佐八幡宮神託事件)。

常任理事国(じょうにんりじこく)
 国際連盟や国際連合において、理事国のの地位を恒久的に有する国のこと。国際連盟の常任理事国は、イギリス・フランス・イタリア・日本の四か国(後にドイツも追加)、国際連合のそれは、アメリカ・イギリス・フランス・ソ連(後のロシア)・中国の五か国。

聖武上皇(しょうむじょうこう)←聖武天皇←首皇子(おびとおうじ)
 (701-756)伝四十五代天皇(在位724-749)。文武(もんむ)天皇の第一皇子。母は藤原不比等(ふひと)の娘・宮子(みやこ)。姉・元正(げんしょう)天皇から皇位を譲られ、741国分寺(こくぶんじ)・国分尼寺(こくぶんにじ)建立の詔を、743大仏造立(だいぶつぞうりゅう)の詔を発布、総国分寺・東大寺(とうだいじ)を完成させるなど鎮護国家(ちんごこっか)政策を推進、740藤原広嗣(ひろつぐ)の乱を避けるように、恭仁京(くにきょう)・744紫香楽宮(しがらきのみや)・難波宮(なにわのみや)と都を遷した。暴発味

壬申の乱(じんしんのらん)
 皇位継承をめぐる飛鳥時代最大の内乱。671天智(てんち・てんじ)天皇の死後、子の大友(おおとも)皇子(弘文天皇)と弟の大海人(おおあま)皇子(天武天皇)が対立、672大海人皇子は吉野(よしの)で挙兵し、伊勢へ下向、村国男依(むらくにのおより)に美濃・尾張国司を懐柔させ、不破(ふわ)・鈴鹿関(すずかのせき)を封鎖、大伴吹負(おおとものふけい)に飛鳥古京を占拠させた。大友皇子は大和・伊賀で攻勢に出るが反撃され、近江の瀬田(せた)で完敗、大津宮(おおつのみや)で自殺した。乱後、大海人皇子は飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)へ遷都、673天武天皇として即位した。

菅原道真(すがわらのみちざね)
 (845-903) 学者。公卿。右大臣。是善(これよし)の子。母は伴氏。877文章(もんじょう)博士になり、894遣唐使(けんとうし)廃止を進言、887〜888阿衡(あこう)の紛議に意見して宇多(うだ)天皇の信頼を得、892史書『類聚国史(るいじゅうこくし)』を編集、893参議になり、899右大臣に昇って正史『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』・詩集『菅家文集(かんけぶんそう)』を編集するが、901左大臣・藤原時平(ときひら)の讒言(ざんげん)によって大宰府(だざいふ)に左遷され(昌泰の変)、任地で没して怨霊となり、天神として祭られた。スト味
受験味 入試味 教育味 悪党味 教育味 猛威味

平 貞盛(たいらのさだもり)
 (?-?) 武将。国香(くにか。良望)の子。上洛して左馬允(さまのさかん)に就くが、935父が平将門(まさかど)に殺されたため常陸に帰国、叔父・平良兼(よしかね)らとともに将門と戦うが敗れ、一時京に戻った後、下野の武将・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らと結んで将門を討ち、右馬助(うまのすけ)に就任、鎮守将軍(ちんじゅしょうぐん)・丹波守(たんばのかみ)・陸奥守(むつのかみ)等を歴任した。生首味
揉消味

平 将門(たいらのまさかど)
 (?-940) 武将。良持(よしもち。良将)の子。初め京都で関白・藤原忠平(ふじわらのただひら)に仕え、下総に帰国後、931伯父・平良兼(よしかね)と対立、931伯父・平国香(くにか)を殺し、その子・平貞盛や良兼らを撃破、常陸(ひたち)・下野(しもつけ)・上野(こうずけ)・武蔵(むさし)・相模(さがみ)国府を攻略し、ほぼ関東一円を支配、新皇(しんのう)を称し、下総猿島(さしま)を内裏としたが、940貞盛・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らに討たれた。

内裏(だいり)
 天皇の居所。皇居。御所。大内裏(だいだいり。皇居+主要官庁)の中にあり、紫晨殿(ししんでん・ししいでん。書斎ほか)・清涼殿(せいりょうでん。居間ほか)・仁寿殿(じじゅうでん・じじゅでん。客間ほか)などがある。

東大寺(とうだいじ)=金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)=総国分寺(そうこくぶんじ)=大華厳寺(だいけごんじ)
 奈良市所在。華厳宗総本山。南都七大寺の一。前身は金鐘寺(こんしゅじ)。745聖武(しょうむ)天皇が盧舎那仏(るしゃななぶつ)造立のため、市原王(いちはらおう)・佐伯今毛人(さえきのいまえみし)らに命じて創建し、752本尊の盧舎那仏の開眼法要を行った。1180平重衡(たいらのしげひら)に焼かれたが、鎌倉時代に重源(ちょうげん)らが復興、1567松永久秀(まつながひさひで)に焼かれたが、江戸時代に再び復興された。

藤原時平(ふじわらのときひら)
 (871-909) 公卿。左大臣。藤原基経(もとつね)の子。忠平(ただひら)・温子(おんし。宇多天皇女御)・穏子(おんし。醍醐天皇皇后)らの兄。891参議となり、中納言・大納言を経て899左大臣に昇進、901右大臣・菅原道真(すがわらのみちざね)を讒言(ざんげん)して大宰権帥(だざいごんのそち)に左遷させ、醍醐(だいご)天皇による延喜の治(えんぎのち)を主導、『日本三代実録』『延喜格式』編修をするが、子孫は栄えなかった。
受験味 入試味2

崇徳上皇(すとくじょうこう)←崇徳天皇←顕仁親王(あきひとしんのう)
 (1119-1164) 伝七十五代天皇(在位1123-1141)。鳥羽(とば)天皇の第一皇子。後白河(ごしらかわ)天皇の実兄。1123曽祖父・白河法皇(しらかわほうおう)の後押しで即位したが、1141父によって譲位させられたことを根に持ち、1156後白河上皇に対して保元(ほうげん)の乱を起こすが敗れ、讃岐(さぬき)へ島流しにされた。

大納言(だいなごん)
 太政官(だいじょうかん・だじょうかん)で左右大臣に次ぐ官職。大臣とともに政務を執った。定員は四人。705その下に中納言が置かれた。

天智天皇(てんちてんのう・てんじてんのう)←中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
 (626-671)伝三十八代天皇(在位668-671)。舒明(じょめい)天皇の皇子。母は皇極(こうぎょく)・斉明(さいめい)天皇。中臣(藤原)鎌足とともに645蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼし(乙巳の変)、叔父の孝徳(こうとく)天皇を擁立し、皇太子として大化の改新を断行、654孝徳天皇没後は母を立て、皇太子のまま執政、663白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦で唐・新羅に大敗した後、667近江大津宮(おうみのおおつのみや)に遷都し、668近江令(おうみりょう)を編集、670庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成した。工作味 ウソ味 日朝味5

天武天皇(てんむてんのう)←大海人皇子(おおあまのおうじ)
 (631?-686)第四十代天皇(在位673〜686)。舒明天皇の皇子。天智天皇の弟。672壬申(じんしん)の乱で大友皇子(おおとものおうじ)を破り、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位、皇親政治を展開し、684八色(やくさ)の姓(かばね)を制定、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を編集させた。
粛清味

伴 善男(とものよしお)
 (811-868) 公卿。摂政・太政大臣。大伴(伴)国道(くにみち)の子。844右少弁(うしょうべん)になり、846善ト(ぜんがい)訴訟事件を経て847蔵人頭(くろうどのかみ)・848参議に昇進、855藤原良房(ふじわらのよしふさ)らと『続日本後紀(しょくにほんこうき)』編集に携わり、中納言を経て864大納言に昇進するが、866応天門(おうてんもん)の変で失脚、伊豆へ流された。告発味
諾威味

長岡京(ながおかきょう)
 (784-794) 奈良時代末期の首都。784桓武(かんむ)天皇が遷都して造営開始。京域は京都盆地西部。785造長岡宮使(ぞうながおかきゅうし・ぞうながおかぐうし)・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)が暗殺されてから工事が進まなかった。現在、発掘が進められている。怨念味

日清戦争(にっしんせんそう)
 (1894-1895) 朝鮮の支配権をめぐる日本と清(中国)の戦争。1894朝鮮で起こった甲午農民戦争(東学党の乱)を機に日清両国は開戦、日本は豊島沖(ほうとうおき)の海戦・平壌の戦・黄海の海戦で勝利、1895威海衛(いかいえい)を占領して清を降伏させ、講和条約(下関条約)を調印、朝鮮の独立、遼東(りょうとう)半島・台湾・澎湖(ほうこ)諸島の割譲、賠償金二億両(テール)の支払い、通商航海条約の調印と最恵国条款の確立、沙市・重慶・蘇州・杭州の開市、威海衛の一時占領などを認めさせた。

日中戦争(にっちゅうせんそう)=支那事変(しなじへん)=日華事変=北支事変
 (1937-1945) 第二次世界大戦のうち、中国で行われた日本と中国との戦争。1937盧溝橋(ろこうきょう)事件で中国北部で戦闘が始まり、第二次上海事変で中国南部へ拡大、日本軍は首都・南京を攻略するが、中国の国民政府は重慶に移って徹底抗戦、1945日本の降伏により終戦した。

日露戦争(にちろせんそう)
 (1904-1905) 朝鮮・満州の支配権をめぐる日本とロシアの戦争。日本は1900北清事変後、満州占領を続けたロシアに対抗、1902日英同盟を結んで1904ロシアを攻め、乃木希典(のぎまれすけ)が旅順(りょじゅん)を攻略、1905大山巌(おおやまいわお)が奉天(ほうてん)会戦で勝ち、東郷平八郎(とうごうへいはちろう)が日本海海戦でバルチック艦隊を粉砕、アメリカの仲介で講和条約(ポーツマス条約)を調印し、ロシアに韓国指導権・関東州租借権・長春(ちょうしゅん)以南の鉄道の権益を認めさせ、樺太(からふと)の南半分の領土と沿海州・カムチャツカの漁業権を獲得したが、賠償金がもらえなかったため、日比谷(ひびや)焼打ち事件が起こった。

平城京(へいじょうきょう)
 奈良時代の首都。京域は奈良盆地北部。東西約4.3q。南北約4.8q。710元明(げんめい)天皇が遷都し、784桓武天皇の長岡京(ながおかきょう)遷都まで存続。

平城太上天皇(へいぜいだいじょうてんのう)=平城上皇(へいぜいじょうこう)←平城天皇←安殿親王(あてしんのう)
 (774-824) 伝五十一代天皇(在位806-809)。桓武(かんむ)天皇の皇子。嵯峨(さが)天皇・淳和(じゅん)天皇の兄。785父の皇太子になり、806父の死によって即位、観察使(かんさつし)を設置し、参議を廃して地方政治改革を行ったが、809病気のため神野親王(かみのしんのう。嵯峨天皇)に譲位、801藤原仲成(ふじわらのなかなり)・藤原薬子(くすこ)兄妹らの勧めで復位と平城京還都を画策して失敗し、仲成は射殺され、薬子は自殺、自身は出家した(薬子の変)。怨念味怨霊味
平城味

戊辰戦争(ぼしんせんそう)=戊辰の役
 明治初年に起こった明治新政府と旧幕府勢力との戦争。1868鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦い・江戸開城・上野戦争(彰義隊の戦い)・会津(あいづ)戦争・1869箱館(はこだて)戦争(五稜郭の戦い)など一連の戦いをいう。

万葉集(まんようしゅう)
 
現存最古の和歌集。770頃完成。20巻。大伴家持(おおとものやかもち)の編集か。万葉仮名で記される。約四千五百首を収録。雑歌(一般歌)・相聞歌(恋愛歌)・挽歌(哀悼歌)に分類される。
怨霊味4

歴史チップス ホームページ

inserted by FC2 system