121.虐殺味 基礎用語集

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明智光秀(あけちみつひで)
 (1528?-1582) 武将。足利義昭(あしかがよしあき)の紹介を機に織田信長に仕え、諸戦で活躍して近江坂本(さかもと)城主になるが、1582本能寺(ほんのうじ)の変で信長を殺害、京都・近江・美濃を制圧するも、中国攻めから取って返してきた羽柴(豊臣)秀吉に山崎(やまざき)の戦で敗れ、坂本へ落ち延びる途中に土民の襲撃を受けて自殺した。
虐殺味

足利義昭(あしかがよしあき)←義秋(よしあき)←覚慶(かくけい)
 (1537-1597) 武将。室町幕府十五代将軍(在職1568-1573)。義晴(よしはる)の子。兄・義輝(よしてる)が松永久秀(まつながひさひで)らに殺されたため近江に逃れ、朝倉義景(あさくらよしかげ)、次いで織田信長を頼り、1568信長とともに上京して将軍に就任するが、信長と不和になり、1572武田信玄(たけだしんげん)・顕如(けんにょ)・義景らと信長包囲網を形成してこれを追い詰めるが、信玄の死や朝倉・浅井氏の滅亡によって瓦解(がかい)、1573山城槙島(まきしま)城で挙兵するも敗れ、追放された。
大雪味

足利義政(あしかがよしまさ)←足利義成(よししげ)
 (1435or1436-1490) 室町幕府八代将軍(在職1449-1473)。義教(よしのり)の子。義勝(よしかつ)の弟。母は日野重子(ひのしげこ)。管領・畠山持国(はたけやまもちくに)、側室・今参局(いままいりのつぼね)、政所執事・伊勢貞親(いせさだちか)、正室・日野富子(ひのとみこ)・義兄・日野勝光(かつみつ)らに実権を握られ、趣味風流生活に逃避、弟・義視(よしみ)を後継とするが、富子(ひのとみこ)が実子・義尚(よしひさ)を立てて譲らず、1467-1477応仁の乱(応仁・文明の乱)に発展、東山に隠居し、銀閣を建立、侘び茶の村田珠光(むらたじゅこう)、花道(華道)の池坊専慶(いけのぼうせんけい)、画家の土佐光信(とさみつのぶ)・狩野正信(かのうまさのぶ)、作庭師の善阿弥(ぜんあみ)、芸術家の能阿弥(のうあみ)らを庇護するなど、東山文化の担い手となった。

アメリカ(America)≧アメリカ合衆国(United States of America)=米国(べいこく)
 北アメリカ大陸にある国。1492コロンブスが漂着し、十六世紀初めにスペインが、1607年からイギリスが入植、1776イギリスから独立宣言し、1783パリ条約で独立を承認、徐々に西へ領土を広げ、十九世紀半ばに太平洋側に到達、二度の世界大戦と冷戦を経て、世界一の工業国・農業国・軍事大国に成長した。首都はワシントン。

石山本願寺(いしやまほんがんじ)
 現在の大阪市中央区所在。浄土真宗の寺。1496大坂に本願寺八世・蓮如(れんにょ)が隠居所を築いたのが起源で、1532山科本願寺焼失後、十世・証如(しょうにょ)が本山を移転、今日の大阪の原型となる広大な寺内町(じないちょう)を形成し、一向一揆の総本山となるが、十一世・顕如(けんにょ。光佐)が織田信長と抗争、1570-1580石山合戦の果てに焼失した。

一向一揆(いっこういっき)
 室町〜戦国時代に近畿・中部地方で起こった浄土真宗(じょうどしんしゅう。一向宗)信仰者の武装集団。本拠は大坂の石山本願寺(いしやまほんがんじ)。最大のものは加賀(かが)の一向一揆。各地の守護大名や戦国大名らと交戦したが、1580織田信長と石山本願寺と講和、加賀の一向一揆の滅亡によって解体した。

上杉謙信(うえすぎけんしん)←上杉輝虎(てるとら)←上杉政虎(まさとら)長尾景虎(ながおかげとら)
 (1530-1578) 武将。越後守護代。関東管領。長尾為景(ためかげ)の子。1548家督を継ぎ、1550越後国主となり、信濃北部に進出した甲斐の戦国大名・武田信玄(たけだしんげん)と数度交戦(川中島の戦)、関東管領・上杉憲政(うえすぎのりまさ)の頼みで関東の戦国大名・北条氏康(ほうじょううじやす)を攻め、1561関東管領を継承、1573越中を平定して織田信長(おだのぶなが)を攻めるが、1578急死した。
撤退味 地震味2 政権味

大友氏(おおともし)
 中世〜近世に栄えた氏族。豊後等守護家。藤原秀郷(ふじわらのひでさと)の子孫で、鎌倉時代に相模国大友郷(神奈川県小田原市)を本拠とする御家人として筑後・豊後両国守護となり、頼泰(よりやす)の代に豊後に下って鎮西奉行を兼任、南北朝時代に足利氏に組して栄え、戦国時代の義鎮(よししげ。宗麟)の最盛期には八か国を領して島津(しまづ)氏・竜造寺(りゅうぞうじ)氏とともに九州を三分したが、その子・義統(よしむね)が文禄の役で失敗して改易された。

織田信長(おだのぶなが)
 (1534-1582) 武将。織田信秀(のぶひで)の子。父の死後、尾張を統一、1560桶狭間(おけはざま)の戦で今川義元(いまがわよしもと)を討ち、1567美濃の斎藤氏を追って岐阜城に入城、1568足利義昭(あしかがよしあき)を擁して上洛し、1570姉川(あねがわ)の戦で浅井(あさい)・朝倉(あさくら)氏を倒し、1571比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を焼き打ち、1573義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、1574伊勢長島一向一揆(いせながしまいっこういっき)を、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(たけだかつより)を撃破、1576近江に安土(あづち)城を築いて移り、楽市(らくいち)・楽座(らくざ)を実施、1580石山本願寺(いしやまほんがんじ)を大坂から立ち退かせ、1582天目山(てんもくざん)の戦で勝頼を滅ぼすが、本能寺(ほんのうじ)の変で家臣の明智光秀(あけちみつひで)に討たれた。
最強味大雪味騒乱味暴力味泥沼味虐殺味銃器味   

加賀の一向一揆(かがのいっこういっき)
 (1474-1580) 加賀を支配した一向宗門徒の自治組織。1474加賀の一向宗門徒は加賀守護富樫幸千代(とがしこうちよ)を滅ぼし、1488ともに戦った新守護富樫政親(まさちか)も殺害、越前の朝倉(あさくら)氏などと抗争を続けたが、1580織田信長によって滅ぼされた。

狩野永徳(かのうえいとく)
 (1543-1590) 画家。元信(もとのぶ)の孫。松栄(しょうえい)の子。織田信長・豊臣秀吉に御用絵師として仕え、安土城・聚楽第・大坂城の障壁画を制作、『唐獅子図屏風(からじしずびょうぶ)』『洛中洛外図(らくちゅうらくがいず)屏風』『檜(ひのき)図屏風』『源氏物語屏風』などを描いたとされ、桃山様式を確立、狩野派の基礎を築いた。

管領(かんれい)←執事(しつじ)
 
室町幕府の将軍補佐役。足利家執事&室町幕府政務長官。現代の副総理または官房長官のようなもの。足利尊氏(あしかがたかうじ)の執事・高師直(こうのもろなお)が起源。後には三管領家(細川・斯波・畠山氏)から交替で選ばれた。

極東国際軍事裁判(きょくとうこくさいぐんじさいばん)=東京裁判
 1946連合国が日本のA級戦犯二十八名を東京の旧大本営で審理した裁判。裁判長はオーストラリアのウェッブ。主席検察官はアメリカのキーナン。インドのレーリンク判事は全員無罪と主張したが、1948東条英機(とうじょうひでき)・広田弘毅(ひろたこうき)・板垣征四郎(いたがきせいしろう)・土肥原賢二(どひはらけんじ)・松井石根(まついいわね)・武藤章(むとうあきら)・木村兵太郎(きむらへいたろう)の七名が絞首刑に、平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)・小磯国昭(こいそくにあき)・梅津美治郎(うめづよしじろう)・荒木貞夫(あらきさだお)・橋本欣五郎(はしもときんごろう)・木戸幸一(きどこういち)・賀屋興宣(かやおきのり)・畑俊六(はたしゅんろく)・南次郎(みなみじろう)・岡敬純(おかたかずみ)・大島浩(おおしまひろし)・佐藤賢了(さとうけんりょう)・嶋田繁太郎(しまだしげたろう)・白鳥敏夫(しらとりとしお)・星野直樹(ほしのなおき)・鈴木貞一(すずきていいち)の十六名が無期禁錮(きんこ)に、東郷茂徳(とうごうしげのり)・重光葵(しげみつまもる)の二名が有期禁錮の判決が下った。 

原爆(げんばく)=原子爆弾(げんしばくだん)
 原子核の分裂によって放出される莫大なエネルギーを利用した核兵器。第二次世界大戦中にアメリカが開発し、1945.7/ニューメキシコ州で世界初の原爆実験に成功、8/6広島に「ウラン235」を投下して世界初の人類殺戮(さつりく)を行い、8/9長崎に「プルトニウム239」を投下、1946.7/マーシャル諸島のビキニ環礁で世界初の洋上原爆実験を行った。

柴田勝家(しばたかついえ)
 (?-1583) 武将。織田信長に仕え、畿内・近江・越前平定戦に活躍、1575越前一向一揆を平定し、越前北庄(きたのしょう)城主として越前の大半を支配、検地や刀狩(かたながり)を行い、1580加賀一向一揆を鎮圧、越後の上杉景勝(うえすぎかげかつ)と対決するが、1582本能寺(ほんのうじ)の変後、信長の三男・信孝(のぶたか)と結んで羽柴(はしば。豊臣)秀吉と争い、1583賤ヶ岳((しずがたけ))の戦いで敗れ、北庄で自殺した。 

正倉院宝物(しょうそういんほうもつ)=正倉院御物(しょうそういんぎょぶつ)
 聖武天皇の死後に光明皇后が東大寺正倉院に献納した宝物。螺鈿紫檀五絃琵琶(らでんしたんごげんのびわ)・銀薫炉(ぎんのくんろ)・白瑠璃碗(はくるりのわん)・紺瑠璃杯(こんるりのつき)・漆胡瓶(しっこへい)・『楽毅論(がっきろん)』など約9000点が残存。

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)≦将軍
 もとは蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための朝廷の軍事長官。後に武家政権の最高指導者の称号。奈良時代の征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。1192源頼朝(みなもとのよりとも)が就任して幕府を開いてからは世襲となった。将軍味

戦国大名(せんごくだいみょう)
 戦国時代に各地に割拠した大領主。甲斐の武田(たけだ)氏・駿河の今川(いまがわ)氏・周防の大内(おおうち)氏・・豊後の大友(おおとも)氏・薩摩の島津(しまづ)氏など守護(しゅご)大名から移行したものや、越後の上杉(うえすぎ)氏・出雲の尼子(あまこ・あまご)氏・阿波の三好(みよし)氏・越前の朝倉(あさくら)氏・尾張の織田(おだ)氏など守護代ほかから台頭したものや、安芸の毛利(もうり)氏・土佐の長宗我部(ちょうそかべ。長曽我部)氏・北近江の浅井(あざい・あさい)氏など国人(こくじん)などから台頭したものや、相模の北条(ほうじょう)氏・美濃の斎藤(さいとう)氏・大和の松永(まつなが)氏など陪臣(ばいしん)その他から成り上がったものもある。

武田勝頼(たけだかつより)=諏訪(すわ)勝頼
 (1546-1582) 武将。甲斐等領主。信玄(しんげん)の子。父の死後も勢力を拡大したが、1575長篠(ながしの)の戦で織田信長・徳川家康連合軍に大敗して衰退、1582天目山(てんもくざん)の戦で敗れて自殺した。惨敗味2
人質味銃器味 ニセ味

武田信玄(たけだしんげん)←武田晴信(はるのぶ)
 (1521-1573) 武将。甲斐等守護。信虎(のぶとら)の子。1541父を追放して家督を継ぎ、1547分国法「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい。「信玄家法」とも)」を制定、1542信濃へ侵攻して諏訪頼重(すわよりしげ)を討ち、小笠原長時(おがさわらながとき)・村上義清(むらかみよしきよ)らを撃破、越後の上杉謙信(うえすぎけんしん)と数度交戦し(川中島の戦)、1554駿河の今川義元(いまがわよしもと)・相模の北条氏康(ほうじょううじやす)と同盟を結ぶが(善徳寺の会盟)、1560桶狭間の戦で義元が敗死するや1568駿河に侵攻して今川氏を滅ぼし、1572三方原(みかたがはら)の戦で徳川・織田連合軍を破るが、まもなく病没した(鉄砲で狙撃されたという説もある)。
撤退味 大雪味3 惨敗味 ニセ味

長宗我部元親=長曽我部元親(ちょうそかべもとちか)
 (1538-1599) 武将。土佐岡豊(おこう)城主・国親(くにちか)の子。1575土佐を統一し、阿波・讃岐・南伊予を平定、1585河野通直(こうのみちなお)を破って四国を統一するが、豊臣秀吉の四国攻めで降伏、土佐一国に減封され、1587九州攻め・1590小田原攻め・1592-1593文禄の役・1597-1598慶長の役に参陣、1596サン・フェリペ号事件を処理し、分国法「長宗我部元親百箇条」を残した。

天守閣(てんしゅかく)=天守=天主閣
 城郭の中心となる高層建築物。現存最古の天守閣は犬山城のもの。以下、戦国〜江戸時代に建てられた城のうち、以下の十二の天守閣が現存する。

東大寺(とうだいじ)=金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)=総国分寺(そうこくぶんじ)=大華厳寺(だいけごんじ)
 奈良市所在。華厳宗大本山。南都七大寺の一。前身は金鐘寺(こんしゅじ)。大勧進行基(ぎょうき)。開基良弁(ろうべん)。745聖武(しょうむ)天皇が盧舎那仏(るしゃななぶつ)造立のため、市原王(いちはらおう)・佐伯今毛人(さえきのいまえみし)らに命じて創建し、752本尊の盧舎那仏の開眼法要を行った。1180平重衡(たいらのしげひら)に焼かれたが、鎌倉時代に重源(ちょうげん)らが復興、1567松永久秀(まつながひさひで)に焼かれたが、江戸時代に再び復興された。

鉄砲(てっぽう)=火縄銃(ひなわじゅう)≦種子島(たねがしま)
 火薬の爆発力によって弾丸を発射する武器。1543ポルトガル人によって種子島に伝来。和泉(いずみ)の堺(さかい)・紀伊(きい)の根来(ねごろ)・近江(おうみ)の国友(くにとも)などの鉄砲鍛治(かじ)が製造し、戦国大名の間で普及した。織田信長が三千丁(千丁とも)の鉄砲を使用して長篠の戦(ながしののたたかい)で勝利したことは有名。
銃器味

徳川家康(とくがわいえやす)←松平元康(まつだいらもとやす)←松平元信(もとのぶ)
 (1542-1616) 武将。江戸幕府初代将軍(在職1603-1605)・大御所。三河岡崎(みかわおかざき)城主・松平広忠(まつだいらひろただ)の子。1560桶狭間(おけはざま)の戦後に岡崎城主となり、織田信長と同盟を締結、今川氏を滅ぼして遠江浜松(とおとうみはままつ)城主となるが1572三方原(みかたがはら)の戦で武田信玄(たけだしんげん)に惨敗、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(かつより)を撃退し、1582本能寺(ほんのうじ)の変後、1584小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦後に豊臣秀吉と講和、1590小田原(おだわら)攻めに従って武蔵江戸(えど)城主となり、関東を統治、五大老に列し、秀吉の死後の1600関ヶ原の戦で石田三成らを撃破、1603征夷大将軍となって江戸幕府を開き、1605将軍職を秀忠(ひでたた)に譲渡、駿河府中(するがふちゅう)に退くが、大御所として実権を掌握、1614〜1615大坂の役で豊臣秀頼(ひでより)を滅ぼし、1615武家諸法度(ぶけしょはっと)・禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)・一国一城令(いっこくいちじょうれい)などを定めた。惨敗味 変節味
裏金味4 籠城味

豊臣秀吉(とよとみひでよし)←羽柴(はしば)秀吉←木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)
 (1537-1598) 武将。関白・太政大臣。織田信長に仕えて出世し、1573近江長浜(おうみながはま)城主となり、1577中国攻めを開始、1582備中高松(びっちゅうたかまつ)城攻撃中に信長横死の知らせを受け、山崎(やまざき)の戦で明智光秀(あけちみつひで)を、1583賤ヶ岳(しずがたけ)の戦で柴田勝家(しばたかついえ)を滅ぼし、石山本願寺(いしやまほんがんじ)跡に大坂(おおさか)城を築城、1584小牧・長久手の戦を経て徳川家康と講和、1585関白となって紀伊の根来(ねごろ)・雑賀(さいが)一揆を、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を降し、1586太政大臣に就任、1587九州の島津義久を、1590東北の伊達政宗(だてまさむね)・最上義光(もがみよしあき)らを、関東の北条氏政(ほうじょううじまさ)・氏直(うじなお)を降して天下を統一、太閤検地(たいこうけんち)や刀狩(かたながり)を行い、バテレン追放令や身分統制令などを発令、聚楽第(じゅらくだい)や伏見城を築いたが、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は失敗した。泥沼味怪談味2地震味4日朝味7芸人味変化味花見味変節味

長島一向一揆(ながしまいっこういっき)=長島一揆
 伊勢長島の願証寺(がんしょうじ)を本拠とした一向宗門徒の自治組織。1570織田信長討伐を目指す本願寺法主・顕如(けんにょ)の命令で蜂起し、尾張小木江(こきえ・おぎえ)城の織田信興(のぶおき)を討ち、柴田勝家(しばたかついえ)を撃退するなど何度も信長軍を退けたが、1574ついに敗れて虐殺された。
騒乱味暴力味泥沼味虐殺味

南蛮(なんばん)
 もともとは東南アジアの人々のことだが、近世以降は東南アジアに植民地を持つスペイン・ポルトガルも含むようになった。これらの人々を南蛮人と呼び、彼らが建てた教会を南蛮寺と呼び、彼らが乗る船を南蛮船と呼び、彼らとの貿易を南蛮貿易と呼び、彼らが伝えたカステラ・ボーロ・金平糖(こんぺいとう)などを南蛮菓子といい、彼らが伝えた異国風の文化を南蛮文化と呼んだ。

日本(にほん・にっぽん・やまと)≧日本国(にっぽんこく・にほんこく)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。現在の首都は東京。

念仏(ねんぶつ)
 仏の名を口にすること。浄土宗(じょうどしゅう)や浄土真宗(じょうどしんしゅう)で、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えること。

戊辰戦争(ぼしんせんそう)=戊辰の役
 明治初年に起こった明治新政府と旧幕府勢力との戦争。1868鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦・江戸開城・上野戦争(彰義隊の戦)・会津(あいづ)戦争・1869箱館(はこだて)戦争(五稜郭の戦)など一連の戦をいう。

細川氏(ほそかわし)
 中近世に栄えた氏族。室町幕府三管領の一。阿波等守護家。氏祖し足利義清の孫・義季(よしすえ)。足利尊氏に従い、頼之が足利義満を後見して幕政を主導、以後続々と管領を輩出、室町幕府滅亡後は織田・豊臣・徳川氏に従い、肥後熊本藩主として明治維新を迎えた。⇒細川氏系図

源頼政(みなもとのよりまさ)
 (1104-1180) 武将・公卿・歌人。源頼光(よりみつ)の子孫。仲政(なかまさ)の子。早くから白河(しらかわ)・鳥羽(とば)上皇(法皇)に仕え、1156保元(ほうげん)の乱で源義朝(よしとも)らと後白河(ごしらかわ)天皇について勝利、1159平治(へいじ)の乱も平清盛(たいらのきよもり)に味方し、勝って公卿に列したが、1180以仁王(もちひとおう)を奉じて平家打倒を画策、露見して宇治で敗死した。

室町幕府(むろまちばくふ)=足利(あしかが)幕府
 (1336?-1573) 室町時代の武家政権。1336足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐(ごだいご)天皇の建武(けんむ)政権を倒し、1338征夷大将軍に就任して創始。足利氏が代々将軍に就任し、管領(かんれい)がこれを補佐した。幕府名は三代将軍・足利義満の京都室町邸(花の御所)にちなむ。1467-1477応仁の乱後に弱体化し、1573十五代将軍・足利義昭(よしあき)が織田信長に追放されて滅びた。

洛中洛外図屏風(らくちゅうらくがいずびょうぶ)
 京都の名所風景や市民生活を描いた屏風。いくつかあるが、1574織田信長が上杉謙信に贈った狩野永徳(かのうえいとく)作のものが有名。

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