113.騒乱味 基礎用語集

ホーム>バックナンバー2011>基礎用語集

足利義昭(あしかがよしあき)←義秋(よしあき)←覚慶(かくけい)
 (1537-1597) 武将。室町幕府十五代将軍(在職1568-1573)。義晴(よしはる)の子。兄・義輝(よしてる)が松永久秀(まつながひさひで)らに殺されたため近江に逃れ、朝倉義景(あさくらよしかげ)、次いで織田信長を頼り、1568信長とともに上京して将軍に就任するが、信長と不和になり、1572武田信玄(たけだしんげん)・顕如(けんにょ)・義景らと信長包囲網を形成してこれを追い詰めるが、信玄の死や朝倉・浅井氏の滅亡によって瓦解(がかい)、1573山城槙島(まきしま)城で挙兵するも敗れ、追放された。
大雪味

足利義教(あしかがよしのり)←足利義宣(あしかがよしのぶ)←義円(ぎえん)
 (1394-1441) 武将。室町幕府六代将軍(在職1429-1441)。義満(よしみつ)の子。義持(よしもち)の弟。初め青蓮院(しょうれんいん)で出家し、大僧正・准后(じゅごう)・天台座主になるが、1428クジで選ばれて1429将軍となり、専制政治を志向、1438-1439永享の乱(えいきょうのらん)で鎌倉公方・足利持氏(もちうじ)を、1440結城合戦(ゆうきかっせん)で結城氏朝(うじとも)・足利安王丸(やすおうまる)・春王丸(はるおうまるともに持氏の子)を滅ぼし、山城等守護・一色義貫(いっしきよしつら)らを失脚させたが、1441播磨等守護・赤松満祐(あかまつみつすけ)に謀殺された(嘉吉の変・嘉吉の乱)。
クジ味

足利義満(あしかがよしみつ)
 (1358-1408) 武将。室町幕府三代将軍(在職1368-1394)。義詮(よしあきら)の子。京都室町に花の御所を造営し、1379管領・細川頼之(ほそかわよりゆき)を斯波義将(しばよしまさ)と交代(康暦の政変)、春屋妙葩(しゅんおくみょうは)を僧録(そうろく)に任じ、1382相国寺(しょうこくじ)を創建、五山十刹(ござんじっさつ)制を整備し、絶海中津(ぜっかいちゅうしん)ら五山文学僧を重用、1390土岐(とき)氏の乱で土岐康行(やすゆき)を、1391明徳(めいとく)の乱で山名氏清(やまなうじきよ)を討ち、1392南朝の後亀山(ごかめやま)天皇を京都に迎えて南北朝合体を実現、1394息子・義持に将軍職を譲り、太政大臣に就任、北山に隠居し、金閣を建立、能の観阿弥(かんあみ)・世阿弥(ぜあみ)父子を重用するなど北山文化の担い手となり、1399応永(おうえい)の乱で大内義弘(おおうちよしひろ)を滅ぼし、1404明(みん)と勘合(かんごう)貿易を始めた。
戦争味平和味無念味

井伊直弼(いいなおすけ)≦井伊掃部頭(かもんのかみ)
 (1815-1860) 大老(在職1858-1860)。近江彦根(ひこね)藩主。1857-1858将軍継嗣問題では、南紀派(なんきは)として徳川慶福(とくがわよしとみ。家茂)を推し、徳川斉昭(なりあき)・松平慶永(まつだいらよしなが。春岳)ら一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ。徳川慶喜)を推す一橋派と対立、1858大老に就任し、勅許を得ずに日米修好通商条約を調印、神奈川(のち横浜)・長崎・新潟・兵庫を開港し、江戸・大坂の開市(かいし。商売)を許可、自由貿易を承認し、領事裁判権・協定関税などを規定、オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様の条約を結ぶ(安政の五か国条約)が反発多々、1858-1859安政の大獄で吉田松陰(よしだしょういん)・橋本左内(はしもとさない)らを処刑し、斉昭・慶永・近衛忠煕(このえただひろ)・梅田雲浜(うめだうんびん)・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)らを弾圧するが、1860桜田門外の変で水戸浪士らに暗殺された。

石山本願寺(いしやまほんがんじ)
 現在の大阪市中央区所在。浄土真宗の寺。1496大坂に本願寺八世・蓮如(れんにょ)が隠居所を築いたのが起源で、1532山科本願寺焼失後、十世・証如(しょうにょ)が本山を移転、今日の大阪の原型となる広大な寺内町(じないちょう)を形成し、一向一揆の総本山となるが、十一世・顕如(けんにょ。光佐)が織田信長と抗争、1570-1580石山合戦の果てに焼失した。

一向一揆(いっこういっき)
 室町〜戦国時代に近畿・中部地方で起こった浄土真宗(じょうどしんしゅう。一向宗)信仰者の武装集団。本拠は大坂の石山本願寺(いしやまほんがんじ)。最大のものは加賀(かが)の一向一揆。各地の守護大名や戦国大名らと交戦したが、1580織田信長と石山本願寺と講和、加賀の一向一揆の滅亡によって解体した。

延暦寺(えんりゃくじ)
 滋賀県大津市比叡山所在。天台宗(てんだいしゅう)総本山。山号比叡山(ひえいざん)。785最澄(さいちょう)が比叡山に入り、788一乗止観院(いちじょうしかんいん比叡山寺)を立てたのが起源。最澄は唐から帰国後、この地で天台宗を開き、その死後「延暦寺」の勅願を賜り、平安時代以後は奈良の南都(興福寺)と並んで北嶺(ほくれい)と呼ばれ、日本の仏教教学の中心となった。

桶狭間の戦(おけはざまのたたかい)=田楽狭間(でんがくはざま)の戦
 1560尾張の戦国大名・織田信長が、駿河・遠江・三河の戦国大名・今川義元(いまがわよしもと)を桶狭間(田楽狭間。愛知県)で破った戦い。義元は敗死し、三河の戦国大名・松平元康(まつだいらもとやす。徳川家康)は独立、今川氏は衰退した。
最強味6

織田信長(おだのぶなが)
 (1534-1582) 武将。織田信秀(のぶひで)の子。父の死後、尾張を統一、1560桶狭間(おけはざま)の戦で今川義元(いまがわよしもと)を討ち、1567美濃の斎藤氏を追って岐阜城に入城、1568足利義昭(あしかがよしあき)を擁して上洛し、1570姉川(あねがわ)の戦で浅井(あさい)・朝倉(あさくら)氏を倒し、1571比叡山延暦寺(ひえいざんえんりゃくじ)を焼き打ち、1573義昭を追放して室町幕府を滅ぼし、1574伊勢長島一向一揆(いせながしまいっこういっき)を、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(たけだかつより)を撃破、1576近江に安土(あづち)城を築いて移り、楽市(らくいち)・楽座(らくざ)を実施、1580石山本願寺(いしやまほんがんじ)を大坂から立ち退かせ、1582天目山(てんもくざん)の戦で勝頼を滅ぼすが、本能寺(ほんのうじ)の変で家臣の明智光秀(あけちみつひで)に討たれた。
最強味 大雪味 銃器味 騒乱味 暴力味

加賀の一向一揆(かがのいっこういっき)
 (1474-1580) 加賀を支配した一向宗門徒の自治組織。1474加賀の一向宗門徒は加賀守護富樫幸千代(とがしこうちよ)を滅ぼし、1488ともに戦った新守護富樫政親(まさちか)も殺害、越前の朝倉(あさくら)氏などと抗争を続けたが、1580織田信長によって滅ぼされた。

桓武天皇(かんむてんのう)=柏原帝(かしわばらてい)←山部(やまべ)親王←山部王
 (737-806) 伝五十代天皇(在位781-806)。光仁(こうにん)天皇の皇子。781父の譲位によって即位し、784長岡京(ながおかきょう)へ遷都するが、785造長岡宮使(ぞうながおかぐうし)・藤原種継(ふじわらのたねつぐ)の暗殺で挫折(ざせつ)、792健児(こんでい)の制を制定し、794和気清麻呂(わけのきよまろ)の勧めで平安京へ遷都、勘解由使(かげゆし)を置き、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を征夷大将軍として蝦夷を征伐、藤原継縄(つぐただ)・菅野真道(すがののまみち)らに正史『続日本紀(しょくにほんぎ)』を編集させた。怨念味 怨霊味 ヤミ味

京都(きょうと)
 現在の京都府京都市。府庁所在地。政令指定都市。ユネスコ世界文化遺産。794桓武天皇による平安京遷都から1868明治天皇による事実上の東京遷都まで日本の帝都として繁栄、明治維新後も文化の中心として発展した。

後醍醐天皇(ごだいごてんのう)←尊治親王(たかはるしんのう)
 (1288-1339) 伝九十六代天皇(在位1318-1339) 後宇多(ごうだ)天皇の皇子。鎌倉幕府倒幕を目指して1324正中(しょうちゅう)の変・1331元弘(げんこう)の変を起こすも事前に発覚、山城笠置山(かさぎやま)で挙兵するが逮捕され、隠岐へ流されるが脱出、名和長年(なわながとし)に迎えられて船上山で挙兵し、楠木正成(くすのきまさしげ)・赤松則村(あかまつのりむら)らの奮戦や、足利尊氏(あしかがたかうじ)・新田義貞(にったよしさだ)らの裏切りによって1333倒幕に成功、建武(けんむ)の新政(中興)を行い、記録所(きろくじょ)・雑訴決断所(ざっそけつだんしょ)・恩賞方(おんしょうがた)・武者所(むしゃどころ)・鎌倉将軍府・陸奥将軍府などを設置、延喜(えんぎ)・天暦(てんりゃく)の治を目指して天皇親政を行おうとするが、1335中先代(なかせんだい)の乱を機に尊氏らが離反、1336湊川(みなとがわ)の戦いで正成が敗死し、義貞が敗走すると、大和吉野(よしの)へ逃れて南朝を樹立、以後没するまで尊氏の擁立した北朝と対立抗戦した。窮地味
子供味

(さかい)
 現在の大阪府堺市。大阪湾に面した港町で、室町時代から勘合貿易や南蛮貿易で繁栄。三十六人の門閥豪商からなる会合衆(えごうしゅう)が町政を執った。織田信長に多額の矢銭(軍資金)を要求されて抵抗したが、結局屈服した。江戸時代は幕府領。

持統天皇(じとうてんのう)
 (645-702)第四十一代天皇(在位690-697)。天智(てんち・てんじ)天皇の皇女。天武(てんむ)天皇の皇后。686夫の死後、継子・大津(おおつ)皇子を粛清し、689実子・草壁(くさかべ)皇子没後690に即位、庚寅年籍(こういんねんじゃく)を作成し、694藤原京に遷都、薬師寺(やくしじ)を完成させ、697皇孫・文武(もんむ)天皇に譲位、701大宝律令(たいほうりつりょう)完成を見届けた。

白河法皇(しらかわほうおう)←白河上皇(じょうこう)←白河天皇(てんのう)←貞仁親王(さだひとしんのう)
 (1053-1129) 伝七十二代天皇(在位1072-1086。院政1086-1129)。後三条(ごさんじょう)天皇の第一皇子。母は藤原公成の娘・茂子。1068父の即位で親王になり、1070立太子、1072父の譲位によって即位し、1086子の堀河(ほりかわ)天皇に譲位して院政(いんせい)を開始、摂関家や弟の輔仁(すけひと)親王を牽制し、北面の武士を設置して武力を強化、東山に法勝寺(ほっしょうじ)を建て、孫・鳥羽(とば)天皇、ひ孫・崇徳(すとく)天皇の即位も見届けて実権を握り続けた。
富豪味

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)≦将軍
 もとは蝦夷(えぞ・えみし)を討伐するための軍事長官。後に武家政権の最高指導者の称号。奈良時代の征夷大使(せいいたいし)・征東(せいとう)大使・征夷将軍などの後身。最初の征夷大将軍は、794に任じられた大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)らしいが、有名なのは坂上田村呂(さかのうえのたむらまろ。797任命)と文室綿麻呂(ふんやのわたまろ。811任命)と源義仲(みなもとのよしなか。1184任命)。1192源頼朝(みなもとのよりとも)就任以後は世襲となり、幕府を開いた。将軍味

関所撤廃(せきしょてっぱい)
 領内の関所を撤廃すること。織田信長・豊臣秀吉は大規模に行い、商業や交通を発展させた。

蘇我入鹿(そがのいるか)蘇我鞍作(そがのくらつくり)
 (?-645) 大臣(おおおみ)。蝦夷の子。643蝦夷より大臣を譲られ、斑鳩宮(いかるがのみや)に山背大兄王(やましろのおおえのおう)を攻め滅ぼして権勢を誇ったが、645中大兄皇子(天智天皇)・中臣(藤原)鎌足らによって飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)にて殺害された。⇒乙巳の変

蘇我馬子(そがのうまこ)
 (?-626) 大臣(おおおみ)。稲目(いなめ)の子。崇仏に努め、587排仏派の物部守屋(もののべのもりや)と有力皇位継承者・穴穂部皇子(あなほべのおうじ)らを討ち、崇峻(すしゅん)天皇を立てるが592に暗殺し、推古(すいこ)天皇を擁立、聖徳太子(厩戸皇子)を太子(摂政)に立てて国政を主導、596飛鳥寺(あすかでら。法興寺)を完成させ、620聖徳太子とともに『天皇記』『国記』を編修した。襲撃味

平 清盛(たいらのきよもり)
 (1118-1181) 武将・公卿。太政大臣。忠盛(ただもり)の子。1156保元(ほうげん)の乱で後白河(ごしらかわ)天皇について勝利し、平治(へいじ)の乱でライバル源義朝(みなもとのよしとも)を討滅、1160武士として初めて参議になり、1167太政大臣に昇進(翌年辞任)、妻の妹・滋子(しげこ)を治天の君・後白河天皇(上皇・法皇)に、娘・盛子(もりこ)を摂関家の藤原基実(ふじわらのもとざね)に、娘・徳子(とくこ)を高倉(たかくら)天皇に嫁がせ、1177鹿ヶ谷(ししがたに)の陰謀で俊寛(しゅんかん)・藤原成親(ふじわらのなりちか)・西光(さいこう)ら反対派を排除、1179後白河法皇を幽閉して院政を停止させ、1180外孫・安徳(あんとく)天皇即位を実現、福原(ふくはら。兵庫県神戸市)遷都を強行し、大輪田泊(おおわだのとまり)を修復して日宋(にっそう)貿易を行った。高齢味

武田信玄(たけだしんげん)←武田晴信(はるのぶ)
 (1521-1573) 武将。甲斐等守護。信虎(のぶとら)の子。1541父を追放して家督を継ぎ、1547分国法「甲州法度之次第(こうしゅうはっとのしだい。「信玄家法」とも)」を制定、1542信濃へ侵攻して諏訪頼重(すわよりしげ)を討ち、小笠原長時(おがさわらながとき)・村上義清(むらかみよしきよ)らを撃破、越後の上杉謙信(うえすぎけんしん)と数度交戦し(川中島の戦)、1554駿河の今川義元(いまがわよしもと)・相模の北条氏康(ほうじょううじやす)と同盟を結ぶが(善徳寺の会盟)、1560桶狭間の戦で義元が敗死するや1568駿河に侵攻して今川氏を滅ぼし、1572三方原(みかたがはら)の戦で徳川・織田連合軍を破るが、まもなく病没した(鉄砲で狙撃されたという説もある)。
撤退味 大雪味3 惨敗味 ニセ味

田沼意次(たぬまおきつぐ)
 (1719-1788) 老中。意行(もとゆき)の子。九代将軍・徳川家重(いえしげ)の小姓となり、1758評定所に出座して幕政を主導、遠江相良藩主となり、1767側用人1769老中格1772老中に就任、株仲間を公認し、専売制を拡大、貿易を振興して鉱山・新田・蝦夷地開発を行ったが、物価高騰し、賄賂(わいろ)政治が横行、1772明和の大火や1783浅間山の大噴火、1782-1787天明の飢饉や子・意知(おきとも)の暗殺になどよって1786失脚した。
金品味

天智天皇(てんちてんのう・てんじてんのう)←中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)
 (626-671)伝三十八代天皇(在位668-671)。舒明(じょめい)天皇の皇子。母は皇極(こうぎょく)・斉明(さいめい)天皇。中臣(藤原)鎌足とともに645蘇我蝦夷・入鹿父子を滅ぼし(乙巳の変)、叔父の孝徳(こうとく)天皇を擁立し、皇太子として大化の改新を断行、654孝徳天皇没後は母を立て、皇太子のまま執政、663白村江(はくすきのえ・はくそんこう)の戦で唐・新羅に大敗した後、667近江大津宮(おうみのおおつのみや)に遷都し、668近江令(おうみりょう)を編集、670庚午年籍(こうごねんじゃく)を作成した。工作味 ウソ味 日朝味5

天武天皇(てんむてんのう)←大海人皇子(おおあまのおうじ)
 (631?-686)第四十代天皇(在位673〜686)。舒明天皇の皇子。天智天皇の弟。672壬申(じんしん)の乱で大友皇子(おおとものおうじ)を破り、飛鳥浄御原宮(あすかきよみはらのみや)で即位、684八色(やくさ)の姓(かばね)を制定し、飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を編集させた。

徳川家斉(とくがわいえなり)
 (1773-1841) 江戸幕府十一代将軍(在職1787-1837)・大御所。御三卿の一・一橋治済(ひとつばしさだ)の子。陸奥白河藩主・松平定信(まつだいらさだのぶ)を登用し、寛政(かんせい)の改革を行わせるが、定信の失脚後は大御所時代の現出、豪華な生活をし、妻四十一人から五十五人の子女をもうけた。
改革味

徳川家光(とくがわいえみつ)
 (1604-1651) 江戸幕府三代将軍(在職1623-1651)。秀忠(ひでただ)の子。乳母・春日局(かすがのつぼね)に育てられ、1623父から将軍職を継承、1632父の没後は幕政を主導し、武家諸法度(ぶけしょはっと)を改正して参勤交代(さんきんこうたい。参勤交替)を制度するなど幕藩体制を確立させ、踏絵(ふみえ)を実施してキリスト教を禁圧し、鎖国(さこく)を断行、1637-1638天草四郎(あまくさしろう)らが起こした島原(しまばら)の乱を鎮圧した。
富豪味

徳川家康(とくがわいえやす)←松平元康(まつだいらもとやす)←松平元信(もとのぶ)
 (1542-1616) 武将。江戸幕府初代将軍(在職1603-1605)・大御所。三河岡崎(みかわおかざき)城主・松平広忠(まつだいらひろただ)の子。1560桶狭間(おけはざま)の戦後に岡崎城主となり、織田信長と同盟を締結、今川氏を滅ぼして遠江浜松(とおとうみはままつ)城主となるが1572三方原(みかたがはら)の戦で武田信玄(たけだしんげん)に惨敗、1575長篠(ながしの)の戦で武田勝頼(かつより)を撃退し、1582本能寺(ほんのうじ)の変後、1584小牧(こまき)・長久手(ながくて)の戦後に豊臣秀吉と講和、1590小田原(おだわら)攻めに従って武蔵江戸(えど)城主となり、関東を統治、五大老に列し、秀吉の死後の1600関ヶ原の戦で石田三成らを撃破、1603征夷大将軍となって江戸幕府を開き、1605将軍職を秀忠(ひでたた)に譲渡、駿河府中(するがふちゅう)に退くが、大御所として実権を掌握、1614〜1615大坂の役で豊臣秀頼(ひでより)を滅ぼし、1615武家諸法度(ぶけしょはっと)・禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)・一国一城令(いっこくいちじょうれい)などを定めた。惨敗味 変節味
裏金味4 籠城味

徳川吉宗(とくがわよしむね)
 (1684-1751) 江戸幕府八代将軍(在職1716-1745)。紀伊和歌山藩主・徳川光貞(みつさだ)の子。1705紀伊藩主として藩政改革を行い、1716将軍に就任して1716-1745享保(きょうほう)の改革を断行、有馬氏倫(ありまうじのり)・加納久通(かのうひさみち)を側御用取次(そばごようとりつぎ)に、大岡忠相(おおおかただすけ)を江戸町奉行に、勘定奉行に神尾春央(かんおはるひで)を登用し、御庭番(おにわばん)を新設、1720町火消(まちひけし)・1721目安箱(めやすばこ)・1722小石川養生所(こいしかわようじょうしょ)を設置し、倹約令・1719相対済令(あいたいすましれい)・1722質流し禁止令・1723足高(たしだか)の制などを制定、定免法(じょうめんほう)を採用し、1720漢訳洋書輸入緩和・1722上米(あげまい)・株仲間公認などを実施、新田開発や甘藷(かんしょ。サツマイモ)・甘蔗(かんしゃ。サトウキビ)・櫨(はぜ)・朝鮮人参栽培を勧め、1742『公事方御定書(くじがたおさだめがき)』を完成、1745息子・家重(いえしげ)に将軍職を譲り、大御所として後援した。

鳥羽法皇(とばほうおう)←鳥羽上皇(じょうこう)←鳥羽天皇←宗仁親王(むねひとしんのう)
 (1103-1156) 伝七十四代天皇(在位1107-1123。院政1129-1156)。堀河(ほりかわ)天皇の第一皇子。母は藤原実季(ふじわらのさねすえ)の娘・苡子(いし)。1103即位し、1123祖父・白河(しらかわ)法皇の命によって崇徳(すとく)天皇に譲位、1118最勝寺(さいしょうじ)を建立し、1129法皇没後に院政を開始、祖父に避けられていた藤原忠実(ふじわらのただざね)を再登用し、1141近衛天皇を擁立、1155その没後は白河天皇を擁して崇徳上皇と対立し、1156の保元(ほうげん)の乱の原因を作った。
泥酔味

豊臣秀吉(とよとみひでよし)←羽柴(はしば)秀吉←木下藤吉郎(きのしたとうきちろう)
 (1537-1598) 武将。関白・太政大臣。織田信長に仕えて出世し、1573近江長浜(おうみながはま)城主となり、1577中国攻めを開始、1582備中高松(びっちゅうたかまつ)城攻撃中に信長横死の知らせを受け、山崎(やまざき)の戦で明智光秀(あけちみつひで)を、1583賤ヶ岳(しずがたけ)の戦で柴田勝家(しばたかついえ)を滅ぼし、石山本願寺(いしやまほんがんじ)跡に大坂(おおさか)城を築城、1584小牧・長久手の戦を経て徳川家康と講和、1585関白となって紀伊の根来(ねごろ)・雑賀(さいが)一揆を、四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を降し、1586太政大臣に就任、1587九州の島津義久を、1590東北の伊達政宗(だてまさむね)・最上義光(もがみよしあき)らを、関東の北条氏政(ほうじょううじまさ)・氏直(うじなお)を降して天下を統一、太閤検地(たいこうけんち)や刀狩(かたながり)を行い、バテレン追放令や身分統制令などを発令、聚楽第(じゅらくだい)や伏見城を築いたが、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)は失敗した。 怪談味2 地震味4 日朝味7 芸人味変化味 花見味 変節味

長島一向一揆(ながしまいっこういっき)=長島一揆
 伊勢長島の願証寺(がんしょうじ)を本拠とした一向宗門徒の自治組織。1570織田信長討伐を目指す本願寺法主・顕如(けんにょ)の命令で蜂起し、尾張小木江(こきえ・おぎえ)城の織田信興(のぶおき)を討ち、柴田勝家(しばたかついえ)を撃退するなど何度も信長軍を退けたが、1574ついに敗れて虐殺された。
騒乱味 暴力味

日本(にほん・にっぽん・やまと)≧日本国(にっぽんこく・にほんこく)
 東アジアにある国。古くは倭(やまと)と呼ばれたが、天武天皇の頃(七世紀後半)に改め、八世紀からは国際的にも使用するようになった。1889大日本帝国憲法制定により「大日本帝国」になるが、1946日本国憲法公布により「日本国」となった。現在の首都は東京。

念仏(ねんぶつ)
 仏の名を口にすること。浄土宗(じょうどしゅう)や浄土真宗(じょうどしんしゅう)で、「南無阿弥陀仏(なむあみだぶつ)」と唱えること。

比叡山(ひえいざん)=叡山(えいざん)
 京都府京都市と滋賀県大津市の境を成す山。標高八四八メートル。山頂に延暦寺(えんりゃくじ)が、山麓に園城寺(おんじょうじ)がある。

日野富子(ひのとみこ)
 (1440-1496) 将軍代。政光(まさみつ)の女。八代将軍・足利義政(あしかがよしまさ)夫人。1455義政に嫁ぎ、1465義尚(よしひさ)を出生、義弟・義視(よしみ)との将軍後継問題が応仁の乱の一因となり、1473義尚を将軍として幕政を主導、米相場・高利貸・新関設置・賄賂徴収等蓄財に励んだ。

藤原仲麻呂(ふじわらのなかまろ)→恵美押勝(えみのおしかつ)
 (706-764) 公卿。大師(たいし。太政大臣)。南家の祖・武智麻呂(むちまろ)の子。聖武(しょうむ)天皇の大仏造立に協力し、光明皇后(こうみょうこうごう)に取り入って749紫微令(しびれい)・紫微内相(しびないしょう。内臣に相当)に就任、757橘奈良麻呂(たちばなのならまろ)の反乱を未然に防ぎ(橘奈良麻呂の変・乱)、758舎人親王(とねりしんのう)の王子・淳仁(じゅんにん)天皇を擁立、大師に昇って栄華を極めるが、764孝謙(こうけん)上皇のお気に入り・道鏡(どうきょう)の排除を図って挙兵し、近江で敗れて殺された(恵美押勝の乱)。
辞任味日朝味6

藤原道長(ふじわらのみちなが)
 (966-1027)公卿。摂政・太政大臣。藤原兼家(かねいえ)の子。995兄の道隆(みちたか)・道兼(みちかね)の死によって内覧となり、996長徳の変で政敵の藤原伊周(これちか)・隆家(たかいえ)兄弟を追放、左大臣に昇り、四人の娘(彰子・妍子・威子・嬉子)を四人の天皇(一条・三条・後一条・後朱雀)に嫁がせ、天皇の外戚として権力を掌握、1016摂政に、1017太政大臣に就任して摂関政治の最盛期を現出、1020法成寺(ほうじょうじ)を建て、日記『御堂関白記(みどうかんぱくき)』を残した。満月味 テロ味2
安倍味5

藤原頼通(ふじわらのよりみち)
 (992-1074)公卿。摂政・関白・太政大臣。道長の長男。母は源倫子(りんし)。1003正三位となり、1017摂政内大臣に就任、1019父の出家後に関白となり、1021左大臣に昇進、1053宇治に平等院鳳凰堂を建て、1061太政大臣に就任、1064弟・教通(のりみち)に氏長者を譲り、1068政界から引退して宇治に住んだ。
総理味

本願寺(ほんがんじ)
 京都市下京区所在。浄土真宗の本山。1272親鸞(しんらん)の娘・覚信尼(かくしんに)が父の遺骨を改装し、木像を安置したのが起源。十一世法主・顕如(けんにょ)の代に現在地に移り、その長男・教如(きょうにょ)と三男・准如(じゅんにょ)の代に後継争いが起こり、東・西本願寺に分裂した。

マッカーサー(Douglas MacArthur)
 (1880-1964) アメリカの軍人政治家。連合国軍(GHQ)最高司令官。陸軍に入り、1930参謀総長に就任、1935フィリピン軍事顧問になり、1941極東軍事司令官として日本と戦うが敗れ、1942オーストラリアに脱出するが反撃、ニューギニア奪回作戦・1944レイテ島上陸作戦などを成功させ、元帥(げんすい)に昇進、1945連合国軍最高司令官となり、日本の非武装化・民主化等の占領政策を遂行、1950朝鮮戦争で国連軍最高司令官を兼ねるが、1951トルーマン大統領と対立して解任された。

松平定信(まつだいらさだのぶ)
 (1758-1829) 将軍補佐(在職1788-1793)・老中首座(在職1787-1793)。陸奥白河(福島県白河市)藩主。田安宗武(たやすむねたけ)の子。徳川吉宗(とくがわよしむね)の孫。田沼意次(たぬまおきつぐ)によって松平家に養子に出され、1783家督相続、1787老中首座となり、1788将軍補佐を兼任、倹約令・旧里帰農令・棄捐(きえん)令・寛政異学の禁・物価引下げ令・出版統制令・赤子養育法などを発令し、囲米(かこいまい)・七分積金(七分金積立)などを制定、人足寄場・昌平坂学問所を設置するなど1783-1793寛政の改革を断行するが、1789尊号事件や大奥の不満などで失脚、白河帰国後は学問興隆・殖産興業を勧め、『白河風土記』を編集、『宇下一言(うげのひとこと)』『花月草紙』など多数の著作物を残した。

水野忠邦(みずのただくに)・水野越前守(えちぜんのかみ)
 (1794-1851) 幕閣。老中(在職1828-1843,1843-1844)。肥前唐津(佐賀県唐津市)→遠江浜松(静岡県浜松市)藩主。忠光(ただあきら)の子。1815奏者番(そうじゃばん)、1817寺社奉行、1825大坂城代、1826京都所司代を経て1828老中に昇進、1839老中首座になり、1841-1843天保の改革を断行、1841質素倹約・風紀粛清などを行い、株仲間を解散、1842アヘン戦争に勝利したイギリスを意識して下田(しもだ)・羽田(はねた)・1843新潟奉行を設置し、人返しの法を発令、印旛沼(いんばぬま)を干拓するが、上知令(あげちれい。上地令)を老中・土井利位(どいとしつら)らに反発されて失脚した。改革味

源頼家(みなもとのよりいえ)
 (1182-1204) 武将。鎌倉幕府二代将軍(在職1202-1203)。頼朝(よりとも)の子。実朝(さねとも)の兄。母は北条政子(ほうじょうまさこ)。父の死後に家督を継いで将軍となったが、北条時政(ときまさ)など有力御家人に実権を奪われ(十三人の合議制)、1203巻き返しをはかるも失敗、妻の父・比企能員(ひきよしかず)と息子・一幡(いちまん)は殺され、自身も失脚して伊豆修禅寺(しゅぜんじ)に幽閉され(比企能員の乱)、1204時政に殺されたという。

雄略天皇(ゆうりゃくてんのう)←大泊瀬皇子(おおはつせおうじ)=大泊瀬幼武皇子(おおはつせわかたけのおうじ)
 (418?-479?) 伝二十一代天皇(在位456?-479?)。允恭天皇の皇子。安康天皇の弟。安康天皇没後、八釣白彦(やつりしらひこ)皇子・坂井黒彦(さかいのくろひこ)皇子・眉輪王(まよわおう・まゆわおう)・葛城円(かつらぎのつぶら・かずらきのつぶら)・市辺押磐(いちのべのおしは)皇子を殺して泊瀬朝倉宮(はつせのあさくらのみや)で即位した。倭王武とされる。
非行味 日朝味1

吉田 茂(よしだしげる)
 (1878-1967) 政治家。首相(在職1946-1947,1948-1954)。竹内綱(たけのうちつな)の子。吉田健三の養子。戦前は外交官として駐英大使まで昇り、戦後は東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみやなるひこおう)内閣・幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)両内閣で外相に就任、1946公職追放された鳩山一郎(はとやまいちろう)の要請で日本自由党(後の民主自由党・自由党)総裁として組閣、傾斜生産方式をとり、経済安定九原則実施に着手して財政再建に努め、日本国憲法の公布と施行、警察予備隊・保安隊(自衛隊の前身)・海上保安庁の設置、サンフランシスコ講和条約・日米安全保障条約の締結し、奄美諸島返還を実現させた。
富豪味

楽市(らくいち)
 戦後大名が行った商業活性政策。市場税を廃止し、自由に市を開くことができるようにした。

楽座(らくざ)
 戦後大名が行った商業活性政策。楽市令にある規定の一。特権的な販売座席・市座を廃止し、自由に座を開くことができるようにした。

蓮如(れんにょ)
 (1415-1499) 僧。浄土真宗(じょうどしんしゅう)僧。本願寺(ほんがんじ)八世法主。存如(ぞんにょ)の子。1457法主となって近江に布教を拡大、1465対立する延暦寺(えんりゃくじ)に本願寺を焼かれるが、1471越前に吉崎道場(よしざきどうじょう)を創建して北陸布教を開始、1478山科(やましな)本願寺を、1496石山(いしやま)本願寺を建立し、畿内でも本願寺教団の勢力、二十七人の子を成した。

歴史チップス ホームページ

inserted by FC2 system